今日は本気で戦う日(7)
不規則な螺旋を描くように周りを取り巻きゆらめく血でできた糸は、変幻自在に形を変える真紅の刃だ。その身が傷つき、血を流すほどに、武器は強力になっていく。そして己の血だけでは飽き足らず、敵の血をも纏い己が得物に変える。
かつて、血の雨を浴び、真紅に塗れながら狂ったように刃を振るい続けた姿を、誰かが畏怖と共にこう呼んだ。血に濡れた刃、血刃、と。
紅刃にとっては不本意な二つ名だ。その名前を、主人は知らない。知られるわけにはいかない。ゆえに、その名を呼ぶ敵は排除しなければならない。
「さて、手早く済ませよう」
血液は極細のワイヤーのようにしなやかに、天草に躍りかかった。びゅん、と風を切り振り下ろされるそれを、天草は横合いに跳んで避ける。続けざまに襲いかかる斬撃をかいくぐりながら、天草は確実に距離を詰め、鉄扇を振るった。
「穿穹招来!」
ごく近距離から風の矢が射られる。瞬間、血が反射的に蠢いた。
細く網のように広がっていた血が紅刃の元に収束し、盾を形作り硬化する。矢を受け止め、風の凶刃をほどいてしまうと、鮮やかな赤は、今度は防御から攻撃へ、盾から弾丸へと形を変える。
「撃ち抜け」
短く唱えると、宙に浮かぶ無数の弾丸はいっせいに天草に向かって放たれる。
天草はすかさず風を身に纏い、風圧で弾丸を弾き飛ばす。
しかし、紅刃が動きを完全に制御する血液でできた弾丸は、弾かれた程度では止まらない。一度は軌道を逸らされた弾丸だが、形を尖った鏃へと変えると、その鋭さを以て風の壁を貫き突破し、その先の天草の体に突き刺さった。
「くっ……!」
血飛沫が舞い、呻き声が上がる。風の盾は脆くも消滅する。その隙に、紅刃は天草が流した血さえも支配し武器へと変える。
「貫け」
収束した血液が無数の棘を持つ荊となり、天草の足元から伸びる。鋼の如き鋭さと固さを手に入れたそれは、天草の体を串刺しにした。
かろうじて急所を避けたようだったが、両腕と腹部を貫かれ、天草は宙に縫い止められる形になる。
床を濡らす赤い血。むわりと立ち込める濃密な血の匂いが紅刃の神経を昂ぶらせる。
「くふっ……もう終わり? 案外あっけないものだね」
愉悦を滲ませ唇を歪ませる紅刃は、完全に箍が外れた状態だった。自分の理性は当てにできない上、一線を越えるのを止めてくれる理性的な主人もここにはいない。疼き出した妖の本能は止まらない。血に飢えた怪物は目覚めてしまったのだ。
「調子に乗らないでいただきたい」
天草が手首を捻って鉄扇を煽ぎ、風の刃を生み出す。ただし、鎌鼬が紅刃に通じないのは承知の上らしい、狙ったのは自分を貫く血の荊だ。鋼鉄の強度を誇る真紅の荊を鎌鼬で削り、叩き折る。痛みに顔を顰めながらも、体に刺さった荊を抜き取ると、天草は更に鉄扇を振るう。
「風牢招来」
激しい風が渦巻き、あたりに散った血を巻き上げ、一カ所に集める。そして、風は纏め上げた血を閉じ込めるように球を描いて収束する。
「こうして閉じ込めてしまえば、さすがに操れないでしょう」
天草の策は正解だった。強力な風に囚われた血までは、制御しきれない。
「だけど、それ、意味ないよ」
にたりと笑いながら、紅刃は右手にナイフを取る。
「それっぽっちならくれてやるよ。俺にはまだ、こんなに残ってるからさ」
その言葉で、紅刃が何をしようとしているのか解ったらしい、天草が瞠目する。
「まさか」
はたして、紅刃は己の身にナイフを突き立て、血を溢れさせた。
その表情に苦痛はなく、悍ましいほどの恍惚が窺えた。
「血よ、この手に刀を」
紅刃の命令に従って、鮮血は溢れ出る傍から形を変え、太刀となる。
ナイフの代わりに生温かい太刀を握りしめ、紅刃は天草に肉薄する。
咄嗟にというように突き出された天草の鉄扇を、紅刃は難なく弾き飛ばし、返す刀で袈裟懸けに斬りかかった。
