奪われたら奪い返せ(9)
どうして来てしまうんだ。京介は絶望的な気持ちで、闖入者を見つめた。
千鳥は芙蓉を認めると、すぐさま京介と歌子への興味を失ったようで、にたりと不気味な笑みを張り付かせて芙蓉を見つめた。まるで獲物を前にして舌なめずりをしているかのように、千鳥の手から伸びる鎖がしゃらりと鳴った。
「芙、蓉……来るな……」
どうにか声を絞り出して訴える。消え入りそうなか細い声だったが、芙蓉には届いたようだった。だが、芙蓉は決して京介の言葉通りに逃げようとはしなかった。京介を一瞥すると、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「死に損ないの馬鹿魔術師は黙って息だけしていろ。三分で片づけるから、それまで死ぬな。死んだら殺す」
無茶な要求を叩きつけると、芙蓉は千鳥を睨みつけた。剥き出しの殺意にさらされながらも、千鳥は悠然と笑っていた。
「丁度、お前に会いたいと思っていたところだよ、芙蓉姫。まさかそっちから来てくれるとはね」
「気安く呼ぶな、カス虫が。甘っちょろくて低能でも、京介は私の主だ。そいつに手を出したからには、五体満足では帰さんぞ」
「いいね、その反抗的な態度。主を傷つけられてご立腹か。そういう強気な式神が、ころりと態度を翻して俺に従順になるかと思うと、楽しみでぞくぞくするよ!」
千鳥が右手の鎖を伸ばす。鋭く尖る鏃が芙蓉めがけて飛来する。
「黒曜剣。叩き斬れ」
右手に漆黒の剣を現し、両手で握りしめると、己に向かって迫る鎖へと振り下ろす。刃がぶつかり合った瞬間、細身の鏃は芙蓉の怪力が乗った剣を抑えることができず、あっさりと砕かれる。振るわれた勢いのまま、剣は激しい音と共に床に激突する。古い建物の床がかろうじて抜けずに済んだのが奇跡だった。
床に埋まった剣を持ち上げると、芙蓉は千鳥に肉薄する。「蠍」を破壊され泡を食った千鳥が、左手を突き出し詠唱する。
「障壁展開!」
千鳥と芙蓉の間を隔てるように、不可視の魔術障壁が生み出される。芙蓉は構わず千鳥へと剣を振るう。コンクリートの壁に叩きつけるような固い音が響き、剣先は千鳥に触れる前に結界に阻まれた。
「はあああッ!」
だが、障壁など知るかとばかりに、芙蓉は更に力を込める。ずる、と千鳥の脚が後ろに下がる。障壁ごと、千鳥の体が押されつつあった。常軌を逸したパワーに、千鳥は目を剥いた。
「潰れてろ、外道!」
芙蓉の剣は、そのまま力任せに千鳥を吹き飛ばす。障壁など関係ない。障壁諸共、千鳥を壁に叩きつけた。
建物全体が揺れるほどの衝撃で、千鳥を壁にめり込ませる。小さく息をつき、芙蓉は床に剣を突き立てると、京介の傍らに膝をつく。
「私を除け者にして無茶をするから、こんなことになるんだ」
「……お前を、危険に晒したく、なかった」
「何が危険だというんだ。杞憂だ。お前は心配性すぎる」
結局危なげなく千鳥を倒し、あっさりとそう言う芙蓉に、京介は疲れたように溜息をつく。確かに、彼女の言うとおりだったのかもしれない。芙蓉は強い――弱い自分が心配する必要などないほどに。最初からそう信じて、彼女を頼ってよかったのかもしれない。
「ごめん……芙蓉……」
「謝らなくていい。余計なことは考えずに息だけしてろ」
優しいのか優しくないのか解りにくい命令だが、いつも通りな調子の物言いに安心する。意識がふっと弛緩する。
「安心するのは早いんじゃないのか?」
ずん、と重い衝撃が走る。次いで体中を駆け回る強烈な熱と痛みに、びくりと痙攣する。
「っ、ぁ……!」
