奪われたら奪い返せ(8)
琥珀丸が元の主人を殺し、澪鋼が元の主人を殺した。なぜか。そう命じられたからに違いない。
式神は、命令されればそれを拒むことはできない。命令をしょっちゅう無視する規格外の式神は、本来ありえないものだ。
普通の式神である琥珀丸と澪鋼は、契約紋を持つ主人の命令に逆らうことはできなかった。だからかつての主人を殺してしまった。殺せてしまった。
そして紅刃も、契約に縛られる式神である以上、命令されればその通りに動くほかない。
だから、命令の言葉だけは口にさせてはいけなかったのだ。
私は馬鹿だ――歌子は愕然とする。
契約紋が千鳥に渡った時点で、紅刃は予期していた。千鳥が琥珀丸と澪鋼にやらせたように、紅刃にも歌子を殺させようとすることを。だから、そうなる前に、紅刃は自分の意思で千鳥に従った。従順なふりをした。そうして、千鳥に命令の必要性を感じさせないようにしていた。命令するまでもなく自分は主人に服従するのだ、と錯覚させようとした。
決定的な言葉を出させないために、冷酷な裏切り者を演じて、だけど最初から彼は、歌子を守ろうと必死だった。
――それなのに、私はそれに気づかないで、のこのことこんなところに来てしまった。
紅刃を取り戻そうとしてやったことは、取りも直さず、紅刃に望まぬことをさせることにつながった。守るために突き放したはずの歌子を自分の意思で傷つける他に方法のなかった紅刃は、どれだけ虚無感に襲われただろう。
だがきっと、今となっては、紅刃はそんな無力感を感じてはいないだろう。
「契約の証を以て命じる――その女を殺せ」
スイッチが入った。その言葉が致命的だった。
紅刃の瞳から意思が消え失せる。光が消失する。虚ろに見開かれた瞳は、主人に命じられた標的を無感情に見据える。まるで、人形のようだった。
一瞬だった――紅刃は小ぶりな短刀を捨てると、己の手首を噛み切り、血を流す。そうして溢れた血を操り、鮮やかに蠢く太刀を生み出した。凶悪な得物を両手で握りしめ、突き出す。
軋む体と、自分の愚かさに絶望した心では、それを避ける余裕などありはしなかった。
鋭い切っ先を以て放たれる刺突が胸を貫こうとするのを、歌子は他人事のように見つめる。
その瞬間、だんっ、と力強い足音が背後で聞こえた。と同時に、襟首がぐいと力任せに引かれ、歌子は後ろにのめってたたらを踏む。強引に歌子を紅刃の凶刃から引き剥がし、庇うように人影が前に出るのを認め、歌子は瞠目する。
「――京、」
予期せず後ろに引きずられたせいでバランスを崩し、歌子は尻餅をつく。痛みに顔を顰めながら見上げると、大きな背中が歌子を守り立ちはだかっている。
「京介君!」
京介が紅刃の攻撃を、文字通り体を張って防いでいた。肩越しに振り返り、京介が怒鳴った。
「歌子! 紅刃を止めろ!」
はっとして、歌子は床に転がった銃に縋るように飛び付き、立ち上がりざまに構えた。絶望している暇はない。紅刃を、止めなければ。
――それが主人の責任だ。
京介が抑えてくれている隙を逃さず弾丸を放つ。超近距離からの射撃、外すはずもない。紅刃の左肩にヒットする。弾丸には麻酔薬が使われている。更に、屈強な妖相手でも動きを封じられるように、眠りの魔術が施されている。着弾と同時に術が発動し、紅刃が僅かによろめいた。更に二発、急所を外して撃ち込み追い打ちをかける。
紅刃が握っていた血の刃が硬質化を解かれ床に散る。紅刃が術を保てなくなったのだろう。やがて、ぐらりと紅刃の体が傾ぐ。歌子は痛む体に鞭打って紅刃に駆け寄り、倒れそうになる体を支えた。
意識を失った紅刃を床に横たえ、歌子は傍らにへたり込む。
「ごめんね、紅刃……私のせいで、こんな……」
