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密かに忍び寄る終焉(3)

 高校復帰二日目の夜、京介のさして広くないアパートの一室に、潤平、美波、歌子の三人がつめかけていた。四人で卓袱台を囲み、持ち寄った手料理を広げ、グラスにウーロン茶を注ぐ。

 グラスを片手に、潤平が乾杯の音頭を取る。

「えー、今日一日が平和に終わったことと、今日も相変わらず美波が可愛いことと、ついでにきょーすけの快気を祝って、乾杯!」

「かんぱーい」

 カチン、とグラスを軽快に鳴らし、歌子は陽気に応じる。京介と美波はグラスをぶつけながらも、潤平らしいぐだぐだな音頭に呆れ、卓袱台の下で密かに潤平の脚を蹴飛ばしていた。

 「ついで」扱いしてはいるものの、京介の復帰祝いをしようと言い出したのは潤平である。放課になるやてきぱきと段取りを決めて、美波と歌子が二つ返事で賛同し、炊事がてんでダメな潤平に代わって女性陣が料理を作って持ってきてくれた。京介も慌てて、しばらく空けていたせいで少々埃っぽくなっていた部屋を掃除して、戸棚の奥から来客用のお洒落なグラスを引っ張り出した。

「いやあ、一時はどうなることかと思ったけど、これでようやく受験に専念できるな、きょーすけ」

「京介君、夏休みはあんまり勉強できなかったんじゃないの? 大丈夫?」

「病室では他にやることなくて勉強ばっかりやってたからたぶん大丈夫。最近は平和な感じだし、この調子なら問題ないと思う」

「京介さん、第一志望は神ヶ原大学でしたっけ」

「俺と同じとこ目指してるんだよなー」

 美波の問いに潤平が先に答え、「あなたには訊いていません」とばかりに美波が冷たい視線を送っていた。とはいえ、潤平の言っていることは一応正しい。京介が心理学部で、潤平が情報学部を志望している。

「解りました。私も二年後は心理学部を目指すことにします」

「え? いや、進路はもう少し慎重に考えた方が」

「美波、俺と一緒のとこ目指してもいいんだぜ。神大情報学部」

「そちらには絶対行きません」

「理不尽!」

「だいたい兄さん、まだ神大に行けると決まったわけじゃないですよね」

「うっ」

「しかも、こないだの模試の結果だと、微妙なラインでしたよね」

「ぐっ……いや、まあ、なんとかなるだろ、これから本気出すんだよ、なあ京介?」

「このタイミングでまだ本気出してないって、ヤバくないか?」

「潤平さんって、意外と度胸あるっていうか後先考えないっていうか」

「それ、前と後とでだいぶ印象違うんだけど」

 確かに潤平は度胸があるし、後先を考えない。その彼らしさに幾度となく助けられた京介は、そう思う。ただ、こと受験に関しては、度胸はともかく、後先は考えてほしい。とりあえず早く本気を出せ。

「私たちも、二年後には受験ですね、歌子さん」

「まぁ、まだ先よね。こないだよーやく高校受験終わったとこなんだし、あと一年くらいは受験のことは考えたくない」

「ふふ、確かにそうですね」

「つーか、そもそも歌子ちゃんはやっぱ進学希望なのか?」

「まあね。今のところ、特にこれっていう勉強がしたいわけじゃないんだけど、就職しようと思ったら大学は出ておかないとって……なんだか典型的なぐだぐだ高校生みたいなこと言ってるわね」

 歌子は自分の言葉に自分で苦笑した。

「就職……退魔師でも普通に就職するのか」

 潤平が意外そうに訊く。

「退魔師の仕事は続けてくつもりだけど、家は継がないもの。次期当主は兄様だし、万が一兄様に何かあっても、スペアには姉様がいる。どう転んでも、私に出番はナシ。最初っからそう決まってて、私も解ってたから、もうお家のこととか正直どーでもいいの。てか、もう勘当されたし」

 紅刃と一緒にいられることが彼女にとっては重要であるので、勘当されたという重大なことについても、歌子はあっけらかんとした調子で語る。

「それで、ふつーに就職?」

「そ。今の仕事は裏の副業って感じで。正直、この仕事だけじゃ生活していけないわ。駄目よ、退魔師を本業にしちゃ。退魔師なんてね、健康保険も厚生年金も、雇用保険も労災もない、ブラックな仕事なのよ。高校生のアルバイトにしてみればいい報酬かもしれないけど、自分で生計維持してこうって思ったら定職につかないと。ねえ、京介君?」

