密かに忍び寄る終焉(4)
その日、授業を終えて放課後になると、歌子に連絡を取って、校舎特別棟の非常階段に呼び出した。避難訓練のときくらいしか活用されない外階段であり、生徒も教師も常時は滅多に通りかからない。秘密の会話をするのにはもってこいの場所だ。幸い天気も良く、雨の心配はしなくてよい。
わざわざ歌子に来てもらったのは相談したいことがあったからだ。契約のことは、同じく契約者である退魔師に訊くのがいいと思ったのだ。だが、京介が未明の出来事を話すと、歌子は難しい顔で唸ってしまった。
「契約紋が痛む、ねえ……」
しばらく記憶を探ってくれたようだが、歌子は結局首を横に振った。
「そんな症状、私は聞いたことないわ」
「そうか……」
「ごめんね、役に立てなくて」
「いや、いいんだ」
「でも、気になるわね。夜中に突然? 今日が初めて?」
「ああ、初めてだ。ただ、感覚としては、千鳥八尋に『蠍』を使われた時の痛みに似ている」
「でも千鳥は捕まってるし、芙蓉さんも、特になんともないのよね?」
「ああ。俺の取り越し苦労ならいいんだけど……」
「竜胆さまには訊いてみた?」
「竜胆ばあさまか……確かに、何か解るかもしれないな」
戦闘にはほとんど関わろうとしない竜胆だが、その他については情報通だ。何か知っているかもしれない。
竜胆に、ただの思い過ごしだと言ってもらえれば安心できる。
けれど、もしそうでなかったら――
そう考えていると、不意に歌子が顔を覗き込んできて、京介の眉間を指でつついた。はっと我に返って、目を瞬かせる。
「すっごい皺。難しい顔しちゃって」
「そんなにか?」
「芙蓉さんのこととなると、心配症ね、京介君」
「おかしいかな」
「ううん。私も、紅刃に何かあったら取り乱しちゃう。大事な相棒だものね。じゃ、竜胆さまのところ、行きましょうよ」
歌子は現在、竜胆邸に居候している。行先は一緒だ。二人は連れ立って歩き出す。
歩きながら京介は思案する。どうやら自分に起きている現象は、歌子でも聞いたことのない現象、つまり異常なことなのだと解った。
普通ではない契約の証に、普通ではない何かが起きている。水面下で取り返しのつかない何かが進行しているような、言いようのない不安に駆られる。歌子の提案通り、早急に竜胆に相談すべきだろう。
校舎前のロータリーのあたりに差し掛かった時、
「お、きょーすけじゃん。歌子ちゃんも」
名前を呼ばれて振り返ると、昇降口から潤平と美波が出てきたところだった。
「二人とも、今帰るところか」
尋ねると、潤平は少しばつの悪そうな顔をする。
「いやぁ、今日提出の英語の課題、やるの忘れててさあ。美波のスパルタ指導を受けながらダッシュで終わらせてきたとこなんだ」
「一年生に教わるなよ」
「受験の範囲ってのは三割くらいは一年のところから出るんだから、美波の方が詳しいのは当然だろ。だから俺が美波よりできなくても恥ずかしくない」
「恥ずかしすぎるだろ受験生」
隣では美波が呆れ果てた溜息をついていた。
「もう兄さんは京介さんがいないとてんでダメなんですよ。受験生だというのに、困ります」
「おい美波、そりゃ確かに事実だけど、そこはどちらかというと、『私がいないとダメなんですよ~』って言ってツンデレアピールをするべきとこあ痛ッ!」
言ってる最中に、美波は潤平の爪先を踏みつけた。いつも通りの潤平と美波のやり取りを見て、歌子がくすりと笑い、意味ありげな視線を寄越してきた。
いつもどおり賑やかになったわね、と言いたそうなのが解った。
潤平がいつものように馬鹿をやって、美波が冷たくあしらって、歌子がそれを笑いながら見守っていて。相変わらずの日常で、安心する。ぴりぴりとしていた神経が、少し休まるような気がした。