こんなことは望んでいなかった。守ろうとしただけなのに、傷つけることになってしまった。その虚しさに胸が痛んだ。
虚しさと悲しさが混ざり合って細波のように押し寄せる。それを押し返すように、別の感情が――すべての元凶である千鳥八尋への怒りが湧き上がる。
千鳥だけは許せない。この手で殴り飛ばしてやらなければ気が済まない。怒りの矛先を千鳥に降り下ろすように、歌子は顔を上げた。
その時、からん、と何かが床に落ちる音がした。つられて振り返ると、銀色に光る刀が落ちている。
それは見慣れた、京介の退魔刀・刈夜叉だった。しかしそれは、いつもとは違う姿で転がっている。
刀身が真っ二つに折れた状態で、京介の手から零れ落ちていた。
「京介君――!?」
歌子が息を呑むのと同時に、京介ががくりと膝をつく。
千鳥八尋がふっと笑う気配がした。
★★★
階段を駆け上がり、目の前の部屋の中で繰り広げられる光景が目に飛び込んだ瞬間、体は反射的に動いていた。
紅刃が歌子を襲おうとしている。歌子は動く気配がない。紅刃は正気には見えなかった。このままでは紅刃は歌子を貫いてしまうだろう。
それは駄目だ、と京介は走った。自分の手で主人を手にかけてしまったら、取り返しがつかない。後戻りができなくなる。式神に主人を傷つけさせるような真似は、させてはいけない。
刈夜叉を手に疾駆する。呆然と立ち竦む歌子を引き寄せ、刈夜叉を盾代わりに構えて前に出る。赤い刀の切っ先が、刈夜叉の刀身を突く。
それで受け止め切れればよかった。だが、一切の容赦を失くした紅刃の一撃は、予想以上に重く強かった。がきんっ、と不吉な金属音が響き、退魔刀の刀身が折れた。
「――ッ!」
防御を突破した紅刃の刀が、京介の体を貫く。漏れそうになった悲鳴をどうにか押し留める。抉られた腹部が火を押しつけられたみたいにひどく熱い。内臓をぐちゃぐちゃに撹拌されるような感覚に意識が飛びかける。
そこで倒れずに済んだのは、ひとえに、腹に風穴を開けられるのが二度目だったからに他ならない。慣れたとまで言うつもりはないが、初めての時よりは衝撃がいくぶんか薄い。歯を食いしばり、刀を引き抜こうとする紅刃の手を掴み引き留める。みすみす逃がしてなるものか。
紅刃の動きを抑えたまま、京介は歌子に向かって叫んだ。
「歌子! 紅刃を止めろ!」
歌子の動きは迅速だった。続けざまに放たれた銃弾が紅刃を射抜く。自分の体を貫通していた刃が形を失い流れ落ちたのが、終幕の合図だった。紅刃の体が崩れ落ちていくのを、歌子が支えていた。
千鳥によって操られ、歌子を殺そうとした紅刃。どうにか殺させずに済んだようだ。そう安堵した瞬間、押し込めていた苦痛が溢れだし、折れた刀を取り落し、堪えきれずに膝をついてしまった。
「京介君――!?」
歌子のいつになく切羽詰まった声が、自分の窮状を端的に表していた。崩れ落ちそうになる体を、ぎりぎりのところで床に手をついて支え、荒く息をつく。首筋を嫌な汗が伝う。
「京介君っ……わ、私を、庇ったせいで……!」
歌子が泣きそうな顔をして言う。
「歌、子……紅刃を連れて、早く、逃げろ……」
敵はまだ残っている。
そう告げる前に、京介の顔に翳が落ちる。視線を上げると、眼前に千鳥八尋が迫っていた。
昏い笑みを浮かべる千鳥は、邪魔な虫を払うかのように、無造作に歌子を蹴り飛ばす。小さく呻き声を上げながら華奢な体が転がっていく。
だが、人の心配をする暇もなく、次いで放たれた蹴撃は、狙い過たず京介の傷のある腹を蹴り上げた。
「ぐぁああッ!」
全身に広がる鋭い激痛に、今度こそ耐え切れずに悲鳴を上げる。為す術なく床に倒れ震える京介を、千鳥はわざと傷を抉るように踏みつける。
「あ……ぁッ……」
