密かに忍び寄る終焉(2)
目が覚めてからの毎日は、病室のベッドの上で延々と宿題を解き続け、時々息抜きに差し入れてもらった写真集を眺める、といった具合で消費し、あっという間に夏休みは終了して九月になった。八月十日に、受験勉強の息抜きがてらにと登山に向かった時には、まさかこんな、受験生にあるまじき夏休みの過ごし方をするとは思っていなかった。それでも何とか、二学期は頭の数日を休んだだけで復帰できることになった。主治医は「君は酷い怪我をするし医者のいうことはきかない問題児だけど回復力だけはいいね」と、「だけ」をやたらと強調して言ってくれた。
式神に低能呼ばわりされてばかりとはいえ、曲がりなりにも魔術師であるので、治癒能力は一般人のそれより高い。初めは身じろぎをするだけでもずきずきと疼いていた傷が、竜胆に冗談でぶっ叩かれても開かない程度にくっついた。ただし、傷跡は遠目にも解るほどにはっきりと残ってしまった。何事もなかったように回復するには、傷が深すぎた。幸い、服を脱がない限りは解らない。水泳の授業が既に終了していたのは不幸中の幸いだったかもしれない。
三年五組の教室に足を踏み入れると、潤平が目敏く見つけてくれて、がたりと椅子を騒がしく鳴らして立ち上がった。
「きょーすけ! お前、もう来て大丈夫なのか!?」
「おはよ、潤平。今なら全力疾走できる程度に元気だ」
「まーったく、一時はどうなることかと……心配かけやがってよぉ!」
「悪かったよ」
潤平が騒いでいたので、他のクラスメイト達も気づいてわらわらと寄ってくる。
「不破、交通事故に遭ったんだってな。もう登校して来て大丈夫なのか」
「災難だったわね。とにかく無事でよかった」
学校には、数日の欠席について「事故に遭って入院していた」ということで話をしてある。竜胆は「そのまま正直に、修羅場な痴話喧嘩に巻き込まれて刺されたって言えばいいじゃん」などと抜かしていたが、それは断固拒否した。
口々に心配の言葉をくれるクラスメイト達。すると、ぱんぱんと手を叩いて収拾に乗り出す女子生徒がいた。
「ほらほら、みんな、不破京介は病み上がりなんだから、あまり無理をさせちゃいけないよ」
頼りになる職権濫用学級委員こと、柊凛だった。夏休み前と変わらぬ調子で、柊はクラスをまとめあげる。周りに集まっていた生徒たちを散らすと、柊は不機嫌全開の顔で、病み上がりの京介にプレッシャーをかけてくる。
「不破京介、どうやらまた無茶なことをしたようね」
六月の文化祭で起きた事件で、柊には魔術師であることを知られた。そのため、彼女は今回の京介の欠席の理由が事故でないことを察していた。
隠し立てしても意味がないようなので、京介は軽く肩を竦めて応じる。
「少しだけだよ。でも、全部片をつけてきた」
「ふん、それならいいけどね。学校で厄介ごとに巻き込まれるのはもう懲り懲りなのよ」
「あの時は巻き込んで悪かったな」
「謝罪を求めているわけではないよ。別にお前は悪くないのだから堂々としていればいいのよ。そんなことより私は、お前がもう無茶をしなければそれでいいのよ」
「善処する」
「ぜひそうしてくれよ」
言いながら、柊はどさりと、京介の机の上にプリントの束とノートを置いた。京介が首を傾げながら、一番上に重ねられたノートをぱらぱらとめくると、丸っこくて小さい字がびっしりと書き込まれている。
「お前が休んでいた間の演習プリントと、解説のメモよ。クラスメイトが休んでいた間の勉強をフォローするのも学級委員の務めよ」
「お、さすがいいんちょ、学級委員の鑑! ついでに俺にも勉強教えて」
「窪谷潤平、お前はちゃんと出席していたんだから自分で何とかするのよ」
「解っていたけど手厳しい!」
「助かるよ。ありがとう、柊」
