密かに忍び寄る終焉(1)
気が付けば夏休みは既に十日を切っていた。主治医からはまだ退院の許可が下りないどころか、病室の外に出ることすらほとんど許されない状況であった。急いたところでどうしようもないので、京介は病室で大人しく傷を癒していた。
しかし、曲がりなりにも受験生であるため、日がな一日寝ているわけにはいかない。「受験と体、どっちが大事だと思ってるの」と主治医は言うが、やっぱり浪人はしたくない。京介は竜胆に頼んでテキスト類を病室に持ち込んでもらい、ひたすら過去問と格闘していた。
午前十時を少し過ぎたくらいに、病室のドアがノックされた。返事をすると、ゆっくりと扉がスライドされ、入ってきたのは紅刃だった。
京介は少し意外に思って目を瞬かせる。その日、紅刃は一人だった。いつも歌子と一緒にいる紅刃が一人で来るのは珍しいことだと思った。
「今日は、歌子は一緒じゃないのか。何かあったわけではないよな」
「お嬢は元気だよ。竜胆様がいろいろ教えてくれるんだ、こっそり盗聴する術とか、気配を消して尾行する術とか」
何を教えてるんだ。後方支援と暗躍が専門の竜胆が教えられることといったら、確かにそれくらいしかないだろうけれど。
「俺が一人で来たいって言ったんだ」
いつになく真剣な様子でそう言うや、紅刃は頭を下げた。
「ありがとう――あの時、お嬢を守ってくれて」
あの時――紅刃が自我を失くし、歌子に襲いかかった時。もしも紅刃の凶刃が歌子を貫いていたら、彼は悔やんでも悔やみきれなかっただろう。
「あなたがいなかったら、俺はきっとお嬢を殺してしまっていた。奇跡的に一命を取り留めていたとしても、俺はもうお嬢の傍にはいられなくなっていた。今、お嬢が笑っていてくれて、俺が一緒にいられるのは、あなたのおかげだ」
もしかしたら紅刃は謝りに来るのかもしれない、と思っていた。その時は「気にしなくていい」と応えるつもりだった。
紅刃は礼を言った。彼にとって、主が無事であり、笑顔でいることがこの上なく幸福で、奇跡のようなことなのだ。それを改めて認識して、京介は自然と微笑んでいた。
「紅刃」
名前を呼ぶと、紅刃が顔を上げる。泣きそうな顔をした紅刃に、京介は笑って告げる。
「歌子と紅刃が一緒に笑っていられるのが、俺も嬉しいよ。俺は、人と妖が一緒にいるのを見ているのが、一番好きなんだ。また元通りになれてよかった」
すると、紅刃は柔らかく微笑み返して言う。
「元通りじゃないよ。前よりずっと、俺たちの絆は固い」
紅刃が自信を持ってそう言うのが、京介は自分のことのように嬉しかった。
★★★
以前、京介が怪我をして入院していた時、メロンが食べたいなどとほざいていた。メロンなどという高級品、いくら主の見舞いとはいえ、人にくれてやるくらいなら自分で食べると思い、芙蓉は一瞬で要望を却下した。
メロンは駄目だ。だが、メロン以外なら、怪我をして弱っていて、その上夏休みだというのに病室から一歩も出れずに泣く泣く勉強ばかりしている可哀相な奴のために、見舞いに持っていってもいいかな、という気分になっていた。今回の京介は、貧弱退魔師の割にはそこそこよくやった。たまにはその奮闘ぶりを讃えてやってもいいだろう。
駅前にある行きつけの洋菓子店「フルーツ・ティアラ」のショーケースを前に仁王立ちし、芙蓉はそんな、従者にあるまじき上から目線な評価をしながら、見舞いに買う品を吟味していた。
店の名が冠している通り、果物を使った洋菓子が評判の店には、メロンをふんだんに使ったタルトや桃を丸ごと使ったケーキなどが並んでいる。甘いもの好きの芙蓉としては、それらを買い込んで優雅にお茶をしながら食べていたいところだ。だが、今日の目的は見舞いの品を買うこと。断腸の思いで宝石の如きケーキ類を諦め、芙蓉は冷凍ケースの前に移動する。
六月から九月まで、暑い時期限定で、フルーツ・ティアラはアイスクリームを販売する。期間限定のため、この時期はファンがこぞってアイスクリームを買いに来る。常時十種類以上取り揃えられているので、毎日食べても飽きないと芙蓉は思っている。とはいえ、毎日食べるには、ちょっと高級品である。
怪我人には、クリームたっぷりのケーキよりもひんやりしたアイスの方がいいに違いない。さて、アイスにしてはリッチな価格なそれを、自分の分と京介の分、二つ買って行くことにするわけだが、問題はどのフレーバーにするかだ。
定番のベリーか、さっぱりシトラスか、濃厚マンゴーか。
