式神たちの絶対禁忌(6)
全身を鎖で戒められ、身動きを封じられた状態で、紅刃は黒い鏃に胸を貫かれていた。
「あ……ぁ、っ……」
紅刃がか細く喘ぐ。肉体を貫通した鎖は、しかし奇妙なことに血で濡れてはいない。京介が刺された時とは明らかに状況が違う。京介が気づいたことに、芙蓉も目敏く気づき、眉を寄せる。
「まずい」
芙蓉がそう言う時は、本当にまずい時だ。
「黒須歌子、奴を喚べ。あの鎖はただの武器ではない、魔術の施された術具だ。京介に対してはただの刃物だったが、妖の体には何が起こるか解らない」
人間にはなんの効果が無くても、妖怪にのみ特別な効果を発揮する術や道具がある。あの鎖は、紅刃の体を貫いているように見えるが、実際には肉体に傷をつけてはいない。血が流れないのがその証拠だ。だが、紅刃が苦痛の声を漏らしていることから、肉体以外に害があることは疑いようがない。
歌子自身も苦痛に顔を歪めながらも、声を絞り出す。
「紅刃、戻ってきて……!」
剣の形をした契約紋が赤い光を放つ。
だが、おかしい。京介が芙蓉を呼んだ時は一瞬で召喚でき、鎖から逃れることができたのに、紅刃は拘束されたまま召喚できない。
なぜ、と理由を考える前に、歌子の体に刻まれた契約紋に異変が起きる。
紋章から放たれる赤い光が、濁った。
「!?」
赤の中に奇妙な紫が混じり出す。やがて光の比率は逆転し、赤い光は紫の光に完全にとって代わられる。そんな現象は見たことがない。誰もが事態を理解できずに戸惑うばかりだった。
そして、紫色に光る契約紋は、歌子の体から乖離し宙に浮き上がり、やがてその形を崩し光の粒子に分解された。
光が――主従の証が、砕け散る。
「う、そ……」
歌子が呆然と呟く。消えて行く光を拾い集めるように歌子は両手を泳がせるが、光は掌をすり抜けて霧消していく。突然の、理解を超えた、しかし明らかに不吉で禍々しい事態に、京介もまた狼狽で立ち尽くした。
「どうして……どうして契約紋が……。紅刃……紅刃!」
よろめきながら立ち上がり、紅刃の元に駆け出そうとする歌子を、芙蓉が制した。その表情は、いつになく険しいものだった。
不意に、紅刃を貫いていた鏃が抜き放たれる。やはり、血は一滴たりとも流れない。拘束していた鎖が緩み、紅刃の体はずるりと地面に落ちる。
紅刃がゆっくりと振り返る。彼もまた、呆然を目を見開き、何が起きているのか理解できていないようだった。
じゃらり、と金属音が響き、見ると鎖が再び蠢き出していた。警戒し、京介は右手に刀を現す。だが、鎖は予想に反して、芙蓉を狙おうとはしなかった。代わりに、鎖は近くの柱に巻き付いた。そして、床に開いた穴から、何者かを引っ張り上げた。
現れたのは三十代くらいの男で、夏だというのにワイシャツの上にキャメルのロングコートを羽織っている。髪は金色だが、顔立ちはどう見ても日本人のそれであり、薄い唇には酷薄な笑みを湛えている。
鎖を操っているのは両腕に嵌めた黒い腕輪のようだった。地面に降り立つと、男は放出していた鎖を腕輪の中に回収していった。格納を終えると、左の腕輪を見て肩を竦めた。
「『蠍』が一本ダメになったか。まあ、仕方ないな。欲張りすぎるとよくない」
