今日は本気で戦う日(1)
「逃げろ、きょーすけ!」
「――っ!」
潤平の叫び声に叱咤されたように、動かないと思っていた体が動いた。刀を構え、時枝が振り下ろす棍を受け止める。重い一撃に潰されかけるものの、なんとか堪える。時枝が興味深そうに口笛を吹いた。
「へえ、すごい。マキちゃんが気絶するレベルの痛みを受けて、まだ動けるんだね」
「お前……あいつに……」
「そう、これは味方の受けた痛みを敵に共有させる術。『再生』できるのは十秒間だけだけどね。勿論、何の仕込みもなしに使えるほど便利なものじゃないから、マキちゃんをちょっと騙くらかして魔術をかけておいた。マキちゃんは君のことを舐めてたけど、僕はちゃんと警戒してた。だから、これくらいのことはしないとダメだって解ってたんだよね」
要するに、時枝は最初から逆巻を捨て駒にするつもりだったのだ。京介と戦わせ、消耗した逆巻を、不意をついて潰し、その傷を京介に共有させた。
逆巻は時枝に散々嬲られていた。体中を襲う痛みに、京介は歯を食いしばる。
「かくして、僕はなんの苦労もなく君を無力化できるってわけだ」
非情な策を自慢げに語りながら、時枝は棍を振るい、京介の太刀を弾き飛ばした。
得物を失くした京介は、それを拾いに走る暇もなく、時枝に蹴り飛ばされ、壁に叩きつけられる。ずるりと床に崩れ落ち、血反吐を吐く。
「きょーすけ、姐御を呼べ! このままじゃヤバい!」
潤平が吠える。のろのろと右手を持ち上げ、その手に刻まれた契約紋を見遣る。
だが、
「呼べるもんなら……とっくに呼んでる……」
契約紋は光を放つことはない。結界によって外界と隔離されているせいで、契約による召喚さえも封じられているのだ。
「残念。スグちゃんの術は契約の繋がりさえ断ち切る。式神は呼べないよ」
時枝が悠然と歩み寄ってくる。
京介は震える指先で呪符を掴み取るが、詠唱の暇は与えまいというように時枝が迫りくる。
時枝の爪先が鳩尾にめり込み、衝撃で息が止まる。
「っ、ぁ……」
手から呪符が零れる。
為す術なく体が冷たい床に転がる。意識が飛ぶのにそう時間はかからなかった。
★★★
柊は、両手で口を押えて溢れそうになる悲鳴を呑み込んだ。がくりと床に倒れ、抵抗できなくなった無防備なクラスメイト。目の前で彼が殺される、そう思った。
だが、予想に反して時枝は京介にとどめはささなかった。気を失ってしまった京介の息の根を止めることは容易そうではあるが、そうはせず、逆巻はなぜか徐に、動かなくなった京介の体を担ぎ上げた。
柊の疑問を見透かすように、時枝はふっと笑った。
「殺しはしないよ。彼にはまだ利用価値がある」
手がぶるぶると震えた。全身がじっとりと厭な汗をかいていた。
本当は怖くて仕方ない。だが、恐怖を必死で押し込めて、柊は上擦る声で問う。
「利用価値? これ以上、不破京介に何をしようというのよ」
「たぶん、結界の外には彼の式神がまだ残っている。噂ではかなりの強敵らしいからね。その式神との戦いを有利に進めるために、彼は使える」
式神、というのが柊にはよく解らなかった。だが、逆巻が京介との戦いで柊たちを弱みとして使ったように、時枝も別の誰かを倒すのに京介を利用するつもりらしい、ということは解った。
「心配しなくても、人質は一人いれば十分。君たちには用はないよ。一般人の高校生に危害を加えるほど、僕は外道じゃない」
「逆巻って野郎は俺たちを容赦なく狙ったぜ」
潤平が忌々しげに吐き捨てる。めずらしく、柊は全面的に潤平に同意したい気持ちになった。
時枝は肩を竦めて応じる。
