今日は本気で戦う日(5)
女二人からびしばし放たれる殺気に恐れをなして、かわいそうに、周防がビビッて卒倒しかけていた。放っておいたら巻き込まれるのは確実だ。一度戦いが始まれば周りへの気遣いなど、芙蓉はしないだろう。最初から期待などしないほうがいいと、紅刃は硬直している周防を小脇に抱えて退避した。
「いやぁ……怖いなあ。迂闊に出て行ったら、俺、絶対八つ裂きだよ」
冷や汗をかきながら紅刃は一人ごちる。
「こーいうのは傍観に徹するのがベターだね、うん。だいたい俺、もともと戦闘向きじゃないしー」
「――そうさせると思いますか?」
先刻、周防に向かって鎌鼬を放った男魔術師が、紅刃を睨み据えていた。紅刃は肩を竦めて応じる。
「ま、見逃してもらえるわけないよね。仕方がない。周防ちん、ちょっと離れててねー」
「任せろ、俺は全力で逃げる!」
周防を床に下ろしてやると、有言実行ですぐさま逃げてくれた。清々しいくらいの逃げっぷりだ。そうしてくれたほうが、紅刃としてもありがたかった。戦いの最中に周りへの気遣いができないのは、紅刃も同じだ。
「さて、これでちょっと暴れても、誰も巻き込まない」
芙蓉は、まあ心配しなくてもうっかりこちらの流れ弾に当たるような相手ではないので、気遣いは無用だろう、と勝手に判断する。
「あなたはなかなか強そうだ。こちらも本気で行かせてもらいます」
「俺みたいな貧弱妖怪相手に本気出してくれるの? 嬉しくて涙が出ちゃうね」
「――退魔師・天草鴇、参ります」
紅刃の軽口はさらりと流して、魔術師・天草は鉄扇を構える。
「切り裂け、崩扇華」
天草が再び、扇子を大きく振るい風を起こす。巨大な爪が床を抉り出すように、鎌鼬が放たれる。
襲いかかる風の刃を見据え、紅刃はうっすらと笑みを浮かべ、右手に短刀を現す。刃渡り三十センチほどの大振りの短刀を振るう。芙蓉のように攻撃を力ずくで跳ね返そうとするようなものではなく、軽く撫でるだけのような力加減で、向かってくる鎌鼬を弾く。
直後、紅刃を狙っていた風の刃は突如動きを変える。無色透明だった風は微かな紅色に染まり、バグを起こしたように動きを乱し、天草の元へ跳ね返っていった。己に牙を剥いた風刃に僅かな驚愕を見せながら、天草は鉄扇を一振りして鎌鼬を薙ぎ払う。
「今のは……成程、あなたの正体に見当がつきましたよ」
「へぇ?」
「鮮血と鋼刃を司る妖、紅刃」
「わお。俺なんか無名の妖だってのに、よく知ってるね」
「無名……確かに、あなたの名前は、表にはほとんど出ませんでしたね。あなたが起こした『赤の惨劇』は、黒須家が上手く処理しましたから」
「――」
「知っていますよ、あなたのことは。妖の起こした事件は、いろいろと調べましたから。私としては、あれだけの大罪を犯しておきながら式神として飼われのうのうと生きている妖がいることが気に入らないんですが」
「ふうん……そいつは困ったな」
すっと笑みを潜めて、紅刃は赤い短刀を強く握りしめる。
「そのことはさ、お嬢は何も知らないんだよね。だから、お嬢に余計なこと吹き込まれる前に、あんたを始末しなきゃいけなくなった」
「始末? 始末されるのは、あなたの方です」
天草が鉄扇を振るう。斬撃は通用しないと判断したか、今度は攻撃の形状を変えてきた。細く鋭く、螺旋を描き渦巻く風は、さながら不可視の矢のようだ。高速で射られた矢を紙一重で避けながら、紅刃は距離を詰める。懐に飛び込むや、紅刃は短刀を突き出す。
赤い刃を、天草は鉄扇で受け止める。鋼同士が競り合い、両者の視線が間近で交錯する。
拮抗する鍔迫り合いの最中、紅刃と天草は左手で、同時に魔術を行使する。
「穿て、『緋刃撃』!」
「風弾招来、迎撃!」
紅刃は赤いダガーを、天草は風を圧縮させた砲弾を放つ。
鋼刃と風弾がぶつかり合い、ほぼゼロ距離で炸裂する。衝撃と爆風に煽られ、紅刃の体は後ろに押し返される。再び敵に肉薄しようとするが、それより先に天草が鉄扇を煽いだ。
風の刃が放たれる。狙った先は紅刃ではなく、紅刃の真上、天井だ。
強力な斬撃で天井が破壊され、瓦礫が降り注ぐ。紅刃は舌打ち交じりに崩れた天井の残骸を避ける。敵から意識が僅かに逸れる。その隙を逃さず、天草は紅刃の懐に潜り込んできた。
「風弾招来」
それは差し詰め、風の爆弾だ。小さいながらも強力な破壊力を秘めたそれを、天草は紅刃の鳩尾に捻じ込む。直後、肺が押し潰され、骨が軋むような圧迫感と衝撃に襲われる。車に轢かれたような錯覚に襲われながら、風圧で吹き飛ばされる。
「か、はっ、」
軽く五十メートルは飛ばされ、廊下の突き当たりの壁まで叩きつけられる。吐き尽くした酸素を取り戻すように息を吸うと、途端に苦痛が込み上げ、代わりのように咽込みながら血反吐を吐いた。
「穿穹将来、通貫」
「っ!」
風の矢が放たれる。反射的に身を躱すが、避け損ねた。旋風の矢が脇腹を抉っていく。鋭い痛みに顔を顰め、紅刃は膝をつく。
傷口を手で押さえると、微かな水音が耳朶に染みた。血の流れる音だ。その音にはっとして、紅刃は自分の掌を見た。