「まったく、折角面白くなってきたのに、よくも邪魔をしてくれたものだな。さて、この落とし前はどうつけてもらおうか。ただ殺すんじゃ、割に合わない……」
くすくすと邪気に満ちた笑みを浮かべながら、爪先で傷を広げる。払い除けようと両手で千鳥の脚を掴んでも、ロクに力の入らない腕ではどうすることもできなかった。
「ああ……そうだ、いいことを考えた。そういえば、お前も確か式神を持っていたはずだな」
にたりと唇を吊り上げ、千鳥は京介の上に馬乗りになり、身動きを封じた上で京介の右手を掴み取る。その手に刻まれた契約紋を凝視し、狙っていた。
「ほら、式神を呼べよ。助けを求めろ。そうすれば、殺さないでやってもいいぜ?」
「ふざ、けるな……!」
千鳥の狙いは解っている。「蠍」を使って芙蓉をも略奪するつもりなのだ。彼の要求は「自分の命惜しさに式神を差し出せ」と言っているようなものだ。
「自分の状況が解っているか? 拒否できる状態じゃないだろう。式神はただの道具だ。命を懸けてまで道具を守ろうとするなんて馬鹿げている」
芙蓉は道具なんかじゃない。そう言おうとして、しかし声にはならなかった。
千鳥の手が傷口を掻き回す。激しい苦痛に襲われ、喉の奥からせり上がる血反吐を吐き出し、同時に瞳から涙が溢れた。
「俺の魔術は契約を奪うものだ。現在の契約者を殺してしまえば、その時点で契約は消滅してしまうから、式神を奪えない。だから、困ったことに俺はお前をまだ殺せないんだ。こうやって、痛みで屈服させるしかない。なあ、こうしていても無駄に苦しみを長引かせるだけだぜ。早いとこ、音を上げてくれないかな」
千鳥は掴み取った京介の右手を強引に引き寄せ、花弁の形の契約紋を見つめて、魅せられたように目を細める。
「これを、俺のものにしたい。お前から剥ぎ取って、俺のものに」
何を思ったか、千鳥は徐に京介の手の契約紋に舌を這わせる。ざらりとした感触に怖気が走る。京介に抵抗する力が残っていないのをいいことに、千鳥は心底愛おしげに、花弁の印を舐めた。
その時、千鳥の額を光弾が掠めた。前髪を攫い、薄く皮膚を裂いていった弾丸を、放ったのは歌子だった。苦しげな呼吸をしながら、やっとという様子で体を起こし拳銃を構え、歌子は吐き捨てる。
「いい加減にしなさいよ、このド変態泥棒野郎」
「ふん、どうやら先に死にたいらしいな」
千鳥は京介を放って立ち上がり、歌子に視線を向ける。
「お前は生かしておく理由がない。本当は紅刃にやらせたかったが、仕方がない。俺の手で、今すぐ殺してやるよ」
「誰が殺されるか!」
気丈に吠えると、歌子は光弾を放つ。相対する千鳥は軽く右手を持ち上げる。そこに嵌められた腕輪から鎖――「蠍」が伸びる。式神に対しては略奪の魔術を行使する得物であるそれは、物理的な攻撃手段としても使える代物であることは既に解っている。歌子の弾丸を、撓る鎖が次々と弾き飛ばしていき、最初の不意打ちを除けば、千鳥の体に掠ることすらない。
「お前に用はないんだって。早々に、とどめを刺そうか」
じゃらり、と銀色の鎖が蛇の如くに鎌首を擡げるのを見て、京介は声を絞り出す。
「歌、子……逃げろ……」
その言葉は歌子に届かない。彼女は決して、逃げようとはせず、ひたすらに引き金を引き続けた。しかし、その弾丸の尽くは防がれてしまう。
万事休す、と誰もが思っただろう、その瞬間。
ガシャン、と耳を劈く破壊音が響く。窓ガラスが割れた音だった。
三人の視線が一斉に窓に向く。
粉々に砕け散り、きらきらと光りながら散るガラスを蹴散らし、長い髪を揺らして舞い降りる――芙蓉姫。
「八つ裂きにされる覚悟はできているか?」
静かな怒りを湛えた紫苑の瞳が、仇敵を見据えていた。




