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悪意が交わる夏休み(2)

 約束の前日の夜、一緒に登山に行かないか、と芙蓉を誘ったところ、「次くだらない用事で呼んだら狩る」と凄まれてしまった。芙蓉の返答はおおよそ想定通りだったので、京介は苦笑で応じる。

「まあ、そういうわけで明日は一日部屋を空けるから……」

「解っている。サスペンスが見たくなったら合鍵で勝手に侵入するから心配ない」

 そんな心配をしていたわけではないのだが。

 芙蓉はふう、と溜息をつく。

「まったく呑気なものだな。私はてっきり事件のことで呼び出されたのかと思ったんだがな」

「事件?」

「商店街で殺人事件が起きただろう。知らないわけではあるまい」

 何日か前に、商店街の一角で他殺体が発見されたことは知っている。新聞の地方欄に載っていたし、ニュースでもやっていた。身元の確認ができておらず、その後続報はない。近隣で起きた物騒な事件だけに、印象に残っている。

「血腥いことに関わることが多いとはいっても、俺は魔術とか妖怪専門だ。殺人事件は警察の仕事であって、俺の範疇じゃないだろ」

「ふうん? 噂じゃ、死んだのは魔術師だって話だがな」

「まさか」

 思いがけない情報に、京介は瞠目する。

「お前、なんでそんなこと知ってるんだ」

「妖の情報ネットワークを舐めるなよ。むしろお前こそ、なぜ知らないんだ」

「なぜって……」

 無論、被害者が魔術師かどうかなどということが報道されるわけがない。そういった情報が京介に入ってくるとしたら、当然竜胆からのルートになる。暗躍を十八番とする竜胆は、神ヶ原市中に情報網を広げており、魔術や妖怪絡みで何かあれば彼女にすぐさま伝わる。そして、彼女が必要と判断すればその情報は京介に共有され、仕事を与えられる。

 事件が起きてから数日はたっている。妖怪間でも既に噂になり芙蓉にまで伝わっているくらいだ、竜胆がこのことを知らないはずがない。

 考えられるのは、まずは竜胆が、京介が動く必要はないと判断した場合。妖がそこかしこに跋扈している神ヶ原市では、ちょっとしたいざこざなら日常茶飯事であり、そのすべてに京介が出張っていたのでは体がいくつあっても足りない。ゆえに、軽微な案件なら竜胆は京介に伝えないこともある。しかし、今回の件は、京介の行動範囲内で起きた、殺人という重大な事件だ。本来なら京介が調査に動くべき案件のはずだ。

 となれば、もう一つの可能性。竜胆が意図的に京介に隠していたのだ。理由までは解らない、だが竜胆は必要とあれば、隠し事の一つや二つや三つくらい、平気でする人物だ。

 その可能性に思い至った瞬間、京介はすぐさま竜胆に電話をかける。ツーコールで相手が出た。

「竜胆ばあさま、訊きたいことがある」

 挨拶もなしに単刀直入に切り込めば、

『おお、怖い声。その様子じゃ、ばれちゃったのかな』

 まだ何も言う前から、竜胆はこちらの用件に察しがついたらしい。ということは、自分でも後ろ暗いことをしていた自覚はあるということだ。

「こないだの殺人。魔術師絡みらしいな。なんで俺に黙ってたんだ」

『いやあ、私だって気を遣っているんだよ? なんといっても、お前は受験生だからね。受験生の手を煩わせて浪人でもされたらとんでもないことだから、私の方で解決できるならそうしようと思っていたのさ』

「俺の手は必要ないのか」

『うーん、正直微妙。見栄を張って一人で頑張ってみようと思ったけど、荒事になりそうな匂いがぷんぷんするし。バトルになったら私じゃ手におえないし、わはは』

 呑気に笑う竜胆に、京介は眉根を揉む。

「ばあさま、冗談言ってる場合じゃ……」

『ところで、せっかく私が隠していたことなのに、お前はどこからその情報を手に入れたのかな』

「芙蓉から聞いた。妖の間では噂になっているらしいな。俺だけ乗り遅れていたのは軽くショックだよ」

『ふうん。芙蓉ちゃんから聞いたのは――それだけか?』

「……」

 おちゃらけたような態度が、一瞬だけ厳しくなるのを、京介は感じた。

「……それだけ、だが。他に何かあるのか」

『教えない』

「ばあさま」

『ちょーっとデリケートな案件でね。できることならお前には関わらせたくない。受験生を心配してるのも本当だしね。まー、ガチでヤバくなったら容赦なく頼る気でいるから、今は気にせず受験勉強に専念してくれたまえ』