素直に感謝の言葉を口にすると、柊は照れたように目を逸らす。「が、学級委員として当然のことをしただけよ」と小さな声で言う。彼女の言う「学級委員として当然のこと」というのはかなり範囲が広そうだな、と京介は思った。
放課後になると、潤平から連絡を受けたらしい美波と、竜胆から情報を得たらしい歌子が、二人揃って教室に飛び込んで来た。
「京介さん!」
「京介君!」
後輩美少女二人が名前を呼びながら駆け込んでくるという状況に、何人かの男子クラスメイトが羨望と憎悪の混じった視線を投げてくるのが解った。それが例外なく非リアであることも解ったが、京介はその視線を努めて無視する。
「美波ちゃん、歌子。心配かけてごめん。この通り、今日から復帰」
「一時はどうなるかと思っていましたが……もう普通にしていて大丈夫なんですか」
「ああ。多少暴れても問題ないってお墨付きも貰ってる」
「だ、だからって暴れちゃ駄目よ、京介君。っていうか、もう少し大事を取って休んでいた方がいいんじゃないの?」
「それもそうです。もう少し安静にした方がよいのでは」
「妖怪とかの事件が起きても、私に任せてくれればいいし」
「学校の方も、兄さんと違って京介さんは、あと一か月くらい勉強をサボっても余裕で受験に臨めますでしょうし」
「おいなんでそこで俺を引き合いに出すんだ美波」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。これ以上休んでいたら体が鈍る」
四人で教室を出ると、歌子が気を遣って鞄を持ってくれようとする。潤平と違って置き勉をしない京介の鞄は、そこそこの鈍器にはなりそうなレベルで膨らんでいるので、傍目にも重そうに見えるからだろう。
「そんな重そうなの、傷に障るんじゃないの」
京介は思わず苦笑する。
「そこまで過保護にされなくても、体調は万全だから」
「ほんとでしょうね。強がってないでしょうね」
「本当に大丈夫だって」
色々と無茶の前科があるせいか、歌子は疑わしげな視線を寄越す。無謀なことをしないようにと監視するつもりなのか、ぴっちり張り付いて来ようとする歌子を押し留めながら歩く。
昇降口まで来て、京介は歌子たちと別れて、正門とは別方向に向かおうとする。
「どこ行くんだ、きょーすけ」
「実はちょっと寄るところがあるから」
「珍しいな、寄り道なんて」
「いや、旧校舎の様子を見に行こうと思って」
そう告げると、予定にはなかったが、潤平たちもついてくることになった。曰く「目を離すとどんな無茶をするか解らない」とのこと。瀕死の重傷を負うこと二回、京介は潤平にまで問題児認定されてしまったらしい。
グラウンドを迂回して旧校舎に辿り着く。旧校舎には、狐の姿の妖怪であり自称神ヶ原一高のボスである周防をはじめとする愉快な仲間たちが棲みついている。その旧校舎妖怪連合に、最近新しい仲間が増えた。
京介が昇降口の前まで行くと、中からひょこりと周防が飛び出してきた。
「よーう、京の字。もう動いて平気なのか?」
「ああ、この通り回復したよ」
「そいつぁよかったぜ。新入りたちがずっと気にしてたからよ」
「上手くやってるか」
「顔を見てくといいさ。……ところで、今日は随分大勢いるなぁ。魔術師の仲間か?」
「友達。普通の高校生だから、あまり過激なアプローチは控えてくれると嬉しい」
魔術師である歌子には周防のことが普通に見えるが、潤平と美波には、通常であれば周防の姿は見えない。妖力の強い者や、式神になっている者、人間に姿を見せようと意識している者以外は、本来は人の目には留まらない。
人畜無害な小妖怪であるところの周防は、一般人には見えない存在だ。しかし今、潤平と美波には周防のことが見えている。ここに来る前に、京介が二人に術符を渡しておいたのだ。魔術師でもない高校生を妖怪にわざわざ関わらせるなんて、中央会の連中が聞いたら尋常でなく怒りそうなので、このことはオフレコである。