「こんなにも全部美味しそうなのに、無情にも二つだけ選べというのか……」
いつになく深い溜息で、芙蓉は苦悩していた。
★★★
受験生にとって夏休みは追い込みシーズンだ。しかしだからと言って、一日中机にかじりついて勉強していたら、夏の暑さと相まって頭がパンクしてしまう。まして、一日中ベッドに縛り付けられて、他にできることもないからと過去問と格闘していては、頭がおかしくなる。やはり息抜きは必要だろう、と潤平は考えた。
とはいえ、病室で、体の傷に障らないように大人しく、という条件で、息抜きできるものというと限られてしまう。プラス、潤平の懐事情でも差し入れ可能な、安価なものでなければならない。
やはり書籍しかないな、と潤平は結論付け、駅ビルの書店に赴いた。思えば、前回京介が入院した時も本を差し入れて、しかしその時選んだ本はセンスが悪かったらしく、京介に微妙な反応をされてしまった。そう、今回の見舞いは前回の汚名返上の意味合いも含まれているのだ。
今度は失敗しない。なにせ今回は、自分よりセンスのいいアドバイザーがついている。
「兄さん、向こうの写真集を見てみましょう」
天才的妹・美波である。ふだんは兄との買い物など死んでもお断りと言って憚らない美波が、今日に限って並んで買い物に来ている理由は、ひとえに「京介のため」という魔法の言葉のおかげである。これを言うと、強情な妹が妥協する。いいことを知った。潤平は、京介のために見舞いに行こうという気持ちの裏で、これを口実に妹と買い物できるとはなんという役得だろうと歓喜していた。京介にこんな裏事情は話せない。もっとも、知られたところで「相変わらずブレのないシスコンだ」と苦笑されるだけだろうが。
「毎日病室の白い壁ばかり見てるのは退屈でしょう。こういうときは、外の景色に触れられるような写真集がいいと相場が決まっているのです」
美波は自信満々に、写真集のコーナーを物色する。美波の言うことは、成程もっともだと思う。妹贔屓を抜きにしても、それは名案のように思われた。
「お、これがいいんじゃないか、『廃墟百選』」
「『空の写真集』はどうですか」
「『超危険・絶景スポット集』とか面白そうだろ」
「それより『花のある風景たち』の方が」
「面白い風景」を推す潤平と「綺麗な風景」を推す美波。男子と女子で若干趣味の方向性が違っていた。
★★★
紅刃君のことが気になるんでしょう、と竜胆から図星を指されて、歌子はどきっと跳ね上がった。
歌子は竜胆に命じられたトイレ掃除をしているところだった。紅刃は少し前に屋敷を出た。そわそわしていたのが傍から見ても丸わかりだったのだろう。竜胆がにやにやしながら指摘してきた。
「京介のことだから責めはしないだろうけれど、いかんせん、刺した方と刺された方が二人きりじゃ、和やかな会話にはならないよ。今頃修羅場かなぁ」
無駄に不安を煽るばかりの想像で、歌子をいっそう落ち着かなくさせる。もしかして竜胆は少しいじわるなのだろうか。歌子は、京介がとっくに知っていたその事実に、ようやく気付き始めていた。
「ふ、二人に限って修羅場にはならないですよ。穏やかな性格してますから」
「じゃあ歌子ちゃんは、まさか紅刃君がわざわざ、京介と仲良く、おすすめのカフェの話題で盛り上がりに行ったとでも思っているのかい? 芙蓉ちゃんじゃあるまいし、そんなはずないだろ?」
どうしてそんな極端すぎる、ありえない例を出すのだろう。
「そうは思いませんけど……別に喧嘩しにいってるわけじゃないんですから」
「修羅場ってのは喧嘩とは限らないよ。なんとなく気まずい、空気が重い、息が詰まる、窒息する……そういう修羅場もこの世にはある。神ヶ原総合病院の1005号室が、まさにそれだ」
「別に紅刃は、京介君を窒息させに行ったわけではないと思います」
「あ、もしかしたら、歌子ちゃんをめぐって昼ドラのような展開をしている可能性も」
そんな訳の分からない想像を、なぜか竜胆は愉快そうに話す。竜胆は昼ドラが好きなのだろうか。
歌子が居候を始めてから、竜胆はいろいろなことを教えてくれる。大変面倒見がよく、優しいご婦人だ。しかし、ときどきこうして、妙なテンションについていけなくなることがある。京介に、竜胆との正しい付き合い方のコツを聞いておく必要があるかもしれない、と歌子は思う。
「まあ、冗談はこれくらいにして。二人のことが気になるなら、行ってみればいいじゃない。トイレ掃除は後でいいから、見舞いに行ってきてよ。丁度、替えの下着を持って行ってやらなきゃと思っていたところだし」
