絆は誰にも壊せない(3)
座布団も与えられず畳の上で正座すること三十分。そろそろ足が痺れて来たな、などと現実逃避気味に能天気な感想を抱きつつ、歌子は自分を呼び出した相手の登場を待った。呼んでおきながら遅刻とはいい度胸だが、文句を言う権利は歌子にない。何をしようと許される、絶対の存在、それが此度の会談の相手、黒須宗達――すなわち、黒須家当主にして歌子の父親でもある男だ。
隣で同じく正座にて宗達を待っていた紅刃が、徐に口を開いた。
「もう言う機会がないかもしれないから、今のうちに言っておくけどさ」
「何?」
「文化祭の一件からこっち、俺の様子がおかしいって、お嬢、気にしてたでしょ」
「ああ……うん、なんか、紅刃、上の空なことが多くなった」
千鳥との事件の衝撃が大きすぎて忘れかけそうになっていたのを、歌子は記憶を掘り返す。文化祭の事件以降、紅刃は一言でいうと挙動不審だった。妖としての本性を晒したところを見られたのが気になっていたのかとも思ったが、どうやらそういうわけではないらしい。
「あれ以来、俺の頭の中に話しかけてくる奴がいたんだ」
「頭の中に?」
「そう。『君の望む主は、本当に彼女なの?』ってな具合に。俺を離反させようと煽っていた感じ。これがあんまり煩いもんで。最初は無視してたんだけど、少しして考えが変わってきて」
「うん」
雲行きの怪しくなってきた話に、歌子は不安を覚える。だが、顔を曇らせる歌子に向かって、紅刃はあっけらかんと笑って言う。
「この煩い馬鹿野郎をどうにか引きずり出して叩き潰してやらなきゃってさ」
「え」
「どういうわけだか、俺にお嬢を裏切らせようとしているクソ野郎。俺が意図通りにお嬢から離れればのこのこと出てくるかなー、と。だから少しの間、その声に耳を傾けて迷ってるふりをしていた」
「そういう……こと……」
「迷うふり、裏切ったふり……演技ばっかり。だけど全部空回り、無駄に終わって、お嬢に心配かけただけだった。ほんとに、ごめん」
「いいの、それは、いいのよ。でも、そっか……よかった、私、ちょっと不安だった。でも……うん、そうなのね」
解らなかったことが全部解った。結局紅刃は、最初から最後まで自分のことを考えてくれていた。それが解っただけで気持ちが軽くなる。
散々待たせた末に、ようやく部屋の襖が開かれ、黒須宗達が現れた。
歌子は居住まいを正し表情を引き締める。宗達に続いて、母の七巴、兄の龍雅、姉の沙耶が入って、襖を閉める。床の間を背負って宗達が座ると、その隣に七巴が控え、それを挟むように左右に向かい合って龍雅と沙耶が座る。
家族会議をする、という名目で呼び出された。だが、実際に行われるのは裁判であると、歌子は解っていた。
全員が検察、どころか死刑執行人に見える。せめて一人くらい弁護士がいればいいのに、と内心で思いながら、歌子は神妙な面持ちで沙汰を待つ。
口火を切ったのは、歌子が半ばそうだろうと予想していた通り、龍雅だった。少し見ないうちにピアスの穴が増えている兄は、見た目は不良っぽいし、中身も見た目を裏切らない。
「ったく、とんでもねえ騒ぎを起こしてくれやがったな。中央会連中も呆れてるだろうよ、あの妖が案の定問題を起こしたってな」
龍雅は露骨に不機嫌そうに詰る。
「やっぱ、最初に処分しておけばよかったじゃねえかよ。それを、体面だなんだを気にして生かしておくから」
「歌子の式神にするよう真っ先に提案したのはお前だということは忘れるなよ、龍雅」
沙耶が冷ややかに言うと、龍雅は苦々しい顔をした。最初の選択が間違っていたことが前提で話が始まり、責任のなすりつけ合いらしきものが進行しつつある。無駄だとは思いつつも、歌子は口をはさむ。
「今回のことは、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ですが、確かに今回はこのようなことになりましたが、それ以上に紅刃は私を十年もの間、ずっと守ってくれましたし、黒須家に尽くしてくれました。たった一度の失態でそれが全部なかったかのような言い様は、あんまりではないですか」
「たった一度が致命的になることがあるんだよ! いいか歌子、そいつはかつて五人もの一般人を惨殺しやがった凶悪妖怪だ。恩情かけて黒須家で保護してやってたのに、それを裏切ってまたやらかした。執行猶予中に再犯したようなもんだ」
「紅刃に咎はありません。紅刃が私の式神である以上、式神の責は主の責です。罰なら私が受けます」
「馬鹿言ってんじゃねえ、お前が罰を受けるのは当たり前だ。偉そうに言うな」
「両名とも、黒須の名を貶めました。判断は当主に……いかがなさいますか、宗達様」
七巴が宗達の判断を仰ぐ。黙って聞いていた宗達が、ようよう重い口を開いた。
「歌子は地下牢に入れろ。紅刃は式神の契約を解き、処刑する」