魔術師との幾度かの接触を経て修羅場慣れしてしまった二人は、人語を解する狐を見てもさほど驚くことなく、友好的に挨拶を交わす。
「初めまして、周防さん。私は美波といいます」
「俺は潤平。京介のダチ」
「京の字、この二人は何でこんな平然としてるんだ?」
むしろ周防の方が驚いているようで、京介は苦笑した。
互いに挨拶が済んだところで、周防の先導で旧校舎に足を踏み入れる。昇降口を抜けて、廊下を左手に折れすぐのところにある教室の扉を開ける。字の掠れたプレートによると、元々は「被服室」として使われていた教室だった。
木製の椅子に座っていた妖怪二人がすっと立ち上がる。
「調子はどうだ、二人とも」
二人――琥珀丸と澪鋼は柔らかく微笑んだ。
和装姿の琥珀丸は周防をちらりと見やってから言う。
「周防さんをはじめとして、ここの妖たちは気持ちのいい方ばかりで、とてもよくしてもらっています。以前に知り合った子とも、また会えましたし、ここに来てよかった」
知り合いというのは、おそらく前に話を聞いた少女妖怪の鈴音のことだろう。
黒いセーラー服の少女、澪鋼の方も、刀を交えた時とは打って変わって穏やかな表情で、
「そなたには感謝している。そなたに刃を向けた私にまで慈悲をかけられた」
式神だった二人は、しかし主人を失くし、行き場を失っていた。そんな二人に、京介は旧校舎に行くよう勧めた。大切な主を失くした傷をどう乗り越え、癒していくのか。それをゆっくり考えるのに、旧校舎が適していると思った。ここには心優しい妖たちが大勢いる。いい仲間に巡り会えるだろうと思った。
澪鋼の言うとおり、一度は彼らとは敵対した。だが、それは千鳥の画策によるものであったから、彼らを恨む道理はない。慈悲をかけたなどという大袈裟なことをしたつもりはなかった。
加えて、これは彼らには言っていない事情だが、京介は琥珀丸と澪鋼の状況が他人事だとは思えず、放っておけなかったのだ。彼らと京介は似ている。同じように、大切な者を殺してしまった。
京介がその傷を少しずつ乗り越えてこれたのは、傍で支えてくれた存在の力が大きい。それを鑑みての、今回の提案だった。
「旧校舎連合もなかなか賑やかになってきたぜい。来年の肝試しシーズンが楽しみだ」
などと言う周防は、早くも来年の『肝試しに来たリア充を驚かせる連合』の活動に思いを馳せているようだった。
どうやら二人の新入りが上手くやっているということが解り、京介は安心する。潤平たちも交えつつ他愛もない世間話をして、彼らとは別れた。
帰途につきながら、京介は深く息をつく。これで、千鳥八尋の件で広がった波紋は、落ち着いたことになる。
千鳥八尋は魔術師中央会に連行され、厳重に拘束された上で尋問されている。
琥珀丸と澪鋼には新しい居場所ができた。
歌子と紅刃は、実家から絶縁を言い渡されているが、竜胆邸に二人仲良く居候して楽しくやっている。「二人で一緒ならなんだっていい」と実に割り切っている。
京介は傷も癒え、右手には花弁の契約紋が変わらず刻まれている。
ようやく平和な日常が戻り始めていた。
★★★
彼が目覚めることはもうないだろう、と姫井栞奈は思っていた。初めのうちは、少しは期待していた。もう少しできっと目を覚ます、と信じていた。だが、そんな期待も、半年経つ頃には消え失せていた。
白いベッドに横たわり、ずっと目を閉じたままの彼は、人形も同然だった。生きている、というより、かろうじて死んでいないだけ、という方が正しい状態だ。心臓は動いている、呼吸はしている、だが、ただそれだけだ。指一本、ぴくりとも動かない。機械のように規則的に胸が上下するだけで、なんの変化も見られない。悪化しているのか、快方に向かっているのか、それも解らない。
