式神たちの絶対禁忌(3)
炎天下の中で登山に勤しんだために流れた汗と、澪鋼との戦闘で流れた冷や汗をまとめて洗い流す。シャワーを浴びながら、とにかく芙蓉に今回の事件を感づかれないようにしなければ、と京介は思う。
彼女の前では平然としていること。仕事に出る時はできるだけさりげなく。そうして、彼女の知らないうちにさっさと解決してしまうのが一番いい。ついでに、高峰蓮実をはじめとする中央会連中の余計な疑念も払拭しておいた方が、今後のためだ。
とにかくこんな、式神の叛逆などという、地雷中の地雷のような案件に芙蓉を関わらせるべきではない。関われば、芙蓉は自分を重ねて、つまらないことを考えるかもしれない。
考える必要のない余計なことを。
思い出す必要のない過去のことを。
京介は自分の首にそっと手を当てる。どこまで本気か知らないが、芙蓉が何度かこの首に手をかけたのを知っている。気づいていないふりをしているけれど、それが芙蓉の切り札であることを、知っている。
今回の事件は、京介を含めてごく一部の人間しか知らない、芙蓉の奥底に封じられている「禁忌」を揺さぶりかねない。それをどうにか避けて通りたい。杞憂に過ぎないかもしれないが、用心するに越したことはない。
主人が式神のために躍起になるなんて、おかしいだろうか、と京介は自問する。けれど、彼女との約束を守るためには必要なことだ。
そう考えると、途端に三年前のことが思い出されてくる。
苦い記憶の海に溺れそうになったところで、はっと我に返る。京介はふるふると頭を振って、脳裏に再生され始めた追想を強引に打ち切って、ついでにシャワーを止めた。
京介は明日からの行動についてぼんやり考えながら、申し訳程度に数学の過去問と格闘していた。その間、芙蓉はいつものように、勝手に二時間サスペンスの再放送を鑑賞していた。芙蓉が住んでいるアパートの部屋にだってテレビはあるはずなのに、なぜわざわざ人の部屋に来ているかといえば、こちらのテレビの方がほんの少し大きくて、ほんの少し画質がいいかららしい。
人が勉強しているのに――実際はさほど真剣にはやっていないのだが――芙蓉は構わず大音量で視聴している。そのせいで、聞く気がないのに勝手に耳に入ってくる。
どうやら探偵役らしい若い男性が言う。
『あなた、なにか隠しているんじゃありませんか』
『か、隠しているって、私が何を隠しているっていうんです』
問われた男があからさまに声を裏返らせる。いくらなんでも隠し事が下手くそだな、と京介は思う。疾しいことがあるのが、素人にだって解る。
『本当のことを話してください。犯人を捕まえるためにはあなたの証言が必要なのです』
『……』
『話せないというなら、こちらにも考えがあります。知ってるんですよ……あなた、奥さんに内緒で二百万借金してるでしょう』
『な、なぜそれを!?』
探偵が堂々と脅迫し始めた。それでいいのか。いったいこの主人公はどういう設定なんだ。途中から聞き始めたから話がさっぱり掴めなくて余計に解らない。
「そういえば京介」
芙蓉が画面に視線を向けたままで徐に切り出す。
「お前、私に隠していることがあるな」
咽せた。
「か、隠しているって、俺が何を隠してるっていうんだ」
完全に隠し事が下手な奴の台詞になってしまった。咳払いをしてみるが、誤魔化すには無理があった。
思えば芙蓉はこのサスペンスを本放送で見ているはずだから、展開は解っているわけだ。ドラマの展開に合ったタイミングで現実でも追及を始めたのは、たぶん偶然ではないだろう。
「言っておくが、お前は隠し事が下手だ、この借金男よりも」
「こいつよりも!?」
かなり心外な評価だ。画面の中では借金男がしくしく泣きながら重要な証言を始めていた。自分も泣かされる未来が見えた気がして京介は背筋をぶるりと震わせた。