その時――ぴちゃん、と水が落ちるような音が響いた。
「……?」
やけに鮮明に響いた水音にはっとする。瞬間、まるで波紋が広がるかのように、京介たちを中心に淡い光が放射状に広がっていき、視界を覆う。文化祭の時、雨森酸塊が使ったものに近い、結界術の一種だ。現実世界の一部を切り取り、複製し、異空間を作り出す。周囲にちらほらと見受けられた生徒たちの姿が消え、京介たち四人だけが取り残される。
「何だ!?」
「これは……!」
潤平が泡を食い、歌子が警戒して素早く銃を抜いた。
「まさか、こんなところでいきなり敵襲なわけ?」
「らしいな」
結界術によって校舎前の一画が異空間となり周りから隔絶されると、京介たちを取り囲むように、周りに無数の魔法陣が浮かび上がり、そこから大量の人影が湧き出す。転移してきたのは、新緑色の制服を着た男たちで、全員が杖を携えている。
人造式神か、と一瞬思ったが、違う。彼らは全員、魔術師だった。
「て、敵多くない? 京介君」
歌子が若干引き攣り気味の顔で声を上擦らせた。
「多勢に無勢だな」
「これはちょっと、ね」
「ああ」
以心伝心、京介は右手の契約紋を掲げ、歌子は鎖骨の下の契約紋に触れる。
「頼む、芙蓉姫!」
「お願い、紅刃!」
光の奔流が螺旋を描き、それぞれの相棒を喚び出す。不遜な表情の芙蓉と、不敵に微笑む紅刃が、揃って現れる。
目の前の四面楚歌な状況を一瞥し、芙蓉は嘆息する。
「またぞろ厄介ごとに巻き込まれたらしいな、京介」
「お嬢、いつの間にこんな大勢敵に回したのー?」
「私が訊きたいわよっ」
面白がるように言う紅刃に、歌子は頬を膨らませた。
京介は呪符を片手に、敵の出方を慎重に見極める。
と、こつん、と固い足音が響く。前方、壁のように群れていた男たちがさっと両側に別れて道を譲る。ゆっくりと歩いてきて顔を出した相手は、見覚えのある女性だった。
「どうか、抵抗はしないでいただきたいですな。我々も、一般人のいる前で流血沙汰は起こしたくありませんゆえ」
慇懃な態度で脅すように告げたのは、中央会魔術師、高峰蓮実だった。
京介は状況が理解できず戸惑う。
彼女がいるということは、取り囲んでいる制服魔術師たちは、中央会の手勢ということか。だが、彼らに包囲されるいわれはないはずだ。
「高峰、さん? これは、いったい……」
動揺を必死で押し留めながら問うと、蓮実は淡々と言った。
「不破京介殿。あなたには殺人未遂、および式神略奪の嫌疑がかかっています。我々は、あなたを拘束します」
「なっ……?」
予想だにしなかった言葉に、京介は絶句する。悪い冗談としか思えない言葉だった。だが、蓮実はとても冗談を言っている様子ではない。おまけに周りには臨戦態勢の魔術師が大勢。全員本気だ。
二の句が継げないでいる京介に代わって、先に反駁したのは歌子だった。
「はぁ? 馬鹿言ってんじゃないわよ。エイプリルフールはとっくに終わったわよ。てか、冗談にしてもタチが悪いわ。京介君がそんなことするわけないでしょうが」
「冗談を言ったつもりはありません。あなたがたに対してどんな顔を見せていたかは存じませんが、そこにいるのは凶悪な犯罪魔術師であります」
酷く刺々しい言葉に、頭をがつんと殴られたかのような錯覚を覚える。そして、それとは別に、右手の痛みがぶり返してきていた。こんなときに、と京介は忌々しく思い、舌打ちしたくなるのをやっとのところで堪えた。
できる限り平静を保ち、京介は蓮実を見据える。
「そんなの、全部デタラメだ。いったい、何の根拠があって」
「根拠ならあります。あなたに殺されかけた被害者本人が、あなたを告発したのです」
