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絆は誰にも壊せない(1)

 闇に沈んでいた意識が少しずつ浮上する。指先がぴくりと動き、唇から掠れた吐息が漏れ、瞼が薄く開いた。夏の陽光が瞳を刺し、意識を覚醒へと向かわせる。

「ん……こ、こは……」

 見慣れた天井が目に入る。慣れた肌触りのベッドの上に横たえられている。随分と久しく離れていたようにさえ感じられる自室に、どうやら戻ってきているのだと解り、紅刃はゆっくりと体を起こした。

 いったいどれくらい時間が経ったのだろう。窓の外に見える空は明らかに昼間のものだ。少なくとも一日は経っている。この部屋まで自分で辿り着いた記憶はない。誰かが運んでくれたはずだが、部屋には自分以外に誰もいない。状況はどうなっているんだ。混乱する思考をまとめようと、紅刃は深く息をつく。

 頭が重いし、体が怠い。麻酔弾を撃ち込まれたことはおぼろげに覚えている。その後遺症かもしれない。肩には包帯が巻かれていて、ゆっくりと動かすと小さく痛んだ。だが、その痛みのおかげでぼやけていた意識が次第に鮮明になっていく。

 自分が犯した罪への意識が鮮明に蘇ってくる。

 握りしめた血の刃の感触、それが肉を貫いた生々しい感触が思い出され、背筋が凍り、紅刃は息を呑んだ。

「っ、俺は……」

 途端に震えだす己の体を抱く。心臓がどくどくと早鐘を打ち、息が苦しくなる。

 自分の意思で主を傷つけたこと、そしてそれが無意味だったと思い知らされたこと、魔術師に支配されるままに主に牙を剥いたこと。自分の無力さを思い出すと吐き気がした。

 ひたすらに自己嫌悪に沈んだ後は、今度は歌子の身が心配になる。自分が気を失った後、彼女はどうなったのか、無事なのか。

 紅刃はよろよろとベッドから這い出し、ふらつきながらも部屋の入口に辿り着く。そろそろと扉を開けて廊下に顔を出す。と、丁度扉の前に立って今まさにノックをしようと手を挙げた状態で止まっていた歌子と鉢合わせた。

 はたと目が合う。軽く驚いた表情を見せていた歌子は、直後、ぱっと花開いたような笑顔を浮かべた。

「紅刃! 目が覚めたの!」

 満面の笑みで喜びを表す。と思ったら、ころりと表情を変えて今度は怒りだした。まるでスイッチを切りかえているかのように。

「って、駄目じゃないの起きたら! まだ安静にしてなきゃ駄目! バック! 今すぐバック!」

 半ば強引に部屋の中に押し戻され、ベッドに転がされる。心配してもらえるのは、嬉しくないわけではない。だが、どう考えても自分より歌子の方が重傷だったに違いなく、その上その原因が自分であることを自覚している紅刃は、素直には喜べない。

「お……お嬢、の方こそ、安静にしていなきゃ駄目なんじゃないの」

 ほんの一瞬、いつものように「お嬢」と呼ぶことが躊躇われてしまった。その葛藤に気づいたか否か、歌子は屈託なく微笑み応じる。

「私は頑丈なの。これくらいでへばったりしないわ。私のことはいいから、あなたは自分の体の心配をして、早く元気になりなさい。これは命令ですっ」

「お嬢……」

 不意に、歌子の薄手のブラウスの下に透けて、剣の形の契約紋が見えた。主従を繋ぐ証の紋章をじっと見つめ、紅刃は諦念の混じった溜息を深くつく。

「お嬢、俺との契約を解い――」

「言わないで!」

 紅刃の意図を察してか、最後まで言わせずに歌子が叫んだ。思いがけず、泣きそうな歌子と目が合って、紅刃は胸を突かれた。

「お願い、言わないで。私のことが嫌になったって言うなら止めないけれど、そうじゃないなら、そんなこと言わないで」

「……嫌いになるわけないよ。俺はお嬢のことが大好きだから。だけど、俺はお嬢を傷つけた」

 主を傷つけるような自分が式神として相応しいわけがない。傍にいたい願望と、隣にいてはいけないという自責が入り混じる。

「それが何よ」

 そんな苦悩を、歌子はばっさりと切り捨てた。

「そんなこと言ったら、元はと言えば私があなたの意図に気づかないで空回りしたのが悪かったんだから、あなたが自分を責めることなんてないの」

「お嬢は悪くない。俺が……」

「あなただって悪くないわ」

「主人に手を掛けるなんて、従者失格だ。俺にはもうお嬢の式神である資格がない」

「資格って何。ほんの一回や二回失敗しただけでなくなっちゃうようなものなの? そんなわけないでしょ」

 歌子はそっと胸の契約紋に触れて訴える。

「この契約紋を奪われた時、身を引き裂かれるようだったわ。こうしてやっと取り戻せて、あなたが戻ってきてくれたのに、なのに、また私の前からいなくなろうとするの? そんなのってないわ。お願いだから、もうどこにも行かないで」