「ブラックかどうかはともかく、俺もそうするつもり。ばあさまもそうしろって言うし。仕事二つ両立させんのは大変だろうけど、実際今までも、学校と仕事は二つやってきてたわけだからな」

「ま、多少大変でもやってやるわよ。そりゃ、一人じゃ無理かもしんないけど、私には紅刃がいるから、なんとかなるでしょ、って思うのよね」

 京介君もそうでしょ、と言うように、歌子は京介に目線をくれる。

 京介もまた一人ではない。京介には芙蓉がいる。

 芙蓉という心強い相棒がいる限り、多少の困難や障害ではへこたれないだろう。きっと何とかなるだろう、と思える。

 だが、京介はふと思う。

 芙蓉はいったい、いつまで自分の隣にいてくれるだろうか、と。

 それは歌子たちのように「ずっと」ではない。

 ちりちりと、胸の奥が焦げ付くような、一抹の不安。

 それには気づかず、隣では潤平がいつものように冗談を言っている。

「きょーすけも歌子ちゃんも、将来のことちゃんと考えてるんだなぁ。俺ももう少し真面目に考えようかな、俺と美波の未来について」

「そろそろうざくなってきましたねこのテンション」

 美波が呆れかえった顔をして、テーブルの下で堂々と潤平の脚に制裁を加えていた。


★★★


 相馬誠の突然の自害。その件について、新たな情報がもたらされたと報告を受け、高峰蓮実は応接室に足早に向かった。情報提供者は直接話をしたいと言って、わざわざ中央会本部にまで足を運んでくれたのだという。

 相馬誠がなんのために葛蔭悟の逃亡を幇助したのかについては、葛蔭が死亡し、相馬までも自害したため、詳細はほぼ不明だった。驚くべきことに、相馬は魔術師たちからの厳しい尋問に、五か月近くも耐えきったのだ。そういうわけだから、どんな小さなことでも情報が欲しいところに、降って湧いた情報提供。正直、蓮実は藁にも縋る思いだった。相馬という裏切り者に中央会内部までみすみす潜り込まれて、しかもロクに情報を引き出せないうちに自害されてしまったため、中央会のメンツは丸つぶれ状態だったのだ。ここでどうにか挽回できれば、という思いがあった。

 応接室に踏み入れると、待っていた男がすっとソファから立ち上がり、柔和な笑みを浮かべた。

「わざわざお時間を割いていただいてありがとうございます。どうしても、お伝えしたいことがあったもので」

「相馬誠のことについて、御存じのことがあると伺いましたが」

 蓮実は男に座るよう勧めてから、自分もテーブルを挟んで向かいに座る。

「申し遅れました。私は魔術師中央会所属、捜査課捜査第一係長、高峰蓮実と申します」

「僕は王生樹雨といいます。しがない退魔師をやってます。もっとも、ここ三年ほど、休業していたんですけれど」

「体を悪くされたのですか」

「かなり大きな傷を負いまして、三年近く昏睡状態でした。実を言えば、ついこないだ目覚めたばかりでして」

「それは、奇跡的なことですね」

「で、目が覚めてびっくりですよ。僕をそんな目に遭わせた犯人、てっきり捕まっているかと思えば、のうのうと生活している。僕一人でなんとかしようかとも思いましたけど、返り討ちに遭う可能性がありますから、中央会に協力を頼もうかと。丁度、中央会に拘束されていた、相馬誠という男とも関係のある話でして」

「いったい、何があったのですか」

「その男と相馬誠は、以前は仲間だったんです。二人は、他者の式神を奪う卑劣な輩です。二人はかつて僕を襲いました。僕を殺して、式神を奪おうとしたのです。幸い、僕は一命を取り留めましたが、どういう術を使ったのか、式神は奪われてしまいました」

「式神を、奪う?」

 不穏な言葉に蓮実は眉を寄せる。それはまるで、以前に事件を起こした千鳥八尋のようではないか。まさか、千鳥八尋と相馬誠はつながっていたのか? いや、千鳥八尋は既に収監されている。王生のいう男が千鳥のことなら、「のうのうと生活している」などと言うはずがない。

「相馬が得意としていたのは、式神の心に語りかけ、心を惑わす術です。式神が主から心離れするように仕向けるわけです。黒幕の方はもっと直接的に、主人を殺して式神を奪おうとしていました」