男は一人でぶつぶつと言っている。
何者なのかとか、その鎖は何なのかとか、問い詰めたいことはいくらでもあった。だが、訊くまでもなく、目の前の男が敵であることは解った。そして、それだけ解れば充分とでもいうように、歌子が問答無用で黙って月花羅刹の引き金を引いた。
紅刃に手を出されたことで頭に血が上っているのだろう。しかしそのくせ狙いは正確で、容赦なくヘッドショットを狙っていった。
だが、弾丸は男の頭蓋に届く前に、男を守るように立ちはだかった澪鋼の刃に阻まれた。
「何よ、あなた」
歌子が昏い目で問う。
どす黒い怒りを渦巻かせている歌子とは対照的に、男は軽薄に笑う。
「普通撃つ前に訊くだろ、それ。まあ、いいけどさ。俺は千鳥八尋、ご覧の通りの魔術師だ」
「紅刃に手を出して、生きて帰れると思わないでよね」
「ははっ、こいつは面白い。この式神が傷ついて、なんでお前が怒る? そんな義理、ないだろうが」
嘲笑を浮かべながら、魔術師・千鳥は己のシャツのボタンを引き千切り、胸元を露わにした。
「はい、これ、なーんだ?」
にやにやと下卑た笑いと共に問いかけられる。千鳥の鎖骨の下にあるものを見て、京介は絶句した。歌子も同様に、目を見開いて凍りついていた。
そこに刻まれていたのは、剣の形の契約紋だった。
歌子の体から突如消えてなくなった、紅刃との契約の証が、今、千鳥の体にある。
契約紋は、契約で結ばれた式神と主人、それぞれの体に刻まれる。紅刃の主人は歌子だ。本来、歌子の体から契約紋が消えることすら考えられないことだというのに、その上消えた契約紋が別の人間の体に顕れるなど、聞いたことがない。
しかし、今この瞬間の事実だけを見るならば、紅刃との契約紋は千鳥八尋の体に存在する。まるで、紅刃の主人が千鳥八尋のようではないか。
「もう解っただろう? この式神……紅刃は、もうお前のものじゃない。俺のものだ」
「ふ……ふざけないで!!」
歌子が絶叫する。だが、銃を握る彼女の手がかたかたと小さく震えているのが解った。
契約紋が、契約を結んだ者から消え、別の魔術師に現れた――それを引き起こしたのは、十中八九、千鳥が「蠍」と呼んでいた鎖型の術具だろう。
千鳥の魔術によって、契約紋を――式神を奪われたのだ。
「いつまでも呆けているな、京介」
低い声で告げたのは芙蓉だった。京介と歌子より、芙蓉の方がいくらか冷静だった。
「あの魔術師を斬る。それですべて解決する」
芙蓉は歌子のように叫んだり、怒りを露わにしたりはしない。だが、彼女が静かに怒っていることは明らかだった。
たいていのことは暴力で解決しようとする芙蓉だが、今回はどうやらそれが手っ取り早そうだ。京介は小さく頷き、芙蓉に指示を出そうとする。
それを遮ったのは、笑い声だった。
「――はは」
最初は誰のものか解らなかった。だが、次第に明瞭になっていく哄笑に、京介も芙蓉も動きを止めた。
歌子が呆然と視線をやる。その先で、
「はは――あはは、はははッ!!」
紅刃が笑っていた。
場違いなほど明るく響く笑い声に、京介は悪寒を覚えた。どうして彼は、この状況で笑っている?