返り血を浴びながらも表情を変えることなく、紅刃は天草を押し倒し馬乗りになる。身動きを封じた上で、紅刃は天草の首筋に太刀の切っ先を突きつけた。
天草の瞳に恐怖の色が浮かぶ。次いで、心底からの嫌悪がいっぱいに広がった。
「どうやら、あなたは正真正銘の化け物のようですね」
「あぁ……そうだね」
黒い微笑みを浮かべて肯定すると、紅刃は刀を握る手に力を込める。目の前の敵の喉笛を抉ることに、なんの躊躇もなかった。
天草は悔しげに目を閉じる。死を覚悟した者の顔だった。
――その時、ぱぁん、とガラスが砕けるような涼やかな音が響いた。
「!」
天草が目を見開き、紅刃ははっと顔を上げる。
見ると、赤銅色の奇妙な異空間の景色に亀裂が入っている。誰かが結界を壊そうとしているのだ。
割れた次元の隙間を通して、主人との契約のつながりが戻ってくる。
熱い。胸に刻まれた契約紋が、熱を持っている。
「――お嬢?」
呆然と呟き、紅刃は太刀を取り落す。微かに戻り始めた理性が、血に塗れた獣を再び封じ込めようとする。
「……!」
紅刃が隙を見せた瞬間、天草が風の爆弾を生み出し、紅刃を吹き飛ばす。受け身を取る余裕もなく、紅刃は床を転がる。点々と散る血が目に映る。だが、昂ぶっていた神経は次第に冷えていく。異常な興奮は、恐怖に転じる。
小さく震える体を起こし、紅刃は呆然を目と見開く。我に返り、豹変した自分がしてしまったことを自覚し、怯えた。赤く濡れた掌を目の当たりにして、足元が崩れ去ってしまうような錯覚に襲われる。
「俺、は……」
自分のしたことが自分で怖い。ほんの数秒前までの自分が、今の自分とはまったくの別人のように振る舞っていて、しかしそれは紛れもなく自分の一部であると自覚した瞬間、どうしようもなく怖くなった。両腕で自身の体をきつく抱く。震えを抑え込むように、そして同時に、再び暴れ出すことのないよう戒めるように。
敵と戦うだけのことなら今までだって何度もあった。敵を傷つけることが怖いだなんて甘いことは言わない。だが、先刻までの行動は、違った。誰かを守るためとか、主人のためとか、そういう目的なんて全部吹き飛んで、ただ血を求めるように、狂ったように刃を振るった。迷いなく敵を殺そうとしていた。あのままだったらきっと殺していた、そして動かなくなった死体さえも嬲ってしまっていただろう。
戦う自分は嫌いじゃない。けれど、狂ってしまった自分は大嫌いだ。
「まだいたんだ……俺の中の怪物ッ……!」
ぎり、と忌々しげに歯噛みする紅刃の頭の上で、天草が深く溜息をついた。
「だから妖は、すべて排除しなければならないのです」
すっと鉄扇を紅刃の額に突きつけ、天草は吐き捨てる。
「野蛮で、危険な存在です。妖怪など存在するから、私たちのような人間が出る」
言い返す気力はなかった。戦う意志も逃げ出す心算もなく、断罪を待つかのように、紅刃は天草を見返した。冷たく見下ろしてくる天草は、呪文を紡ごうと口を開いた。
瞬間、再びガラスの割れるような音が響く。先ほどよりも激しいそれは、もはや轟音といってよいほどだった。
結界が完全に破壊されたのだ。妖怪を隔離していた異世界が崩れ、現実世界と、つながる。
赤銅色のフィルターが剥ぎ取られたそこは、いつも通りの校舎だ。リノリウムの床には窓越しに自然の陽光が差し込む。
そこに、黒く影が落ちる。
何かが窓の外に迫っていた。それに気づいて、紅刃と天草が振り仰ぐと同時に、今度は本物のガラスが割れる音がして、窓を突き破って何かが飛び込んできた。
きらきらと破片を散らしながら派手に飛び込んだそれは、黒髪を靡かせ、はためくスカートから伸びる白い脚を流れるように振り回し、突然のことに硬直する天草の体を薙ぎ飛ばした。
「ぐうっ!」