「なんと卑劣な」

「もっとも、僕との一件の後、二人は仲違いしたらしいですけど。相馬の方は、御存じのとおり、善良な魔術師のふりをして中央会に潜り込みました。彼のことですから、収監されている妖怪に、自分が欲しいような強い妖怪がいないか、物色していたのでしょう。葛蔭悟という犯罪者の逃亡を幇助したとのことですが、それはおそらく、元相棒へ差し向けるためでしょう。自分の手を汚さずに、自分の正体を知る相手の口を封じるためには、因縁のある魔術師を躍らせるのが手っ取り早い」

 まさか、という思いが蓮実の中に噴出する。葛蔭悟が差し向けられた因縁の相手は、誰だったか。

 蓮実の表情を見て取ったか、王生が小さく頷く。

「どうか、僕に力を貸してください。あの卑劣な魔術師を捕え、どうか厳正に罰してください。そして、僕の式神を取り戻させてください」

 王生は真摯に頭を下げ懇願する。

「随分と時間を無駄にしてしまいました。今すぐにでも、僕は僕の式神を取り戻したい」

 よほど大切な式神だったらしいな、と蓮実は思う。

 主人と式神を結ぶ契約という名の絆、それを強引に引き千切り、他者の式神を奪う卑劣な行為を、許してはおけない。千鳥八尋の他にもそんな奴がいて、それを野放しにしていたとは、由々しき事態だ。

 だが、その卑劣な魔術師の正体が、もしも蓮実の頭に一瞬よぎった彼だとしたら。本当にそんなことがありえるのだろうか?

「……して、その黒幕の名前は」

「奴の名は――」

 王生が口にした名前を聞いた瞬間、蓮実は目を見開いた。


★★★


 ズキ、と突如右手に走った激痛で、京介は目を覚ます。

 まだ部屋は暗い、夜半のことだった。

「……っ? な、に……」

 まるで皮膚を剥がされるかのような激しい痛みに目を見開く。痛みに耐えきれず暴れ出しそうになる右手を、咄嗟に左手で押さえつける。だが、そうしても痛みはいっこうに収まらない。

 正体不明の苦痛に、ぞわりと恐怖で肌が粟立った。いったい何が起きている?

 以前に負った怪我が疼き出したとか、そういうものではない。今までに体を酷使したことは幾度となくあったものの、それが祟ってというわけではなさそうだった。

 右手が酷く痛む――否、というよりも、右手に刻まれた契約紋が痛みを発しているかのようだ。

 ふと思い出す。この痛みは、あの時の――千鳥八尋によって芙蓉姫を奪われた時の痛みに、似ている。

 まさか、芙蓉に何かあったのだろうか。

 一度その考えが浮かんでしまうと、その恐ろしい疑念に支配されて、焦燥で頭がいっぱいになる。

「芙蓉……芙蓉姫っ……!」

 不安に駆られ、京介は無我夢中で芙蓉の名を呼んだ。

 契約紋が淡く光を放つ。その瞬間、痛みがすっと引いていく。

 いったい何だったのだろうか、と考える暇もなく、召喚に応じて芙蓉姫が現れ、京介の眼前に降り立った。

「芙蓉……」

 じっとりと汗にまみれた体を起こし芙蓉と目を合わせる。と、直後に芙蓉は京介の頭上に手刀をお見舞いした。

「――いったい何時だと思っているんだ、バカ主!」



 頭がずきずきと痛い。これの原因は解っている。芙蓉渾身の手刀のせいだ。容赦がなさ過ぎて禿げるかと思った。

「こんな夜中に呼び出して、なんの騒ぎだというんだ」

 芙蓉はぷりぷりと怒っている。まあ無理もない、芙蓉の姿はいつか見た純白のネグリジェで、完全に就寝していたところを叩き起こされた様子だ。京介は頭をさすりながら素直に謝る。

「悪い、こんな時間に」

「それで、いったいどうした?」

「どうしたっていうか……なんか、急に心配になって」

「はぁ!?」

 芙蓉は苛立ち全開の声を上げた。どう説明したものか、と京介は悩む。先ほどまでの激痛は、嘘みたいに消えていて、今は殴られた頭だけが痛い。芙蓉もどうやら特に異常はなさそうだし、完全に京介の勘違い、杞憂だった模様だ。