「素直に吐け、京介。さもなくば……」
「……」
「このドラマのネタバレをするぞ」
「比較的どうでもいい脅迫!」
芙蓉じゃあるまいし、京介は犯人が誰かとかトリックがどうとかにさほど興味がない。
「まあ、冗談はさておき」
どうやら真面目な話をする気らしく、芙蓉はまだ中盤であるにもかかわらず、テレビのスイッチを切った。京介は芙蓉に向き直り、溜息をつく。
「解った。正直に言う。隠していることは確かにあるよ。けれど、俺が言わないと決めたら、どう脅されようと話すつもりがないことくらい、お前なら解るだろう」
「解っている。お前は妙なところで頑固だからな。力ずくで吐かせることはできないだろうな。そしてお前は、つまらん理由で嘘はつかないし隠し事もしない」
京介の真意まで見透かし、見極めようとでもするかのように、眼光鋭く睨みつけてくる。京介はそれをまっすぐ、目を逸らすことなく見返した。今回ばかりは譲れない、と訴えるように。
やがて芙蓉はふっと溜息をつく。
「仕方がないな……お前がそのつもりなら、私も手段は選ばない」
「は?」
不穏な気配を感じ、京介はさっと立ち上がり後退りする。狭い部屋の中だから逃げるもなにもないので、気休め程度にしかならないだろうが。
「式神につまらない隠し事をするとどうなるか教えてやろう」
「それどう考えても普通式神の側がいう台詞じゃないだろ」
「体に教えられるのと心に傷を負うのとどちらがいいか選ばせてやろうか」
「絶対どっちもお断りに決まってる」
「そうか両方か。お前がそんなにMだったとは知らなかったな」
「お前は相変わらず思考がサディスティックだな」
口を割る気はないが、芙蓉が本気になったということはそこそこの痛い目は覚悟しなければならないな、と京介は内心で十字を切っておく。
すると、それを見透かしたように、芙蓉が不敵に微笑む。
「案ずるな京介。お前を無駄に痛めつけることは、私も本意ではない」
「何?」
「こんなこともあろうかと、適任を呼んでおいた」
丁度タイミングを見計らったかのように、がちゃりと、玄関のドアが開く音が聞こえた。
勝手に部屋に上り込んでくる何者か。廊下を近づいてくる不吉な足音。京介の思考がフルスロットルで稼働する。嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。
鍵はかけておいたはずだ。たぶん芙蓉が、京介がシャワーを浴びている間にこっそり開けて、「適任」とやらを呼んでいたのだろう。芙蓉はこの状況を最初から予定していた。つまらない冗談や脅迫じみた応酬も、本命のカモフラージュと時間稼ぎに過ぎない。
はたして、すたすたと当たり前のような顔で登場したのは、
「ご機嫌麗しゅう、京介さん♪」
この上なく上機嫌そうに微笑む紗雪御前であった。
こうして顔を合わせるのは文化祭以来だから、約二か月ぶりといったところか。相変わらずトレードマークのようにメイド風のエプロンドレスを纏っている。上品にスカートを抓んでお辞儀をしてみせる姿は、何も知らない人間からは可愛らしい天使のように見えるかもしれないが、とりあえず彼女の中身が外見通りの可愛らしい天使とはかけ離れていることを京介は知っている。
「紗雪……なんで、」
上擦った声で問いかけて、しかし答えを聞く前に、京介は瞬時に悟る。このタイミングで紗雪が出てきたということは、この先の展開は一つしかありえない。
危険を察知した京介はすぐさま敵前逃亡を決意した。部屋の入口の方は二人に抑えられているが、この際ベランダからでもなんでもいいから逃げるべきだと判断した。
