奪われたら奪い返せ(7)
紅刃を追いかけてホールを飛び出すと、横幅の広い廊下と、二階へ続く階段が現れた。廊下の方は壁に写真が飾られているだけで、すぐに行き止まりのようだった。歌子は迷わず階段を駆け上がる。
気持ちが急いて、一段飛ばしで二階へ辿り着くと、目の前に大きな扉と、左に伸びる廊下が続いていた。廊下の先にちらりと視線をやり、誰の姿もないことを確認すると、歌子は眼前の部屋に注意を払う。十中八九、中で待ち構えているだろう。突入直後に蜂の巣にされる、なんてことにならないように、歌子は慎重にタイミングを測る。
拳銃を握りしめ、いつでも撃てるようにと胸の前に構えると、歌子は深呼吸する。逸る気持ちを落ち着ける。戦いに焦りは禁物、常に冷静でいなければ、勝てるものも勝てなくなる。
たとえ相手が紅刃だとしても、冷静でいなければならない。それは解っている、けれど。
「……紅刃」
いつも当たり前のように隣にいた相棒が、自分と相対する。立ち位置が違う。悪い冗談としか思えない。はっきりと決別の言葉を告げられた今でも、何かの間違いだと信じたがっている。とてもじゃないが、冷静ではいられない。こんな調子では、満足に戦えないかもしれない。自分から千鳥と紅刃を追うことを宣言しておきながら、そんなふうに思っている。
背中に嫌な汗をかいている。やけに緊張していた。目の前の扉が、自分を試す関門のように見えて、同時に、自分とかつての相棒をどうしようもなく隔てる境界線に見えた。
だったらどうする? ここまで来ておきながら、やっぱり戦えないなんて言って、おめおめと引き下がるのか? 歌子は静かに自問する。そんな馬鹿な話があるか、と即座に答えを出す。ここまで来たら、やるべきことは一つだ。
ぶち破ろう。邪魔をする障害は全部まとめてぶっ飛ばす。それ以外に道はない。
歌子は月花羅刹をお守りのように胸に掲げ、扉を蹴破った。
ホールほどではないが、そこそこに広い部屋だった。床には何ヶ所か、小さく丸い跡が残っている。おそらくは、テーブルの脚が長い間置かれていたせいでへこんだのだろう。とすると、ここは会食のための部屋か何かだったのかもしれない。現在では一切の調度が取り払われ、薄汚れた床と、黄ばんだ壁と、そして二人の男が待ち構えているだけだった。
壁に凭れ腕を組み、部屋に進入してきた歌子を特に驚きもなく見遣ってくるのは、千鳥八尋だ。足止めとして琥珀丸と澪鋼を差し向けておきながら、歌子が早々に追いかけて来られたことは予想の範疇、という様子だ。
真正面、窓を背に、紅刃は立っていた。まっすぐに歌子を見て、小さく嘲笑を浮かべている。
「殺される、って解ってて来るなんて、案外頭が悪いらしいね」
安い挑発には動じず、歌子は言い返す。
「殺されたりなんかしないわ。私はそこでふんぞり返ってるアホ魔術師をぶん殴って、あなたを連れて帰る。そのために来たの」
「俺を連れて帰る? まだ状況解ってないわけ。俺はもう、あんたの式神じゃないんだって」
「式神だとか契約だとか、そんなのカンケーない。たとえ私の胸から契約紋が消えたとしても、紅刃が私の家族であることは変わらない」
薄ら笑いを浮かべていた紅刃が不機嫌そうに低い声を出す。
「もう一度だけ言ってやる。俺の前から消えろ」
「嫌よ」
「物わかりが悪いらしいな、黒須歌子」
それまで黙っていた千鳥が呆れたように口を挟んできた。
「紅刃の主は俺だ。契約紋は俺の体に刻まれ、紅刃自身も、お前より俺を主人として認めている。お前の入る余地なんかないんだ」
「黙りなさいよ、泥棒魔術師。私から奪ったもの、きっちり返してもらうわ」
「紅刃がそれを望んでいないのにかい」
「私が望んでいるんだから」
「とんでもない我儘姫だ。仕方がないな、紅刃」
「解ってる。きっちりぶちのめしてやるよ」
紅刃の右手に真紅の刃が握られる。
千鳥はとことん、紅刃と歌子をやり合わせたいらしい。そして紅刃も、歌子を煩わしげに睨みつけ、得物を構えている。歌子がぶちのめしたいのは千鳥の方なのだが、千鳥の式神となってしまった紅刃が、彼への攻撃を見逃すわけもない。