声にならない悲鳴が漏れる。一瞬で持っていかれそうになった意識をどうにか繋ぎ止め、ようやく現状を理解する。京介の体を、鎖が貫いていた。
死角――床の下から襲ってきた鎖に、京介は為す術なく射抜かれていた。紅刃に刺された傷を押し広げるような悪意に満ちた奇襲だった。
そして、京介を貫いた鎖は、その先にいる芙蓉の胸を貫く。
「芙蓉……ッ!」
警戒している芙蓉に気づかれずに命中させるために、蠍は一度床に潜り、さらに京介の体を目隠し代わりに貫通させてから、芙蓉の体へ伸びていた。鏃の埋まる芙蓉の胸は、しかし一滴の血も流れていない。蠍は人間に対しては凶悪な凶器となり、式神に対しては略奪の魔術具となる。芙蓉が驚愕に僅かに目を見開いていた。
くつくつと喉の奥で心底愉快げに笑う声が響き、ずるりと鎖が引き抜かれる。鎖はよろよろと歩み寄ってくる千鳥の左手に収まった。
「気を抜いたな、芙蓉姫」
「……その鎖は二本とも私が壊したはずだが」
「蠍は二本だけだと誰か言ったのか?」
突如、京介の右手に鋭い痛みが走る。まるで皮膚を引き剥がされるような激痛だ。震える手を持ち上げ見遣ると、その手に刻まれた花弁の契約紋が、紫色の邪悪な光を纏い始め――砕け散った。
「っ!!」
その光景を――契約の絆が強引に断ち切られた瞬間を、京介は信じられない気持ちで見ていた。そんなはずがない、何かの間違いであってくれ。愕然とし、京介は限界を訴える体を叱咤してどうにか起き上がる。今にも崩れそうな体を支え、失われた契約紋を求めて瞳を彷徨わせる。
千鳥が右手を持ち上げ、見せつけるように翳す。その手に刻まれていた印に目を止め、京介は唇を震わせる。
「嘘……」
抉られた傷が痛む。血が流れだし生気が失われていく。だが、そんなこと、今はどうだっていい。そんな些末なことよりも、契約紋の方が、芙蓉の方がずっと大事だ。決して奪わせてはならなかったものが、こんなにもあっさりと、敵の手に渡ってしまったなんて。
「必死で守ろうとしたものを、こうも簡単に奪われる気持ちはどうだ。守ろうとしていた者が敵に回る気分は。……一瞬前まで守っていた主を殺す気分はどうだ、芙蓉姫」
「……京介」
芙蓉がぽつりと漏らす。
「私から離れろ」
「……」
思わず息を呑む。傷つけてしまう前に逃げろとでも言うのだろうか。だが、ぼろぼろの体では動くことは叶わない。京介は呆然とへたり込んだまま動けない。
絶望で凍りつく京介を見下ろしながら、千鳥は無情に告げる。
「契約の証を以て命じる――芙蓉姫よ、不破京介を殺せ」
「――」
芙蓉の目がすっと細められる。頭上に両手を挙げ、妖力を収束させ始める。
稀眼を使うまでもなく、芙蓉の凶悪なほどの黒い妖気が集まっていくのが見えた。芙蓉を中心に妖気が渦を巻き、周りに激しく風が吹く。まるで嵐の傍に佇んでいる気分だ。
芙蓉の手の中に黒い光の弾丸が生み出される。それは、少しずつ黒い色を足していくみたいに、徐々に深い闇色に染まっていく。
「遍く光を喰らい、ものみなすべて、深淵に沈めよ。其は永久の闇」
膨大な妖力の奔流は指先に乗るくらいの小さな黒い光の塊にまで凝縮される。集積されたエネルギーがどれほどの威力を持つのか、考えるだに恐ろしい。
予測不能なほど凶悪な闇色の弾丸を生成し、芙蓉は無表情に告げる。
「――潰せ、『黒天撃』」
断罪の剣の如くに腕を振り下ろし、漆黒の弾丸を撃つ――千鳥八尋に向かって。
「な……?」
その攻撃が京介に向けられると信じて疑わなかった千鳥は、眼前に迫った闇色の弾丸に目を見開いた。
着弾の瞬間に、押し込められた闇が炸裂する。黒い光が爆発し、千鳥を呑み込む。耳を劈く轟音に京介は思わず耳を塞ぐ。吹き荒れる暴風に、体が煽られ、踏みとどまれず吹き飛ばされ、後ろに転がされる。