だが当然、それを予測していたらしい芙蓉に首根っこを掴まれ、あえなく捕獲されてしまった。
「京介、客が来た途端に逃げるなんて、失礼じゃないか」
心にもなさそうなことを言いながら、芙蓉が京介を羽交い絞めにする。曲がりなりにも妖だ、本気を出されたら拘束を振り切ることなど不可能に近い。
「お久しぶりでございますわね、京介さん。早速ですけれど、わたくしと楽しくお話でもしませんこと?」
紗雪が前に回り込み顔を覗き込んでくる。妖艶な光を放つ浅葱色の瞳が京介を捉えた。
鼻先を甘ったるい匂いが掠める。それは忽ちに思考を侵蝕し、抵抗する意思を根こそぎ奪っていく。
霞んでいく意識の中で、京介は呪詛を吐く。
「お……覚えてろよ、この、性悪、女子共……!」
そのあたりで、京介の記憶は途切れている。
★★★
「――主人に向かって自白剤代わりに妖術使う奴があるかッ!!」
正気に戻った瞬間、京介は芙蓉に渾身のツッコミを入れた。
式神らしからぬ暴挙には慣れたつもりでいたが、今回ばかりは笑って流すわけにはいかない。膝詰めで説教するのも視野に入れて興奮気味の京介だが、対する芙蓉は涼しい顔で、優雅に紅茶など啜っている。
「使ったのは私ではなく紗雪だ」
悪びれるどころか責任転嫁をし始める始末だ。
「ああっ、京介さん、赦してくださいまし。わたくし、彼女に脅されて仕方なくやったんですのよ」
紗雪はいっそ清々しいほど迅速に保身に走った。媚びるようなわざとらしい甘い声をあげる紗雪を無視して、京介はあくまで芙蓉を糾弾する。
「使わせるためにわざわざ呼び出したのはお前だろうが、芙蓉」
催眠暗示の妖術「氷華香炉」は紗雪御前の十八番だ。以前もそれで酷い目に遭った。まさかまた餌食にされることになろうとは。
謝罪する気も反省する気もなさそうな芙蓉の態度や、結局自分の苦労が容易く台無しにされたという虚しさなど、諸々のせいでどっと疲労が押し寄せ、京介は諦念の混じった調子で深く嘆息した。
「ああ、くそ……結局、俺は全部喋らされたのか?」
「それはもう、洗いざらい」
芙蓉はあっさりと告げる。京介は再び溜息をつく。
そう、京介は記憶にない数時間のうちに、催眠下で自白を強制されたのである。
京介が部屋に戻ってきた直後に、一言二言交わしただけの会話で、芙蓉はその態度の怪しさを見破っていたようだ。そしてすぐさま、尋問要員として紗雪に連絡を取って呼びつけたというわけだ。下手な隠し事は通用しない上、大人げなくも強引な手段を使うことにまったく躊躇がない、末恐ろしい女である。
「まあ、私に隠し事など十年早いということだ。主人殺しの式神……そんな面白そうな事件が起きているのに私をハブにするとはいい度胸だな、京介」
それを「面白い」と言い切る芙蓉の豪胆さに、安心半分呆れ半分のような気持ちで肩を竦める。
「全然面白くないんだけど」
「面白いさ」
芙蓉は冷ややかな笑みを浮かべる。
「契約の枷を逃れて主人に害をなせる式神……よほど実力があるとみえる。その力にも、主人を殺した理由にも興味を惹かれるよ。京介、その事件、私も一枚噛ませろ。私にしては珍しく、お前に従ってやってもいい気分だ」
「従う気ないだろ。俺はお前に『大人しくしてろ』って言ってるんだけど」
「危険な式神を相手取る主人に、誠心誠意仕えて御身を守る、実に感動的な筋書きだ」
「話聞いてないだろ? どこも感動的じゃないぞ?」
「久しぶりに強そうな相手だ、腕が鳴るな」
「連れて行く気なんかないって言ってんだろ、話聞けよッ!」
京介の話をまるっと無視してやる気をみなぎらせていく芙蓉。手伝ってほしい時は無視するくせに、余計なことをしないでほしい時は勝手についてくる。世間一般ではこういうのを天邪鬼というのだろう。京介はげんなりと手で顔を覆った。