 京介が答えあぐねていると、芙蓉は深く溜息をついた。

「まったく、人の安眠を妨害しておいて、そんな呆けた顔をしおって」

「ごめん」

「まあいい。おい、お前の布団、もっと端に寄せろ」

 言いながら、芙蓉は勝手にクローゼットを開ける。

「くそ、相変わらず物が多いな、このクローゼットは」

 ぶつくさと独り言を言いながら、芙蓉は布団を引っ張り出した。

「ここで寝る気か?」

「今から帰るのは億劫だし、また意味の解らん召喚で叩き起こされては敵わない」

 有言実行、芙蓉は手際よく布団を敷き、京介の布団を蹴り退ける。止める間もなく、芙蓉はとっとと横になる。部屋が狭いとか、隣に京介がいるとか、そんなことは全然お構いなしで、躊躇がない。もっとも、一月に「首輪騒動」があったときに既に同じ部屋で寝た経験があるわけだから、今更気にしても仕方ないといえば仕方ないのだが。

 もとはといえば京介が呼び出したのが悪い。京介は溜息を一つついて諦め、大人しく横になることにした。

 しかし、先刻の手の痛みと、覚えた不安のせいで、すっかり眼が冴えてしまった。時計を見ると、まだ二時半。芙蓉が怒るのも納得の時刻である。

 暗闇に慣れてきた目で、京介は芙蓉の背中を見つめる。芙蓉はもう眠ってしまっただろうか。

「……芙蓉」

 試すみたいに、京介は囁くように名を呼んでみた。

 ややあって、芙蓉が応えた。

「何をぐじぐじと悩んでいるんだ? 何か心配なことがあるなら言え。腹の中に抱えたまま一人で勝手に悩まれるのは、面白くない」

「……心配というなら……俺はずっと、心配だったんだ」

「何が?」

「この、契約のこと」

 契約紋の刻まれた右手を見つめ、京介は静かに吐露する。

「初めは……お前がちっとも命令をきかないから、心配になって、焦ってた。だけどお前は、口ではいろいろ言うけれど、いつも俺を助けてくれた……だから、そのうち俺は、少し安心して、油断してたんだと思う。それが、こないだの千鳥との一件で、契約紋を奪われて、思い出した……俺と芙蓉の契約が、とても危ういものだってことを」

「……」

「なあ、芙蓉。俺とお前が一緒にいる時間は、いつまで続くと思う?」

 しばらく沈黙が続いた。寝てしまったのだろうかと訝しむほどに、長い静寂だった。

 やがて芙蓉が寝返りを打って、京介の方を向く。暗くて顔ははっきりとは見えないが、怒ってはいないようだった。

「お前は少し……いや、かなり変わってる」

「そんなに力強く言うなよ」

「事実じゃないか。普通の主人は、式神の身を案じたり、守ったりはしない。剣となり盾となるのは式神の方の役目だからだ。お前が優しいのは知っている、だが、あまり無茶をするな。私を守ることなどのために、無茶をするな。大丈夫……私は、お前に守られるほど、弱くない」

「芙蓉」

「私は、強いから」

 その言葉が、京介にというより、芙蓉が自分自身に言い聞かせているように聞こえたのは、京介の不安な精神状態のせいだったのだろうか。それとも。

「……」

 普通の主人は、式神を守りなどしない。しかし、京介と芙蓉はそもそも、普通の主従関係ではない。だから、普通じゃない式神は主人に逆らうし、普通じゃない主人は式神を守ろうとする。

「俺は……今更『普通』にはなれないよ。きっと、何度でも、お前を守ろうとする」

 そう言ってから、京介は苦笑し、

「もっとも、俺の方が守られてばかりなんだけどさ」

「それは、私との約束のためか?」

「勿論、約束は理由の一つだ。けどそれだけじゃない。たぶん俺は、式神としてという以上に、芙蓉を大切に思ってる。出会った時は……こんな気持ちになるなんて、思ってもみなかったけれど……」

「そうか……私も、私たちがこんな関係になるなどとは、夢にも思わなかった」

 芙蓉が徐に手を伸ばしてきて、京介の頭をそっと撫でた。

「もうお休み。今日は、傍にいるから」

 芙蓉の手は、温かかった。そのぬくもりに安堵すると同時に、意識が微睡み始めた。

 京介は目を閉じる。少しずつ眠りに落ちて行く意識の中で、京介は――京介の無意識は、どこかで思う。

 柄にもなく辛気臭いことを考えているのは、胸騒ぎがするからかもしれない。


 痛み出した契約紋は、平和の崩壊の予兆のような気がしてならないのだ。



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