千鳥の掌の上で踊らされているようで不本意だが、まずは紅刃を抑えなければならない。歌子は月花羅刹に魔力を充填し弾丸を込める。ただし、殺傷力のない麻酔弾だ。
「大人しくしなさい、紅刃」
引き金を引く。乾いた音と共に放たれた弾丸は、紅刃の肩を――できるだけ、当たっても致命的にならない場所を狙う。紅刃はそれを、避けようとはせず、右手の短刀を無造作に振り上げただけで、弾丸を両断する。
からん、と床に落ちる弾丸を尻目に、紅刃は冷笑を浮かべる。
「自分を裏切った式神に対して、随分甘いんじゃないの。狙うんなら、頭か心臓でしょ、普通。それとも」
紅刃がだん、と床を蹴り歌子に迫る。近接戦を得意としない歌子は、懐に入られまいと牽制のために弾丸を放つが、その尽くを紅刃は切断した。銃弾の軌道を目視で読み切ってナイフで狙い過たず切り裂くなど、普通では考えられない芸当だ。さすがは妖といったところか。殺傷力を出さないために、通常の鉛弾よりも僅かに速度が落ちているとはいえ、普通なら目で追える速さではないはずなのに。
ついに眼前まで肉薄してきた紅刃は、迷いなく歌子に短刀を振り下ろした。歌子はそれを、咄嗟に銃身で受け止める。だが、そこまでは予想通りだったらしく、紅刃は驚きもせず、歌子の無防備な鳩尾を抉るように蹴り飛ばした。
息が止まるほどの衝撃を受け、歌子は後方に跳ね飛ばされる。苦痛に喘ぎながら床を転がり、なんとか体を起こす。紅刃は性急に追い打ちをかけようとはせず、強者の余裕とでもいうように、悠長な嘲笑を浮かべている。
「それとも、わざと急所を外して甚振ろうっていう魂胆かな。こんなふうに」
「私はそんなドSじゃありませんッ」
ひねくれた推測を言下に否定して、歌子は態勢を立て直す。
やはり、万全の状態の紅刃を相手に、麻酔弾がそう簡単に当たるはずもないか。歌子は自分の見込みの甘さを呪いながら、作戦を変更する。
ゆったりとした足取りで近づいてくる紅刃に再び照準し、引き金を引く。紅刃は苦し紛れの発砲としか思わなかったようで、先程と同じようにナイフで叩き斬る。
その瞬間、魔術が発動し、呪言が連なる円環が紅刃を包囲した。紅刃が僅かに目を見開く。
「そうか、これは……結界弾……!」
着弾と同時に敵の動きを封じる結界弾は、たとえ斬られたとしてもその発動を阻むことはできない。妖怪である紅刃相手にこの拘束術がいつまでもつかは解らないが、一時的にでも動きを封じることができた。
その隙に、歌子は紅刃をスルーして、高みの見物を決め込んでいる千鳥に狙いを定める。
「殲滅陣展開」
詠唱と同時に、宙には無数の魔法陣が浮かび上がる。銃の引き金が合図となり、銃口の代わりに魔法陣から一斉に光の弾丸が掃射された。
まるで機関銃で弾幕を張っているかのように、無数にばらまかれる光弾。千鳥は壁から背を離し、徐に右手を掲げる。
「召喚」
直後、千鳥の前の床に魔法陣が浮かび上がり、そこから大量の甲冑が湧き出した。
「!」
甲冑姿の人造式神。それらが千鳥の盾となり、歌子の光弾を受け止める。頑丈そうな鋼の鎧を、歌子の魔術は撃ち抜き穴を穿っていき、確実に一体ずつ減らしてはいくものの、肝心な千鳥までは届かない。
やがて、弾丸が切れ、歌子の魔法陣が消失する。ぼろぼろになった甲冑が耳障りな音とともに床に崩れ落ちるが、その向こうで千鳥は無傷のままでいる。
「残念だったな。俺の手持ちの人造式神もこれで底をついたけど、そっちもかなり魔力を消耗したはずだ」
歌子は悔しげに歯噛みする。今ので決められなかったのは痛い。そうこうしているうちに、紅刃を拘束していた結界弾の効力も切れる。
「万策尽きたって感じ? 尻尾巻いて逃げるなら今だけど」
「誰が逃げるもんですか」
「ああ、そう」
紅刃が短刀を素早く振るい、歌子の手から拳銃を弾き飛ばす。床に転がる銃に手を伸ばそうとするが、それより先に紅刃の拳が腹に捻じ込まれた。