「マキちゃんは、確かにそうだね。見境がないところがある。怖がらせて悪かったよ。僕から謝ろう。けど、ほんとに僕は、君たちに何もしないよ。なんなら、今見たこわーい記憶を、全部忘れさせてあげたっていいよ。その方が、きっと君たちにとっても幸せだろうし」
言いながら時枝は柊たちの方にゆっくりと歩いてくる。
「いったい、なにをするつもりよ」
「魔術師相手じゃ難しくても、ただの高校生相手なら、ちょっと記憶を操作するくらい簡単だ」
時枝が近づく。柊たちは逃げようとするものの、すでに後ろの不可視の壁に行き当たるまで、限界まで後退してあった。退路はとっくに断たれている。
時枝は穏やかに微笑んでいる。過激な行動とは裏腹のその柔和な表情が、柊には不気味で仕方がなかった。味方を踏み台にし、敵を容赦なく打ちのめしながら、こんなにも平然と微笑むことができる男は、異質以外の何者でもない。恐怖で竦む体は、敵が迫るのを黙って見ているしかできない。
時枝が右手を持ち上げ、まず柊に向かって手を伸ばしてきた。
得体の知れない手が、柊の頭に触れようとする。
瞬間、ばちっ、と火花が飛び散った。
「!」
時枝と柊が同時に目を見開く。目の前で弾けた小さな火に、柊は反射的に目を背けるが、熱さは全く感じなかった。一方で、時枝は明らかに熱いものに触れたように顔を顰めてびくりと手を引っ込めていた。
時枝の指先に焔が纏わりついていた。それを振り払うように、何度も手を振りながら、時枝は後退る。怪訝そうにしていた時枝だが、やがて徐に視線を下げると、得心したように頷いた。つられて柊も、時枝の視線を追って足元を見る。
柊の前、足先数センチのところで、廊下を前後で分断するように、まっすぐに赤い線が引かれている。まるで、そこから先は進入禁止だとでも言いたげだ。
「成程……迂闊だったね。まさか、あの一瞬で術を発動させていたとは」
感心したような視線を、時枝は京介に注いだ。
魔術などてんで解らない柊にも、時枝が言いたいことはなんとなく解った。気を失う寸前、京介は呪符を掴み取っていた。不発に終わったと思われていたが、ぎりぎりで発動していたらしい。あれが、この赤い線を――結界を生み出していたのだろう。
自分が危ないという時に、最後の最後まで、柊たちを守ることを考えて。
「……!」
柊は唇を噛む。京介がこんなに傷ついて、それでも友達を守ろうとしてくれた。だというのに、自分は守られるばかりで、倒れた友達が連れ去られようとするのを、指をくわえて見ているしかないのか。
「君たちに近づくと、文字通り火傷するわけか。まあ、いいさ。僕は退散しよう。標的は手に入れたしね」
時枝は柊たちへの興味を失ったようで、なんの未練もなさそうにあっさりと踵を返す。無防備に背を向けて歩き出す。現れた時と同様、見えない壁の向こうに消えるつもりなのだろう。京介を連れて。
このまま行かせてしまえば、きっと柊は、炎の結界に守られて、傷つくことはないのだろう。
それが一番、正しい。だが、同時に間違っている選択だ。
傷ついた味方を置き去りにして、時枝は去ろうとする。嵐のような厄災が去っていく。そのまま去らせてしまえばいい災いを、しかし柊は、一歩前に出て――炎の守りの向こう側に出て、呼び止めた。
「お前、ちょっと待ちなさいよ」
震えは不思議と、止まっていた。
時枝がぴたりと立ち止まり、肩越しに振り返る。その瞳に、僅かに驚愕が浮かんだ。それはそうだろう、時枝の目に映る柊は、床に転がっていた京介の太刀を拾い上げているのだ。
それは、敵意を示す行為だ。柊は、魔術師相手に、喧嘩を売ったのだ。
「一応訊くけど、冗談だよね?」
「悪いけど、私は本気よ。本気でお前と、戦うつもりよ」
