悪意が交わる夏休み(1)
ぱしゃり、ぱしゃりとカメラのフラッシュが焚かれる。アスファルトに滲む血だまりを、ずたずたに引き裂かれた体を、だらしなく開かれた口と濁り澱んだ瞳を、慎重に写真に収めていく。「KEEP OUT」の黄色いテープで囲われた現場を、捜査員たちが慌ただしく動き回る。
「酷い有様だな……」
そのうちの一人がぼそりと呟き、周りの同僚たちが異口同音に同意していた。
現場は商店街の一角だった。大通りからは外れた場所にある寂れた商店街であり、夜には店々が例外なくシャッターを下ろす場所であるため、暗くなれば人通りが少なくなるものの、昼間はそれなりに人が通るし、なにより、駅に近い場所であるため、野次馬がひどかった。
現場の商店街は、近くの高校に向かう通学路になっている目抜き通りと交わる道でもある。現在、世の高校生たちが夏休みに入っているのは不幸中の幸いかもしれない。とはいえ、勤勉な生徒や部活熱心な生徒は夏季休業中でも学校に行くため、興味本位で近づいては警官に押しとどめられ、背伸びして様子を窺っては予想以上の惨劇の現場に顔色を変える若者たちが後を絶たない。
八月。じりじりと太陽が照りつける明るい夏の日の朝に、突如降って湧いた、陰惨な事件だった。
ひどい騒ぎになってしまった。この調子では、昼のトップニュースを飾りそうな勢いだ。困ったことだ――と、問題の現場を遥か高いビルの屋上からひっそりと俯瞰していた女性は嘆息した。
「こんな目立つ場所に惨殺死体を放置とは……おかげで警察沙汰になってしまった。これじゃ、いくら私でも誤魔化しきれない」
ある程度までなら、隠蔽、揉み消しが利くが、こうも大勢の人目に触れ、マスコミにばっちり捕捉され、警察がしっかり動き始めてしまってはどうしようもない。この事件は公になる。そして、まあ十中八九迷宮入りするだろうなと、不破竜胆は確信した。
素人から見ても明らかな殺人事件だ。他殺ということは当然に犯人がいるわけで、警察はその犯人を見つけようと躍起になるだろうが、まず間違いなく、警察ではどうにもできない相手だろう、と竜胆は踏んでいた。
警察がどんなに調べても解らないだろう重要な事実を、竜胆は知っていた。
すなわち、被害者は魔術師である、と。
竜胆から見ても、被害者はそこそこ実力のある魔術師だった。そんな魔術師を殺せるとすれば、同じく魔術師か、妖が相手だ。
裏の世界でひっそりと生きるべき魔術師あるいは妖が、こうも表立った事件を起こすとは。
「まったく、面倒なことになったものだね」
憂鬱な表情で、竜胆はそう呟いた。
★★★
「酷い有様だな……」
京介は目の前の惨状に思わず漏らす。
そのストレートすぎる感想に、潤平が傷ついたような顔をした。
「頼むよ、きょーすけ。俺を見捨てないでくれ」
「見捨てる気はないけど……お前、解ってるのか、センター試験まであと五か月の、高校三年夏休み、追い込み時期だぞ。過去問正解率が五割はまずいだろう」
赤ペンでペケマークばかり書き込まれた問題集を眺めて、京介は予想以上に危機的な状況に重々しい溜息をついた。
全国的に夏休み真っただ中な八月上旬。例に漏れず夏期休暇に入っている神ヶ原第一高校だが、受験生である京介たちは夏休みを満喫する余裕はない。一月のセンター試験に向けて勉強漬けの日々である。
その日は、潤平が大量の問題集を詰めた鈍器のように重いバッグを抱えて京介の部屋にやってきた。エアコンの効いた部屋で勉強会である。そこそこ快適な環境のはずなのだが、たびたび潤平が「ここが解らん」「意味が解らん」と泣きついてくるのでなかなかページが進まない。
「俺、合格できんのかな……」
ついには陰鬱そうな顔でそんなことを言い出した。
「夏休みは一か月切ったけど……毎日やってりゃなんとかなるんじゃないか」
無責任に「大丈夫」とは断言せず、かといって「無理」と突き放すでもなく、ほどほどに励ましておく。
「いや、俺のことだから毎日勉強なんてたぶん無理だ絶対サボる」
「サボんなよ」
頼むから真面目に頑張れ、と京介は頭を抱える。
「浪人なんかしたらとんでもないぞ。美波ちゃんに追いつかれる」
二歳年下の妹に追いつかれるなどという異常事態は、そうそう起きないだろうが。
「それはマズイな。非常にマズイ。兄としての威厳が無くなる」
超シスコンであるところの潤平は途端にきりりとした表情に変わり問題集を捲り始める。そもそも兄としての威厳なるものが、無くなることを心配しなければならないほどに現時点で存在しているのかという問題はさておき、潤平はとりあえずやる気になったようだった。最近彼の転がし方がとてもよく解ってきた気がする、と京介は思う。
しかし、シスコン効果も長くは続かなかった。十分もすると潤平はぐったりした表情になる。
「なー、最近、根詰めすぎな気がしないか、きょーすけ」
京介は少し回答に迷う。「根を詰めてその正答率なのか」と厳しいことを言ってしまいたい気持ちもあるが、潤平の表情を見るに、彼が求めているのがそんな言葉でないだろうことは、明らかだった。
溜息交じりに、京介は彼が言ってほしそうなことを言うことにした。
「……息抜きがしたいのか?」
「ああ。息抜き、息抜きしよう。そりゃあ、俺たちは受験生だけど、夏休み中の高校生であることには違いない。一日くらい遊んだって罰は当たらないはずだ!」