 言いながら、どこにも行かせまいとするように、歌子は紅刃にしがみつく。その拍子に傷が疼き、紅刃が僅かに身を震わせると、それに気づいたらしい歌子が躊躇うように腕の力を緩める。しかし、やはり我慢できなかったかのように、もう一度きつく抱きしめてきた。

「私はもう、紅刃を離したくないの」

「お嬢……」

 歌子の声は、震えていた。そして、応じる紅刃の声も

「離したくないのは、俺の方だ」

 こんな自分を、必要だと言ってくれる。傍にいてほしいと言ってくれる。優しくて、愛おしい主人。彼女なしではいられないのは、紅刃の方だ。

「ごめんなさい、お嬢」

 ともすればすぐにでも決壊して泣き出してしまいそうに震える声で吐露する。

「俺、お嬢の傍にいたい……俺の主は、あなたしかいないんだ。酷いことを言って、傷つけて、失敗してばかりだけれど、こんなことを言える立場じゃないかもしれないけれど、それでもどうか、俺を赦して、俺をあなたの式神でいさせて……」

 紅刃は歌子の肩に顔を埋めて、縋りつくように抱きしめる。小さな手が優しく頭を撫でてくれた途端に、もう我慢がきかなくなった。切実な声はやがて啜り泣きに変わった。


★★★


 泣き疲れてしまったらしく、紅刃は歌子の膝の上で眠っていた。自分よりずっと大きな体で、ずっと長生きしているけれど、こうしてみるとなんだか子供のよう。いつもは頼りがいのある兄のように感じるけれど、今はとても幼く見える。静かな寝顔を見下ろして、歌子はくすりと小さく微笑む。

「大丈夫……だって、私たちは家族だもの。家族の繋がりは誰にも引き裂けないって決まってるの。だから安心して、ずっと私の隣にいて」

 歌子はそっと紅刃の髪を撫でてその眠りを見守る。

 コツン、と窓に何かがぶつかる音がした。顔を上げると、白い鳥が嘴でガラスをつついていた。

「お入りなさい」

 家主である歌子が許可の言葉を口にすると、白い鳥は窓ガラスをすり抜けて部屋に進入してきた。歌子が右手を伸ばし掌を仰向けると、鳥はその上に降り立った。

 鳥は手の上でするするとほどけて、一通の手紙に変わった。何者かが遣わした文だ。

 否、誰が手紙を寄越したのかは、想像がついている。


★★★


 数日の後には、歌子も紅刃もだいぶ本調子になっていた。夏の日差しが本領を発揮し始める前にと、歌子は午前のうちに紅刃を伴って病院に向かった。神ヶ原駅からバスで十分ほどの場所にある神ヶ原総合病院を、訪れるのはこれで二度目だ。奇しくも、二回とも目的は同じ、不破京介の見舞いである。

 受付で面会用のバッジを受け取り、病室を尋ねる。中央病棟十階と聞いて、案内表示に従って長い廊下を進む。

 エレベーターで十階に上がり、京介の病室に辿り着く。ノックをするが返事はない。浮かない表情で、歌子はスライドドアを開けて中に入った。

「――返事をしていないのに入ってくるなら、ノックの意味がないだろう」

 開口一番に憎まれ口をきくのは芙蓉だった。返事がないから誰もいないのかと思ったが、やはり芙蓉は付き添っていたようだ。歌子は力なく苦笑する。

「ノックが聞こえているのに返事をしなかったのは、芙蓉さんでしょう」

「面倒だったんだ」

 溜息をつきながら、芙蓉はベッドの傍らのパイプ椅子に深く凭れた。彼女にしては珍しく、疲れた顔をしているように見えた。

 芙蓉の視線の先、ベッドの上では京介が眠っている。千鳥八尋との一戦から、京介はまだ目を覚ましていない。元々京介は肌が白いと思っていたが、今の彼の顔は、白を通り越して青白いように見える。