血で赤々と濡れた手を凝視する。と、どくん、と心臓が跳ねた。
「あ……やば……」
出血の量は、まだたいしたことはない。だが、鮮やな赤色と、鼻を擽る血液特有の匂いが、神経を昂ぶらせる。
紅刃は僅かに後悔していた。主である歌子の命令なしに――主が傍にいない時に、一人で戦線に出たことを。長らく主人の元にいて、契約の力で制御されていた妖としての本能が、主人と引き離され、結界で隔てられたことで、ひそかに疼き出していた。
「戦いの最中に上の空とは、余裕ですね」
冷ややかな声で、紅刃は我に返る。弾かれたように立ち上がり、短刀を構え直す。すぐそこに、天草が迫っていた。
鉄扇が振り下ろされる。それを短刀で受け止める。今度は魔術を使う暇を与えず、紅刃はすかさず天草の鳩尾を蹴り上げた。
「ぐぅ……」
呻き声を上げよろめく天草に向かって刃を振るう。紅刃のナイフは天草の腕を浅く切り裂いた。
天草は慎重を期すように、一旦下がって態勢を立て直そうとする。その間に、紅刃も乱れた呼吸を整える。
徐に、己が握る刃を見遣る。刀身の赤の上に、別の赤色が重なっている。天草の血だ。
その時にとった行動は、ほとんど無意識だった。
紅刃は、短刀を、それに纏わりついた天草の血を、舐めた。
「!?」
天草は不快そうに眉を寄せる。それとは対照的に、紅刃は甘く痺れるような快い感覚に満たされた。
――鮮血と鋼刃の妖。
軽い酩酊感に襲われる。
血に、酔う。
止めてくれる主人は傍にいない。
「あー……思い、出しちゃうなぁ……忘れてた、感覚」
徐に、短刀から手を離す。重力に従い落下する刃は、しかし、床に落ちることはなく、その前に形を崩し、赤い液体となって宙を漂い、紅刃の周りを取り巻いた。
それに呼応するように、床に流れ落ちていた血液も、吸い上げられるように宙に浮く。
血で描かれた赤い糸が、幾重にも円環を描き、紅刃を囲う。
唇に薄く浮かべる笑みは、残忍さを秘めている。瞳は血の色を深くする。
「……思い出しましたよ。今でこそ、紅刃などと呼ばれているあなたが、かつてなんと呼ばれていたか」
天草は汚らわしいものを見るように不快そうな顔で呟く。
「血刃」
★★★
紅刃は召喚に応じないし、京介は電話に出ない。誰からも応答がなさすぎて、もしかして無視されているのかしら、なんて心配になってきた。
危うくぼっち感に苛まれすぎて泣きそうになるところだったが、そうならずに済んだのは、曲がりなりにも歌子が魔術師であり、神ヶ原第一高校を舞台に魔術結界が展開されている気配を感じ取れたからである。
つい先刻まで傍にいたはずの紅刃が突如姿を消したのも、その結界のせいだと察しがついた。
「妖を閉じ込める結界、ってことね……」
ぶつぶつと呟く歌子を、通りかかる生徒たちは怪訝そうに見ていた。廊下に突っ立って考え事をする歌子を、あからさまに邪魔そうに見てくる人間もいたが、歌子は気にせず思索に耽っていた。
考え事をしていたかと思ったら、今度は弾かれたように走り出す。校舎を走り回り、あたりを観察する。見た限り、どこにも妖の姿がない。ここには多くの妖がいたはずなのに、誰もいない。
「妖怪を全員まとめて、異空間に取り込んだの? それで、紅刃も……じゃあ、京介君と連絡がつかないのは?」
自問自答で考えを前に進め、現状を把握していく。
京介もおそらく、結界に取り込まれたのだろう、と歌子は結論付ける。誰の仕業か知らないが、敵の目的は、妖たちと、京介だったというわけだ。
そこまで思い至って、歌子は苛立ち交じりに吐き捨てた。
「……私のことは眼中にないって言いたいわけ?」
魔術師である前に年頃の女子高生である黒須歌子は、仲間外れを嫌う。
自尊心も無駄に高いので、過小評価されると尋常でなくキレる。
「へえ、そう、そういうこと、そういうことですか。私なんて弱小魔術師なんてアウトオブ眼中って、そう言いたいのね、ふうん、へえ、ほお、はぁん」
一人でぶつぶつ言いながら、歌子は階段を上がっていく。上がる、上がる。最上階まで上がる。
そして、立ち入り禁止のはずの屋上の扉を蹴破って外に出る。
「そっちがそういうつもりなら、ええ、私もそれなりの対応をします」
右手を掲げる。その手に現したのは、愛用の拳銃・月花羅刹に次ぐ、歌子のもう一つの得物。
身の丈ほどもある、長く重い砲身を持つ大型ライフル・雪花羅刹。
やることはシンプルだ。結界を力ずくで破壊する。
物理的な破壊力は一切持たず、魔術的な存在だけをピンポイントで破壊する特殊弾を装填する。学校全体を包囲し異界を作り上げているらしい結界を、撃ち抜くのだ。
これだけ広範囲な結界だ、どこかしらに綻びなり、弱点があってもおかしくない。じっくり集中してかかれば、見つけられるだろう。そこを突いて、結界にヒビを入れる。あるいは、弱点などなかったとしても、何度かぶっ叩いて強引に突破すればいい。蚊帳の外のままでいる、などという選択肢はない。
「何が目的か知らないけど、私だけ仲間外れにしてお祭りなんていい度胸ね。今引きずり出してやるから、首洗って待ってなさい」