甲斐甲斐しく点滴を変え、褥瘡を防ぐために寝返りを打たせ、筋肉が衰えないように手足を動かしてやる。目覚める見込みもない男のために、一日中つきっきり。いっそ死んでしまった方がお互い楽なんじゃないか、とさえ思っていた。
そんな中での、唐突な、何の前触れもない――覚醒。
かさり、と衣擦れの音が聞こえたので、姫井は振り返った。まさか、と思って凝視する。と、確かに男の指が動いた。
瞼が震えた。すう、と唇が薄く開いて息を吸う。
ぱちぱちと瞬きをして、男の動きに注目する。
やがて、男が目を開ける。
「……」
長く昏睡状態が続き、目覚めないだろうと思っていた男の、目覚め。死んでしまえば、などと思っていたくらいなので、姫井にさしたる感動はない。歓喜のあまり抱擁、などという展開も起こらない。
男は目だけを動かして、姫井の存在に気づくと、にこりと微笑んだ。
「おはよう、お母様」
「……おはよう。その呼び方はやめて、私はあなたの母親じゃないんだから……王生樹雨」
「そうだっけ? 少し、寝ぼけているかもしれないね」
王生はすっとぼけた顔で言う。それにしても、三年近くも寝ていたくせに、そうとは思えないくらい、すらすらと言葉が出てくるし、混乱も動揺もしていない。
だが、寝ていた本人にしてみれば、時間が経過している自覚がないのかもしれない。そう思って、姫井は問うてみる。
「状況は解っているのかしら」
「あれだけの重傷を負ったからね、それなりに時間が経っているだろう、とは」
「三年弱といったところね」
「僕はそんなに寝てたか……それにしても、奇跡的な目覚めのわりに、あまり嬉しそうにしていないね、お母様は」
「だって母親じゃないもの。だいたい、私が、あなたみたいな大きな子供がいるような歳に見える?」
姫井は三十前くらいの女性で、対する王生は二十歳前後といったところ。二人が親子なら、姫井は十歳ほどで王生を生んだことになってしまう。
「私が母親なら、あなたみたいな手のかかる子は願い下げよ」
「確かに、僕もあなたみたいな母親は願い下げだけど」
「嬉しいわ、意見が一致した」
「ふふ……さて、栞奈。とりあえず、僕のリハビリを手伝ってもらえるかな。すぐにでも戦えるようにしてほしい」
「無茶を言わないで。何年も昏睡状態だった人間が、戦いなんて」
「栞奈ならできるだろう。それに僕は魔術師だ。そこらの人間とは、できが違う。大丈夫だ」
「まあ確かに、普通の人間なら、あの傷で生還しないわね」
「早く元気になって……僕のお姫様を、迎えに行かないとね」
お姫様、ねえ――姫井は冷めた調子で王生を見つめる。王生の瞳に、かつての狂気が早くも戻り始めていることに、気づいていた。
★★★
高峰蓮実は、その報告を苦々しい顔で聞いていた。
蓮実の執務室で、直立不動の姿勢で報告を上げてきたのは、蓮実が受け持つ班の班員の一人の、若い青年魔術師である。生真面目そうな顔に暗い色を落とし、部下は報告を続けた。
「手洗いに行きたいと言うので、担当官が付き添って、トイレに行きました」
「ことは、個室の中で?」
「はい。さすがに、個室の中まではついていけませんから。身体検査はしっかりして、武器は当然隠し持っていないことを確認しましたし、魔術も勿論封じてありました。逃亡は不可能でした。だから油断した、というわけではありませんが……」
「成程、相手は逃亡する気など、なかったわけですからね」
「はい。……相馬誠は、個室の中で舌を噛んで自害しました」
葛蔭悟の逃亡を幇助した疑いで拘束、尋問を受けていた魔術師、相馬誠。
彼は結局、黙秘を貫き、何一つ喋ることなく、秘密をあの世に持って行った。
「結局、相馬誠は何をしたかったのか。散々黙秘して、今になって自殺とは。……まったく、嫌な予感がしますね」
困ったことに、蓮実の嫌な予感は、よく当たる。