「腹をぶち抜かれた上に散々甚振られて出血も酷かったし、その状態で無茶をして戦ったんだ。無理もない」

「俺が刺したせいだ。ごめん、芙蓉ちゃん」

 紅刃が頭を下げるので、歌子は慌てて言う。

「私を庇ったせいでこんなことになったの。ごめんなさい」

「お嬢は悪くない、俺が」

「違うの、私が」

 責任の押し付け合いならぬ引き受け合いをやっていると、芙蓉が呆れたように溜息をついた。

「素晴らしい主従愛だが、いちゃつきに来たなら帰れ、馬鹿共」

「う……」

「京介はお前たちを責めはしないだろう。だから私も責めるつもりはない。京介は、紅刃、お前に主人を傷つけるような真似をさせたくなかった。そのために身を挺した。京介の考えは理解できる。こいつは主人と式神の絆というものを、何より大事にしているから」

 芙蓉は京介の髪をそっと梳く。慈しむような仕草を見ていると、京介以上に主従の絆を信じているのは、芙蓉の方なのではないかと思える。

「元凶の千鳥八尋は潰した。この話は、それで終いだ」

 芙蓉の黒天撃により虫の息となった千鳥八尋を、駆けつけた中央会魔術師・高峰蓮実が連行して行った。千鳥に対する尋問や処罰は中央会によって行われる。同時に、千鳥によって使役されていた琥珀丸と澪鋼も、事情聴取のために中央会に連れていかれた。竜胆を通して聞いた話によれば、式神たちは千鳥に強引に服従させられていただけであるため、罪に問われることはないだろうとのことだ。しかし、「蠍」の効力が切れて解放され、紅刃と芙蓉は主の元に戻れたが、琥珀丸と澪鋼は戻るべき主人がもういない。失意の中にある二人が今後どうするかは、まだ解らない。

「式神が主人と死別することは、よくあることだ。主となる人間の寿命が明らかに式神より短いのだから、当然だ。それでも、命数尽きるまで主人に仕えたいというのが式神の望みだ。二人は無念だっただろうな」

「そうでしょうね」

「奴らの命はこの先長い。その長い未来をどう生きるか、あるいは主の後を追って死ぬか。それは、奴らの選択に委ねられるべきものだ」

「芙蓉ちゃんだったら、どうする?」

 紅刃が問うた。

「もしも彼が死んだら、芙蓉ちゃんはどうする」

「お前はどうするんだ」

「俺は」

 紅刃はいたって神妙な面持ちで答える。

「俺の命はお嬢のものだ。お嬢以外の主なんてありえない。だから、お嬢と共に生きて、共に死ぬ」

 歌子はそれを、嬉しいような切ないような気持ちで聞いていた。一緒に生きてくれると言ってもらえるのは嬉しい。だが、自分より長い寿命の紅刃を自分と一緒に死なせていいものかと思う。

 その考えを読んだように、紅刃が歌子と目を合わせ、そっと微笑んだ。

「俺はお嬢なしじゃ、もう生きられないから」

「……そう。私も、紅刃と一緒じゃないと、駄目だと思う」

「惚気に来たなら帰れ、馬鹿共」

 芙蓉が本当に今にも追い出しかねないほど不機嫌そうに言うので、紅刃が慌てて弁明する。

「そんなつもりじゃなかったんだって。それで、芙蓉ちゃんはどうなのさ」

「私は知ってのとおり、従順とは程遠い。お前ほど殊勝な生き方はできないさ」

 それだけ言って、芙蓉は口を噤む。うまくはぐらかされたような気もするが、紅刃はそれ以上追及はしなかった。

 しばらくの間、ぽつぽつと会話をした後、歌子が時計を見て「そろそろ時間ね」と一人ごちた。

「お暇しましょう、紅刃」

「そうだね」

「京介君がまだ目を覚まさないのは残念だけれど、もう峠は越えたのよね」

「ああ。そのうち目を覚ますはずだ」

「よかった。芙蓉さんもいるし、安心ね。()()()京介君の顔を見られてよかったわ」

「……」

 芙蓉が訝しげに眉を寄せる。だが、口を挟ませずに、歌子は別れを告げた。

「じゃあね、芙蓉さん。京介君が起きたら、よろしく」

 歌子は紅刃を連れて、病室を後にした。

 

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