脚の細さから想像できるよりもはるかに強力な蹴撃に、天草が呻きながら廊下を転げる。天草が体を起こし睨みつけてくると、敵意の籠った視線を受け止めながらも臆することなく、彼女――歌子は言い放つ。
「一度、窓を突き破って登場してみたかったの」
状況に相応しくない冗談みたいな台詞を真顔で言うと、歌子はホルスターから拳銃を抜き放ち、天草に照準した。
「忠告よ。私を仲間外れにすると、こうなる、ってね」
引き金が引かれ、乾いた銃声が鳴り響いた。
天草は肩に銃弾を受け、衝撃で大きく仰け反り、ゆっくりと地面に倒れていった。
廊下に崩れ落ちた天草は、僅かの間、起き上がろうと奮闘していたようだが、やがてぴくりとも動かなくなった。強力な麻酔弾で、強制的に意識を刈り取られたのだろう。
「最後に美味しいところを持っていく。さすが私ね」
顔を上げると、歌子がふふんと胸を張っている。いつも通りの、不敵で強気な少女だ。ただし、そんな彼女と相対する自分は、いつもとは違って、壊れかけていた。
「お嬢」
呼んだ瞬間、目の前に自分の主人がいるということをはっきりと認識し、紅刃は身の縮む思いがした。思わず目を逸らしてしまう。
「駄目……駄目だ、お嬢。見ないで……こんな……化け物の俺を見ないでくれ……」
紅刃は泣きそうな弱弱しい声を漏らした。
長らく鳴りを潜めていた妖怪としての本性は、消えたわけじゃなかった。怪物は、自分の中にまだいる。殻を食い破って外に出る機会を虎視眈々と狙っていた。油断した瞬間、こうして出てきてしまった。
見られたくなかった。自分を頼りにしてくれて、自分を大事にしてくれる、自分には勿体ないくらい優しい主人には、彼女にだけは、見られたくなかった、知られたくなかった。
妖としての本性が、こんなにも血で汚れて狂っているなんてこと。
「紅刃」
歌子が名を呼ぶ。穏やかな声に誘われるように目を合わせると、歌子は柔らかく微笑みながら、紅刃の頭を撫でる。まるで子供をあやすように、歌子は囁く。
「何が心配なの。怖がられると思ったの? 大丈夫よ、あなたがどんなに血に濡れたとしても、あなた一人にその業を背負わせるつもりはないわ」
歌子は傍らにそっと膝をつくと、紅刃を優しく抱き寄せる。血で汚れるのも構わずに。
「何があっても、あなたを一人にはしない。それが、私たちの約束でしょう」
契約という名の、約束。ずっと昔、彼女がまだ幼い時分に交わしたそれを、歌子はまだ覚えている。それが解って、胸に刻まれた契約紋がじんと熱くなったように感じた。
「お嬢……」
その言葉を信じていいの? 縋るように紅刃は歌子を見つめた。
こんな血みどろになってしまった自分を恐れることなく、傍にいてくれる。
恐る恐る、ゆっくりと、歌子の背中に両腕を回す。
「ありがとう……」
手の中にある、小さくて柔らかくて温かい主人の体。それが幻影でなく、確かにその手にあることを噛みしめると、少しだけ、ほんの少しだけ、涙が出て――
「盛り上がっているところ悪いが、廊下のど真ん中で乳繰り合っている場合じゃないぞ」
まるで空気を読む気のない無粋な台詞が降ってきたのはその時だった。
ばっとお互いに手を離して振り返ると、芙蓉が後ろで仁王立ちしていた。紅刃は頬を紅潮させながら叫ぶ。
「芙蓉ちゃん!? ……こ、ここはもう少し空気を読んでから出てきてほしかったかなー」
紅刃が誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべながら文句をつけると、芙蓉は嘲るように鼻を鳴らす。
「空気を読むのはそちらの方だ。主人と式神が仲睦まじいのは構わないが、時と場所と、あとついでに格好も選べ。血まみれの二人組が愛の言葉を吐き始めた時には、流血沙汰に発展した不倫現場かと思ったぞ」
「そのたとえはあんまりだわ……」
紅刃と歌子は同時に溜息をついた。