「ねえ、ちゃんと解ってる? ただの子どもが魔術師を相手にするってさ。普通に考えたら自殺行為だよね」
「不破京介だってまだ私と同い年の子どもだ」
「彼は魔術師だ、君とは違う」
「魔術師だとかなんだとか関係ないよ。私にとっては、不破京介は、他の奴らと変わらない、普通の高校生で、大事なクラスメイトよ。私にはクラスメイトを守る責任がある。学級委員の目の前でクラスメイトに手を出すなど、許されないよ」
「たかだかクラスメイトのために命を懸ける気?」
「それが学級委員というものなのよ。仲間を傷つけるようなお前には、理解できないかもしれないけど」
「僕じゃなくても理解できないだろうさ。明らかに格上相手に喧嘩を売る神経なんて」
「――そうか? 俺はものすごく理解できるけどなぁ」
そんなことを言いながら、不敵に微笑む潤平が柊の隣に並んだ。
「俺は常に格上である魔術師相手に喧嘩を売り続けてきた男だぜ。不利な戦いなんて今更だ」
すると今度は反対側に、美波が溜息交じりに並ぶ。
「兄さんの場合、その魔術師に情けをかけられ続けたから五体満足なんですけど」
「お前たち……」
「俺もいいんちょと同じだ。きょーすけに守られてばっかりは気に入らない。俺だってたまには、きょーすけを守るために戦う。きょーすけを連れて行かせやしない」
「……僕は、子どものオママゴトに付き合ってられるほど暇じゃないんだけどな」
面倒くさそうにぼやきながら、時枝は京介を一旦床に下ろし、代わりに棍を構える。
「オママゴトだと思って舐めてると痛い目見るぜ。なんたって俺は、百戦錬磨、魔術師専門の暗殺者だ」
大見得を切る潤平。隣で美波は「百戦連敗の間違いでしょう」と呆れたように呟いていた。
「美波、お前は下がってろ。あの性悪魔術師は俺といいんちょで叩きのめす!」
言うや否や、潤平は時枝に向かって駆けだす。置いていかれまいと、柊も走った。
潤平が懐から警棒のようなものを引っ張り出す。明らかに校則違反の代物だが、そんなものを持っていること自体には、柊は驚かない。潤平が授業に関係のない物騒な物品の数々を懐に忍ばせて何食わぬ顔で学校生活を送っていることは、柊は知っていながら知らないふりをして、時々便利に使っていたのである。
「食らえ、クソ野郎!」
潤平が警棒を振りかぶる。それを時枝は、棍を横に構えて苦も無く受け止めた。
「本気で当たると思ってる?」
「ふ、甘いぜ」
柊は知っていた。潤平が持つその警棒は、スイッチを入れると電気が流れるスタンロッドであることを。
カチン、とスイッチが入る。ばちばちとスパーク音。得物を伝って時枝に電撃が打ち込まれる。時枝が目を剥き、僅かに怯み慌てて後退る。その隙をつくように、柊は刀を振り下ろす。電撃で痺れているとは思えない素早い動きで、しかしそれでもやはり微かに鈍った動きで、時枝はそれを避ける。だが、避けきれずに、時枝のコートが僅かに切れた。
時枝は意外そうに瞬きを繰り返す。
「驚いた……今のスタンガン、出力がどう考えても大きすぎるし、お嬢さんは意外と刀を使いこなしてるね」
「ふはは、どうだ見たか魔術師! これでも俺は元似非アサシンで、いいんちょは剣道やってんだ」
「窪谷潤平、調子に乗ってる場合じゃないよ。今のは称賛じゃなくてさりげない嫌味よ」
出力が明らかに大きすぎるスタンガンを喰らっても平気で動けるし、それなりに剣道は熟練しているはずの高校生の刀は当たり前のように避けている。所詮、多少非凡だとしても、「普通の高校生」の域からは出ていない、と言いたいらしい。
だが、だからこそ、時枝は完全に柊と潤平を舐めている。油断している。
そこに勝機はあるはずだと、柊は確信する。