「けれど、紅刃が二人だけで話したいと言ったんです。邪魔をしちゃ悪いですから」
「歌子ちゃん、何のために私が盗聴の技術を教えたと思ってるの」
「こんなことのためではないと思ってますからね」
歌子は小さく溜息をつく。気になるのは事実だ。けっして盗み聞きしに行くわけではない。きっともう話は済んでいる頃だろう。話が終わって、窒息しかけてる頃に違いない。様子を見に行くだけだ。幸い、竜胆からのおつかいという大義名分もある。あと、トイレ掃除にも飽きた。
「――行ってきます」
晩御飯までには帰ってくるんだよー、と呑気に言う竜胆に見送られ、歌子は病院へと向かった。
★★★
不破京介という男は、式神と主人の絆をとても大切にしている。暴走する紅刃から身を挺して歌子を守ったことからも、彼の信念は明らかだ。式神を大切に想う彼が、式神を裏切るようなことをするはずはない。そこに疑いはない。ゆえに、紅刃には一つだけ、解らないことがある。
「一つだけ、訊いてもいい?」
開けてはいけないパンドラの箱を開けようとしているのかもしれない。掌にじわりと汗をかき、緊張していた。そんな紅刃の不安など露知らず、京介は不思議そうに首を傾げる。
「何?」
「千鳥八尋の『蠍』は、完璧な形で契約を略奪した。契約紋が奴に渡った瞬間、俺は奴を主人と認識した。俺の気持ちとか、そんなの全部無視して、式神としての俺の存在が、千鳥八尋を主人と見なしたんだ」
ゆえに、心でどんなに歌子を想っていても、契約紋の下に命じられた言葉には逆らえなかった。主人の命令には絶対服従が式神の大原則だ。
「だけど……お嬢から聞いたよ、芙蓉ちゃんは奴に従わなかった。確かに芙蓉ちゃんは強い。けれど、命令の言葉に一切反応せず、あっさり拒絶できるなんて普通じゃない」
「……芙蓉はいつもそんな調子だよ」
「そうだね。俺はそれを、あなたが優しくて、芙蓉ちゃんに無理強いしたくなくて加減をしているだけなんだと思っていた。けど違うんだね? その右手の契約紋は、明らかに正常に機能していない」
疑念ではない。心配なのだ。京介と芙蓉は、自分が思っていた以上に、大きな問題にかかわっているのではないかと。
「あなたは――いったい何者だ?」
通常の主というのでは説明がつかない。
京介は驚いたように目を見開く。紅刃から核心を突かれるとは思っていなかったのかもしれない。
やがて、深く深く嘆息すると、どこか寂しそうな微笑みを浮かべた。
「俺は、――――」
予想していなかった言葉に、紅刃は瞠目する。
もっと詳しく話が聞きたかった。だが、さらなる追及は、突如響いたノックの音に阻まれた。
★★★
結局、二つに絞りきれなくて六つも買ってしまった。もういっそ全種類買ってしまおうかという投げやりな気持ちにもなったが、持ち合わせがそんなにないという現実的な問題に阻まれて、六つで落ち着いた。
芙蓉はアイスクリームを詰めた保冷バッグを片手に、神ヶ原総合病院を訪れた。
「京介、この私が直々に見舞いに来てやったぞ」
上から目線に言いながら部屋に入り、中の状況を認めると、芙蓉は軽く眉を寄せた。
「きょーすけ、どうだ俺のこの成長、素晴らしきセンスは」
「京介さん、私が選んだ方も見てくださいね」
「京介君、紅刃と喧嘩しなかった? 平和な話し合いで終わった?」
先客がいた。大勢いた。たいして広くもない個室に四人もの客が押し寄せひしめき合っていた。潤平と美波は若干張り合っているような雰囲気で、歌子は何やら心配しているような様子で、紅刃は疲れた風に苦笑している。
京介が芙蓉に気づいて手を挙げる。
「芙蓉。来てくれたのか」
「……先見の明だな」
「え?」
「喜べお前たち、アイスクリームが丁度六つある」
芙蓉の粋な計らいに、歌子と美波は歓声を上げ、京介は「芙蓉が甘いものを譲る……明日は嵐か」などと失礼なことを言った。
ふと視線を感じて、顔を上げると、紅刃がじっと芙蓉を見つめていて目が合った。
「どうかしたか?」
尋ねると、紅刃はふるふると首を振って、笑って答える。
「何でもないよ。芙蓉ちゃんがいいなら、それが一番いいんだ」
「アイスくらいで大袈裟な」
「いやアイスのことじゃ……んー、まあ、いいか」
紅刃は曖昧に言葉を濁した。彼の態度は少し気になったが、結局芙蓉は、アイスを溶けないうちに食べることに集中し、紅刃への追及を、冷たい甘さと一緒に呑み込んだ。