 そう言って、竜胆は一方的に電話を切った。まだ訊きたいことは山ほどあるのに、ロクに情報を寄越さず話題を打ち切りやがった。相変わらずの狸っぷりに京介は嘆息する。

「何だって?」

 傍らで聞いていた芙蓉が首尾を尋ねてくるので、京介は肩を竦めて応じる。

「俺の出る幕はないらしい」

「珍しいこともあるものだな」

「一応受験生を気遣ってるらしい」

「せっかく気遣われているのに、明日は遊びか」

「息抜きも必要ってことで」

「まあ、構わないがな。私も、口うるさい主人がいなければ息抜きできるし」

「お前はしょっちゅう息抜きしてるだろうが」

 軽くツッコミを入れながら、京介は明日の支度をする。ボディバッグに必要なものを詰め込む。手を動かし、明日のことを考えながら、しかし僅かにもやもやする気持ちを抱える。

「自分で言っといてなんだけど、息抜きしてる場合なのかな……」

「魔術師がお前一人しかいないわけじゃあるまいし。たまの休みくらい仕事のことなど忘れてしまえばいいんだ、このワーカホリックめ」

 背中を押したいのかただ貶したいだけなのか微妙に解りにくい台詞である。

「お前の一人や二人いなくても、世界は回る」

「俺は二人もいないけどさ」

「お前はいつものように、竜胆ばーさんがいよいよ泣きついてきたときに動きさえすればいいさ」

「そうかな」

 芙蓉がそう言うなら、それでいいのかな、という気になってくる。

 そういえば、竜胆は情報源を気にしていた。京介がどこまで知っているのか、否、というよりも、芙蓉がどこまで知っているのかを気にしている風だった。

 できることなら京介を関わらせたくないような話だったが、それは、ひいては芙蓉を関わらせたくないということなのではないか、と深読みしてしまう。芙蓉を遠ざけたい事件とは、いったい何だ?

 芙蓉の助言通り、明日は仕事のことを忘れておこうと思う。だが、頭の片隅には、小さな警戒心を残していなければならないような気がした。


★★★


 声が聞こえる。その声は、耳を塞いでも頭の中に直接響いてくる。そんな芸当ができるのは魔術師か妖だ。どうやら、タチの悪そうな輩に目をつけられているらしい、と紅刃は嘆息する。

 煩い声にうんざりして、気分転換がてら夜風にあたりたくて、部屋を出てきた。今日も黙って出てきたので、そろそろ歌子が心配し始める頃かもしれない。しかし、今自分が抱えている問題を彼女に打ち明けるのは躊躇われ、何も言わずこっそり出て来ざるを得なかった。最近そんなことが続いているせいで、歌子に要らぬ心配をかけているのは解っている。解っているが、気づかないふりをして誤魔化している。

 間違いなく誰も来ないような古びたビルの屋上に勝手に侵入し、フェンスに凭れてぼんやりと夜空を眺める。ここ数日はそれが日課になっていた。綺麗な星空を見ていたら心が洗われるのではないかと期待してのことだった。だが、どうやら星空にそんな効果がないらしいということがここ数日で実証されてしまった。

『君の望む主は、本当に彼女なの?』

 若い少年のような声が、何度も同じことを問いかけてくる。紅刃を惑わせ、迷わせようとしていた。

 初めは、ふざけるな、馬鹿なことを言うなと、正体不明の声に怒りばかりが湧きあがった。しかし、懲りずに響いてくる声に、別の感情が揺さぶられつつあった。馬鹿馬鹿しい、と突っぱねていたはずの声に、いつの間にか耳を傾けるようになっていた。

「俺の、主……」

 歌子は、紅刃が初めて仕えた主人だ。歌子がまだ五歳の時に主従の契約を交わし、しかし主人と従者というよりは兄妹のように共に成長してきた。自分の主人が彼女でよかったと感じることは何度もあった。だが、歌子との契約を受け入れることにより、かつての自分と百八十度変わったことは事実だ。

 すなわち、妖としての本能を戒めることになったことは間違いない。契約による束縛を、心の底では忌まわしく思っているのだろうか? 紅刃は自問する。

 その問いに、謎の声が勝手に答える。

『彼女さえいなければ、君はかつてのように自由になれる。君の愛する血と凶刃の世界が戻ってくる』

「……」

 そんな世界に未練などないと言い切ってしまうのは、難しかった。現に紅刃は、六月の一件で、血によって妖の性が疼いてしまったのだから。

「……誰だか知らないけど、あんたは俺をどうしたいんだ」

 どこにいるかも解らない相手に向かって、紅刃は問いかける。

 声は、律儀に答えてくれた。

『僕は君の望みを叶えてあげたいだけ。妖の自由を取り戻すことが、僕の使命だ』

 どうにも胡散臭い回答だ。結局、声の主は目的を悟らせようとはしない。自分の正体を巧みに隠したまま、紅刃の心にすり寄ってくる。

 さてどうしたものか――紅刃はひっそりと嘆息した。

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