全く声が通らない暴力的な音と、視界を塗り潰す深い闇。呑み込んだものを全て押し潰す絶対的な重力の嵐は、巻き込まれたら最後、逃れる術はない。
一切のものを超高密度の重力の闇に呑み込み殲滅する。ブラックホールを彷彿とさせるような黒天の一撃。
衝撃の余波がやむまでの時間は永遠のように長く感じた。吹き荒れていた嵐がようやく収まってきてから、恐る恐る目を開ける。陽光がやけに強く感じられる。それもそのはずで、千鳥が立っていた場所は、綺麗さっぱり、床も壁も天井も崩れ去っているのだ。この建物自体が倒壊するのも時間の問題かもしれない。千鳥はおそらく、粉々にされた瓦礫と一緒に地上で沈黙しているだろう。
圧倒的すぎる破壊の術に、京介は唖然とする。恐ろしい広域殲滅術を繰り出した芙蓉は、実に涼しい顔をしていて、乱れた髪を手で払いのける。
「京介の命令でさえロクにきかない私が、ぽっと出のカス虫なんぞの命令に服従するわけないだろうが。身の程を弁えろ、下衆が」
傲岸不遜な規格外式神は、誰の手に契約紋があろうと、己が認めない限りは従うつもりがないらしい。
それから芙蓉は、無様に転がる京介を振り返ると、訝しげに眉を寄せて言った。
「何をしている、京介。巻き添えを食うから私から離れていろと言っただろう」
「……そんな親切な言い方は絶対してなかった」
力なくそうツッコミを入れるのが精いっぱいだった。
「おやおや、随分と派手にやらかしたね、おヒメ」
くすくすと笑いながら、背中に生やした黒い羽で羽ばたき窓から飛んできたのは烏丸弁天である。弁天がこの場にいることに、芙蓉は不機嫌そうに顔を顰めた。
「なぜお前がここに?」
「ご挨拶だねえ。お前の不甲斐ない主を、お前に代わって守ってやったのさ」
「そいつはどうも」
棒読みで、かなり不本意そうに、それでも一応礼を言った芙蓉に、弁天は苦笑した。
「さて、折角の再会を楽しみたいところだけど、おヒメが派手にやらかしたせいでゆっくりもしていられなくなった。騒ぎを聞きつけた連中がすぐに来るだろう。一応私はお尋ね者なものでね。ここらでトンズラさせてもらうよ」
「……弁天」
本当にさっさと姿をくらませそうになる弁天を、京介はすんでのところで呼び止める。
「助かった。ありがとう」
弁天はくすりと笑うと、
「礼には及ばない。借りを返しただけさ」
そう言うと、弁天はさっと窓から飛び立った。
「まったく、私を置き去りにした上に、よりによって弁天なんぞに頼りおって」
芙蓉としてはそれが面白くないらしく、露骨に不機嫌そうだった。
不意に、右手にじわりと熱が戻ってくる。見ると、白い光の粒子が収束し、花弁の紋様を刻みだしていた。それを見下ろし、芙蓉が告げる。
「魔術の核ごと破壊できたのか、あるいは千鳥八尋が術を維持できなくなったか……どちらにしても、これで解決といったところか」
「ああ……」
右手に戻ってきた契約紋。それをそっと撫で、京介は安堵の溜息をつく。
「……よかった」
それから、倒れている歌子たちを見遣る。歌子はいつのまにか、気を失う紅刃の傍まで来て、彼を庇うように抱いた状態で気絶していた。おそらく、芙蓉の黒天撃から紅刃を守ろうとして、必死だったのだろう。彼女の胸に白い光が戻っていくのを見て、愁眉を開く。
「終わった、か……」
安心したせいか、急に意識が遠のき始める。何とか気を張って、騙し騙しで戦っていたが、無茶にも限度がある。
重い瞼を閉じれば、意識は急速に闇へ沈む。
どさりと自分の体が崩れ落ちる音を、まるで他人事のように聞いていた。