心底から楽しそうに笑う紅刃はゆっくりと立ち上がり、ふっと笑みを鎮めると振り返り呟いた。
「まさか、こんな形で俺の望みが叶うとは思ってなかったな……」
「紅刃……?」
歌子がぽつりと名を呼ぶと、それをぴしゃりと拒絶するように紅刃は告げる。
「やめてよ。悪いけど、もう気安く呼ばないでくれるかな? 俺はもう、あんたの式神じゃないんだし」
その瞬間、歌子がはっきりと傷ついた顔をした。
紅刃は構わず続ける。
「悪いけどさ、あんたは俺の主人に相応しくないよ。だって、あんたは甘すぎるもの。俺は本来、流血と戦いを好む妖だ。あんたみたいな甘っちょろい主人の下で正義の味方ごっこなんて、俺の性にあわない。そんなつまんないことしてるくらいだったら」
そこで言葉を切り、紅刃は傍らで成り行きを見守っていた千鳥を見遣った。
「あんたのほうが、ずっと俺を上手く使ってくれるだろ」
「へえ……面白いな。お前の忠誠は、とうにその小娘には向けられていなかったということか」
千鳥の言葉を聞いて、歌子が悔しげに唇を噛んだ。
契約紋を奪われたのは千鳥の卑劣な罠のせいで、たとえその紋章を奪われたとしても本当の主は自分だけであり、紅刃の心は自分の元にあると――そう信じたかったはずだ。
しかし、紅刃から告げられた裏切りの言葉に、歌子はその瞳に涙を浮かべていた。
「歌子……」
咄嗟に名前を呼んだが、京介は何を言うべきか考えあぐねていた。
「まあ、そういうわけだからさ、もうあんたに用はないっていうか、寧ろ邪魔なんだよね」
紅刃が右手を掲げる。と、宙に幾本もの刃が浮かび上がる。
「だから」
まずい、と危機感が這い上がり、京介は呪符を取る。
絶望に塗りつぶされた表情でへたり込んだまま動けない歌子に向かって、紅刃は冷酷に告げた。
「――消えてくれる?」
直後、赤い刃が一斉に放たれた。
「歌子!」
京介が叱咤するように叫ぶが、歌子の耳には届かない。
舌打ち交じりに呪符を放つ。
「烈火現界!」
向かってくるナイフに呪符をぶつけ、爆発で弾き飛ばす。しかし、数が多すぎて、とてもじゃないが間に合わない。相殺しきれなかったナイフが飛来する。
だんっ、と力強い音が響く。芙蓉が足を踏み鳴らした音だった。
直後、飛んできたナイフが全てまとめて床に叩きつけられた。重力操作の術だ。芙蓉の前では、飛び道具は意味をなさない。滅多に妖術を使わない芙蓉だが、本気で怒ればこのとおりだ。
なんとか紅刃の攻撃を凌げた。京介はひとまず安堵する。
「紅刃」
芙蓉が紅刃をまっすぐに見据え、問うた。
「お前、正気か?」
「勿論」
間髪入れずに答えが返ってくると、芙蓉は小さく溜息をついた。
「馬鹿め……ならば致し方あるまい。そこの魔術師の前に、まずはお前を斬る」
「芙蓉!」
「止めるな京介。敵に回ると自ら宣言した奴に情けをかけるほど、私は甘くない」
「ははっ、芙蓉ちゃんならそう言うと思ったよ。いいよ、やれるもんなら、俺を殺してみろよ」
なんでそうなるんだ、と京介は忌々しげに舌打ちする。
歌子は明らかに現実を受け入れられていないし、どう見ても戦える状態ではない。
相手は魔術師一人と式神三人、うち一人は紅刃。紅刃が傷つくことは、歌子は望まないだろう。たとえ、はっきりと本人から翻意を告げられたのだとしても、だ。
加えて、京介は千鳥の右手の腕輪、まだ健在の「蠍」を懸念していた。もしも芙蓉があれに貫かれれば――京介の右手に刻まれた契約紋も、おそらくは千鳥に奪われるだろう。
そうなったら最悪だ。
「芙蓉、一旦退こう」
「何だと?」
「どう考えても分が悪い。態勢を立て直す」
言いながら、京介は歌子に肩を貸して立ち上がらせ、既に退く用意をしている。
「おいおい、逃がすと思ってんの?」
嘲るように言う紅刃を一瞥し、京介は呪符を放った。
「焔嵐現界、隔絶せよ!」
双方を隔てるように、焔の嵐が吹き荒れた。
この炎の壁を突き破ってまでは追ってこまい。そして、壁を突き抜けてまで、芙蓉も敵と戦おうとはしなかった。舌打ちをしながらも、芙蓉は焔に背を向ける。
京介は歌子を半ば引きずるようにして潰走した。隠すこともなくぼろぼろと涙を流す歌子を見て、胸が締め付けられるような思いを抱いたが、それを無理矢理封じ込めて、とにかくひた走った。