「――僕にとどめを刺さなかったのは失敗だったようだね、不破京介。大方、どうせ助からないだろうと高をくくっていたんだろうけど、こうして生還したよ、僕は」
響いてきたのは、聞き覚えのない男の声だった。だが、その声を聞いた瞬間、微かな、聞き逃しそうなほどに小さな、悲鳴のような声が聞こえたのに、京介は気づいた。京介は目を見開き、芙蓉を見遣る。今の声は確かに、芙蓉の口から漏れていた。
芙蓉を見て、京介は信じられない思いで瞠目した。
芙蓉が、小さく震えていたのだ。まるで、化け物を目の当たりにして恐怖するかのように、目を見開いて、自分の体を両手で抱いて、震えていた。
「芙蓉……!?」
しっかりしろ、と名を呼ぶと、芙蓉がぎこちない動きで京介の方を見る。芙蓉が、泣きそうな顔で京介を見つめてきた。あの芙蓉姫が、こんな表情を見せるなんて、異常以外の何物でもない。
「京介……」
だが、そんな心細そうな顔を見せたのは一瞬だった。やがて芙蓉は、何かを諦めたような表情を見せ、俯いた。
ずきずきと右手が痛む。厭な予感がしていた。恐る恐る、京介は右手を持ち上げた。
本当は、どこかで解っていたのかもしれない。だが、無意識のうちに、考えないようにしていた。目を逸らそうとしていた。信じたくなかったのだ。
だが――芙蓉が恐怖する理由と契約紋が痛み出した原因。それはもう、京介にとっては明らかだった。
京介は誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「……時間切れか」
ぱぁん、とガラスが砕けるような音が響き渡り、京介の右手の契約紋が砕けた。
「――っ!!」
京介は愕然とし、悔しげに唇を噛む。右手から、契約紋は跡形もなく消え去った。
契約の対象が死んだわけでも、契約を破棄したわけでもないのに、契約紋が勝手に消滅する。そんなこと、通常ならあり得ない。だが、実際に京介から主人の証は失われた。今となっては、京介にはもう、見なくても解る、対となる芙蓉の体の紋章は健在だろう。京介に刻まれた契約紋だけが壊れたのだ。
「う、嘘……なんで、京介君の契約紋が……」
傍らでは歌子が狼狽して声を上擦らせていた。潤平は、状況についていけずに目を白黒させている。
そして、契約紋が消えたタイミングを見計らったかのように、声の主が蓮実の後ろから顔を出した。
若い男はうっすらと微笑みを浮かべ、まるであてつけのように、見せつけるように、花弁の契約紋――芙蓉の主である証が刻まれた右手を胸に当てながら名乗った。
「王生樹雨……この名を忘れたとは言わせないよ、不破京介」
再会した風なことを言う男だが、京介は初めて見る顔だった。しかし、見た瞬間、この男は敵だと理解した。
「――不破京介殿。あなたは、三年前、王生樹雨殿を襲い、彼の式神であった芙蓉姫を略奪した、そうでありますな?」
「ふざけるな」
問い詰めてくる蓮実に、京介は反射的に固い声で反駁する。
「まさか、中央会はその男が吹き込んだデタラメを真に受けたのか。芙蓉がそいつの式神で、俺が奪った? 冗談じゃない!」
「見苦しいね。僕は真実を彼らに伝えただけだよ。もう、言い逃れできるとは思わない方がいい。なんなら、彼女本人の口から言ってもらおうか。そのほうが、手っ取り早い」
「!」
「芙蓉姫、君の主人の名前を、教えてくれるかな」
王生の言葉に、俯いていた芙蓉がゆっくりと顔を上げる。翳りのさした紫苑の瞳が王生をまっすぐに捉え、唇が薄く開く。
思わず、京介は叫んでしまう。
「駄目だ、芙蓉!」
「私の主は」
芙蓉の声は震えることなく、誰の耳にもはっきりと届く。
「私の主は、王生樹雨だ」