罰は当たらないだろうが、代わりに問題も当たらないのだけはどうにかしたほうがいい。十分かけて潤平が解いていたページが結局バッテンまみれなのを横目にそんなことをちらりと考えながら、京介は問う。
「美波ちゃんも誘って、どっか行くか?」
「俺、行きたいところあるんだ。実はすでに完璧なプランを立ててある」
明らかに受験勉強より高いモチベーションを見せつけながら、潤平は拳を固めていた。
「題して、必勝祈願ツアー! 上嶺山のパワースポットを巡って合格を祈願しまくる登山コースだ。これで合格は間違いないはずだ! 人事を尽くして天命を待つ、ってな!」
天命を待つには早すぎるんじゃないだろうか。
息抜きと言いつつも受験のことを忘れない姿勢を褒めるべきか、早くも他力本願すぎる考えに呆れるべきか。判断に困っているうちに潤平は勝手に予定を決めて、京介の部屋のカレンダーに赤ペンで予定を書き込む。あまつさえ勝手に京介のケータイを引っ張り出して当たり前のようにロックを外してスケジュールを登録してしまった。なぜパスワードを知っているのだろう。
「八月十日決行だ、きょーすけ、ちゃんと準備しとけよ」
★★★
ベッドの上でごろごろしていると、すぐ脇の机の上でケータイがぶるぶると震えた。起き上がりながら、壁掛け時計を確認。時刻は夜の七時を回ったところだった。
「誰かしら……」
独りごちながら起き上がり、黒須歌子はケータイに手を伸ばす。ディスプレイを確認すると、窪谷美波からの電話だった。
京介を中心とした一騒動で知り合った美波は、優れた頭脳と行動力を持つ少女だ。同級生でもある彼女とは、魔術師・非魔術師の垣根を越えた交流がある。
「もしもし」
『歌子さん、夜分にすみません。お時間は大丈夫ですか』
「ごろごろしてただけだから全然オッケー。どうしたの?」
同い年である歌子に対しても、美波は敬語を使う。歌子はなんとなく居住まいを正したくなって、ベッドの上に正座して美波の言葉を待った。美波は呆れ半分楽しさ半分というような口調で用件を告げた。
『実は、兄さんが受験生の分際で息抜きがしたいなどと腑抜けたことを申していまして』
「あら、もしかして余裕な感じなの?」
『まさか。現実逃避です』
即答する彼女は、いつも兄には手厳しい。歌子はつい苦笑する。
『それで、必勝祈願に上嶺山に遊びに行くそうで。兄さんと違って正真正銘余裕がある京介さんも一緒に行くそうです。私も誘われたんですが、よろしかったら歌子さんもご一緒しませんか』
「行きたい行きたい! 夏休みだもんね、私たちはまだ受験カンケーないし」
『よかったです。では、八月十日に……』
集合時間と場所を教えられ、歌子は机の上のメモ帳に素早くペンを走らせる。美波の話をしっかり聞きながら、器用にも並行して、その日は何を着て行こうかなどともう考え始めている。
夏休みに友達と一緒に遊びに出かける。そのなんと、高校生らしくて楽しそうなことか。
幼いころは今ほど器用ではなかったから、魔術師としての仕事で手一杯で、友達と遊ぶことなんてほとんどなく、夏休みなどは家で修行に明け暮れていた。小、中学生というのは、一度付き合いが悪い奴だと思われると、そのうち遊びになど誘われなくなるものだ。寂しくなかったと言えば嘘になる。
今は魔術師としての時間以外も作れるようになった。高校生らしく青春じみたことをしても罰は当たるまいと思う。
美波との通話を終えると、歌子は部屋を出てぱたぱたと廊下を駆ける。隣の部屋の扉に飛びついてノックする。
「紅刃ー? 入るわよー」
隣の部屋は紅刃の私室だ。彼とは黒須の実家にいた頃から一緒に暮らしていた。黒須家から出向する形で神ヶ原にくることになっても、彼はついてきてくれた。
式神など、用のある時に呼べばいいのだから、傍にいる必要はない――そう言う魔術師もいる。だが、歌子と紅刃とは主従である前に家族のように暮らしてきた。紅刃がついてきてくれたことは、歌子にとって嬉しいことだった。
ゆえに、なにか嬉しいことがあれば歌子は紅刃に伝える。仲のいい兄に報告して喜びを分かち合おうとするみたいに。
主従であっても、プライバシーには当然配慮する。ノックして断りを入れるのはそのためだ。いつもならすぐに返事があるところだが、その日に限っては返事がなかった。
「紅刃ー?」
寝るにはどう考えても早すぎる時刻である。人間より頑丈な体をしている妖が、具合を悪くしているということもあるまいが、万が一ということもある。歌子はそろそろと扉を開ける。
「紅刃、どうかしたの……?」
最初は薄く、やがて全開にした扉の奥、部屋の中はもぬけの殻だった。
どうやらどこかへ出かけているらしい。
またか、と歌子は憂鬱げに溜息をつく。
子どもじゃないんだから、一人で出かけるのは自由だし、いちいち行先や目的を報告する義務はない。だが、今までは紅刃が無断でどこかへ姿を消すことはなかった。紅刃が時々一人でどこかへ出かけるようになったのは、ここ最近のことだった。
最初のうちは、「主人に黙って消えるな」とぷりぷり怒り、紅刃は苦笑しながら謝り応じたのだが、紅刃の無断外出は改善するどころか増えていった。彼にも何か思うところがあるのだろうかと、歌子はいちいち紅刃を叱るのをやめた。
どうも最近、紅刃の様子がおかしい。
その発端は――歌子は思い返す。そう、発端は間違いなく、文化祭だ。