「待ってください!」
歌子と紅刃が同時に叫ぶ。
「紅刃は私の家族です。処刑なんて、断じて認めません」
「お嬢に責任はありません。お嬢への処罰を撤回してください」
「お前たちにそのようなことを要求する権利はない。黙って受け入れろ」
宗達はぴしゃりと言う。
「当主の命令は絶対だ。諦めろ、二人とも」
沙耶は小さく溜息をつきながら言う。初めから期待してはいなかったが、彼女はやはり庇ってくれそうもない。
この家は昔からそうだ。当主の言葉は絶対であり、それに逆らうことはできない。かくいう歌子も、当主の命令のままに強引なことをして、外の人間から詰られることもあった。
当主に敵として睨まれた今だから解る。これは異常だ。
宗達と歌子の関係や、交わす言葉は、あくまでも当主と家来のものであり、決して父と娘のものではない。家族なのに、他人のよう。家族と血のつながりは関係ない。血の繋がらない紅刃を歌子が家族だと思えるのと対照的に、血がつながっていても家族だと思われないことだってあるのだ。
彼らにはきっと何を言っても通じない。そう思った瞬間、虚しくなった。
悔しさで拳を握りしめると、その上にそっと紅刃の手が重ねられた。顔を上げると、紅刃が優しく微笑んでいる。
「紅刃」
「お嬢。俺のせいで、こんなことになってごめんね」
それから紅刃は静かに手を離すと、諦念の浮かんだ顔で立ち上がる。その瞬間、背後で部屋の襖が荒々しく開かれ、数人の男たちが駆け込んできた。門下の魔術師たちだ。歌子が止める間もなく、男たちは紅刃の両手を後ろで拘束し、跪かせる。紅刃は、抵抗すれば歌子の立場がさらに悪くなるとでも思っているのかもしれない、男たちの拘束を解こうとはしない。
「やめて!」
叫んだ瞬間、歌子は素早く背後に回り込んできた龍雅によって紅刃から引き剥がされた。
「嫌……嫌よ、紅刃!」
「お嬢……」
「諦めろ、歌子。当主の決定だ」
「家族をあっさり切り捨てる、それが父親の決定? 母様も、兄様も姉様も、こんな理不尽なことに唯々諾々と従っちゃって、おかしいわ」
「黙れ、歌子」
「私だけなら、多少の理不尽は笑って流してやるけど、紅刃を奪おうとするなら許さない。私はもう、紅刃を手放さないと決めたの」
ほんの一時とはいえ、失って気づいた。彼が歌子にとってどれほど大きな存在だったか。
いつもそばにいて、守ってくれた。末の妹であるが故、次期当主候補の龍雅や、彼に匹敵しうる長女の沙耶ほどの価値がないと思われ、彼らほどの熱意を注がれずに育てられた歌子に対して、紅刃だけは優しかった。家族以上に家族らしかった。
だったら、家族は紅刃がいればそれだけでいい。他の奴らなんか知るか。
父親たちに理不尽に圧迫されていた娘は、初めての反抗期を迎え、啖呵を切る。
「私たちがいつまでもつまらない家のしがらみなんぞに縛られてしおらしくしてると思ったら大間違いよ! こんな意味わかんない処刑を受け入れるくらいなら、家なんか出てって駆け落ちしてやるからね!」
「お、お嬢!?」
紅刃が想定外の言葉に目を剥いた。歌子は構わず言う。
「やっちゃって、紅刃!!」
驚愕のままに目を白黒させていた紅刃は、やがてふっと不敵に笑うと、
「――我が主の望むままに」
直後、紅刃は己を押さえつける男たちを力ずくで吹き飛ばす。
宗達は厳しい表情で紅刃を睨み、七巴は目を見開き口元に手を当てている。沙耶は冷淡な顔で、右手に刀を現し腰を浮かせた。
歌子を拘束していた龍雅は僅かに焦りを滲ませていた。
「歌子、やりやがったな! 今の命令は黒須家に対する造反だ!」
言うや否や、今すぐ処刑してやるとでも言いたげに、龍雅は右手に銃を現す。左手を歌子の首に絡ませ締め上げながら、銃口は紅刃に向ける。まるで籠城犯が人質を取っているような図で、誰が悪者だか解りやしない。
紅刃は血の剣を生み出し、龍雅に相対する。はっきりと敵対する意思を向ける紅刃に、龍雅が苛立たしげに舌打ちをするのが聞こえた。
一触触発の修羅場。そこに、
「――はぁい、そこまでー!」
この場に不似合いな陽気な声が響き、全員がぎょっとして振り返る。
「いやぁ、チャイムを鳴らしたけれど誰も出ないから、勝手に上がらせてもらったよ。お取込み中申し訳ないねえ」
欠片も申し訳なさそうに思っていない調子で言う女性に、宗達があからさまに嫌そうな顔をした。
「こ……こんな時に、この上なく面倒な奴が……」
思わずといった風に漏らされた本音に、彼女はにたりと意地悪く笑う。
「おやおや、なんだかものすごぉく失礼な言葉が分家当主の口から聞こえた気がするけど、特別に聞こえなかったことにしてあげようか? ん?」
「分家」をやたらと強調して恩着せがましく告げたのは、神ヶ原を守護する退魔師の本家筋、現当主・不破竜胆だった。