妖怪であるがゆえの怪力に抉られ、目を見開き、苦しげに喘ぎ声を漏らす。がくりと膝をつき蹲ると、追い打ちをかけるように蹴られ、無様に床に転がされた。
なんとか立ち上がろうと、床に震える指を立てるが、紅刃がすぐ傍に屈みこみ、目の前で赤い刃をちらつかせて意思を挫こうとする。
「一人で俺と戦り合うなんて、無謀だと思わなかったわけ」
下手に動けば目をくり貫かれそうなほど、切っ先が近い。歌子は慎重に言葉を選ぶ。
「私よりあなたが強いことなんて先刻承知よ。けれど、私がやらなきゃ意味がないじゃない」
「それで犬死してりゃ世話がないね。さて、馬鹿で無謀な行動の報いだ、どうしてやろうか。指を切り落とすか、耳を削ぐか。それとも服をずたずたに切り裂いて、それからその綺麗な肌に刺青入れてやる? どうされたいか、言ってごらん」
酷薄な笑みを浮かべ、残虐な処刑法を並べ立てる。残酷なことを平気で口にする紅刃が信じられなかった。自分の知っている彼の言動とまるきり違う。今までずっと傍で彼のことを見てきた。彼は、たとえ敵に対してだって、こんな酷いことは言わない。敵を甚振り愉しむようなことはしないはずだ。
目の前にいる紅刃は、昨日までとまるで別人のように振る舞う。厭な夢か、趣味の悪い冗談かのように。
「紅刃」
千鳥が徐に紅刃の名を呼んだ。紅刃はすっと立ち上がり千鳥を振り返る。
「そろそろお前の本気が見たくなってきたな。お前のこと、少しは調べたんだぜ。血に飢えた妖の本性を見せてやったらどうだ」
鮮血と鋼鉄を求める妖であり、その性からかつては血刃と呼ばれていた。そのことを千鳥はあっさりと調べ上げたらしい。
紅刃はくくっと笑いながら言う。
「それじゃあっという間に終わっちゃうよ。人間ってのは存外よわっちいからね。どちらかというと、俺はゆっくり嬲って遊んでやる方が好きなんだけど。あんたもそうだろう?」
「ふ、まあ、確かに、動けない相手を散々に嬲り倒して殺すのは、実に刺激的なショーだ。俺もそういう趣向は好きだぜ。成程、お前は俺の嗜好をよく解ってる。だが、いけないな――主人を騙そうなんて」
「……騙す?」
紅刃の体が僅かにびくりと震えた。
不審に思いながら、歌子はどうにか立ち上がる。体がぎしぎしと軋み悲鳴を上げている。容赦なく殴られ蹴られ、内臓をぐちゃぐちゃにされたかのように錯覚しそうだ。しかし、今はその痛みを忘れる。そんな些末なことよりも大事なことがあった。二人の会話が不穏な雰囲気になり始めたのに、気づかないほど鈍感ではない。
千鳥が小さく溜息をついていた。
「お前の魂胆はもう解ったよ、紅刃」
「……何言ってるのかよく解らないけど。俺はただあんたの命令通り、ちゃんと邪魔者を始末してるだけ。魂胆も何も」
「命令はしてない」
それで、歌子はようやく気付いた。千鳥と紅刃のやり取りを思い返す。そう、千鳥はまだ、紅刃に命令していない。ただ、紅刃が千鳥の意図を汲んで自発的に動いた。だから千鳥は、命令の言葉を口にする必要がなかった。
「そいつを適当に甚振ってやれば、俺は満足して気づかないと思っていたわけだな。そうやって時間を稼いでいるうちに、そいつの仲間が追いついてきて、そいつを上手く助けてくれるだろうと踏んだわけだ」
「何、言って……」
「俺が『蠍』でお前を貫き、契約紋を奪い取った瞬間から、お前が考えていたのはたった一つだけ……俺に命令をさせないこと、だったんだな」
「……」
「だがそれも、無駄なことだ」
千鳥がそう言った直後、その言葉の意味を歌子が理解するより前に、切羽詰まった様子で紅刃が振り返った。
「お嬢」
「!」
なんだかずいぶんと長い間聞いていなかったように、とても懐かしいように感じる呼び方に、歌子は目を瞠る。
焦燥の滲む声で紅刃が訴える。
「逃げるんだ。俺が俺でなくなる前に!」
「紅刃、あなた……!」
千鳥の胸の契約紋が光を放つ。
「契約の証を以て命じる――その女を殺せ」
そのたった一言が、爆弾のスイッチだった。




