名を呼ばれない一日(4)
客の多い一日だった。
芙蓉が出て行った後少ししてから、まず歌子が京介の病室を訪れた。魔術師中央会に乗り込んでからの彼女の活躍を自画自賛し、中央会がいかに無能なのかを散々あげつらい、最後には「とにかくもう無茶をしないように」「大人しくするように」「くれぐれも、大人しくするように!」と口を酸っぱくしてくれた。
機関銃の如くにフルスロットルでまくしたてる歌子に、京介の方は「病室では静かに」という至極常識的なことを言ってやる暇すらなかった。際限なくヒートアップする歌子に付き合っているうちに、京介の方もなんだか熱が上がった気がした。これはまずいんじゃないか、熱が上がるイコール体調が悪化するということでありバレたら芙蓉に剥がれるコースじゃなかろうかと懸念し始めたあたりで、歌子は帰っていった。
歌子と入れ違いで、続いて潤平が駆け込んできた。休む暇もない。「病院では走らないように」というまっとうな注意を発する前に、潤平が紙袋を突き出してきた。「一人で退屈だろうと思って」という気遣いの言葉を噛みしめたが、しかし紙袋から出てきた本が『シニアのための一人ごはん』だったのでげんなりした。
確かに病室では一人で暇だが、京介は独り身のシニアではない。投げつけたくなる衝動に駆られたが、一応潤平からの贈り物だし、現実的な問題として本を投げつけるだけの体力が残っていなかった。無念ながらも、京介は見舞いの品を受け取った。無論、深い溜息交じりに。
そして潤平が帰った後、潤平とのバッティングを華麗に避けたと思しきタイミングで美波が来た。一般的な見舞いの品である果物を持ってきてくれて、一般的な見舞いの言葉をかけてくれて、その類まれなる「普通」ぶりに涙が出そうになった。こういう普通の客を求めていたんだ、と京介は常識的な美波を内心で褒め称えた。ただし、これは美波が常識的な対応ができる人間であるというだけで、常識的な性格をしているかについてはまた別の問題である。
京介の体を気遣ってか、美波は数分程度で帰っていった。熱のある時に見舞客の応対をするのは、それなりに疲れる。それも立て続けで、適度にツッコミの必要な相手だったというのも問題があった。客が全員去り、病室に静寂が戻ってくると、ツケのように疲労がどっと襲ってきた。
そろそろ大人しく寝ていた方がいいかもしれない、と思った矢先、再び病室のドアがノックされた。今度はいったい誰だ、と身構えると、入ってきたのは昼食を運んできた看護師だった。もう正午を回っていたことにやっと気づいた。
怠くて食欲もさほどなかったが、食べなければ食べないで体力が落ちるし、たぶん夕方あたりに空腹を覚えて後悔する未来が見える。のろのろと食事を摂って、ようやく一呼吸ついた。
深々と息をついてベッドに身を沈める。疲労の溜まった体をちゃんと休めろと命じるかのように、途端に眠気が纏わりつく。疲労と、午後の陽気とに誘われて、意識がとろとろと微睡む。
瞼が閉じ、静かに寝息をたてはじめるのに、時間はかからなかった。
――そして、その時を待ち構えていた影が一つ。
★★★
堂々としていれば、意外と簡単に潜り込めるものである。
受付は厳格な身分確認をするわけでもないし、幸い標的が入院しているのは魔術師中央会の息のかかっていない、いたって普通の病院だ。面会手続きでは適当な偽名を書いて正面から乗り込んでしまえば、見舞いに来たただの友達として認識され、誰に咎められることもない。心の中で企てていることなど、誰にも解りはしないのだ。
案内図に従って進み、エレベーターに乗り込む。上昇する箱の中に自分一人しかいないことを確認すると、艶島操はほくそ笑み一人ごちた。
「ふふ……ガード甘すぎでしょ。少しは、自分に敵がたくさんいることを自覚したほうがいいわ」
艶島が目指すのは、現在入院中の不破京介の病室である。外から魔術によって監視し、標的が眠ったのは確認済みである。
本当はもっと早く済ませてしまいたかった。しかし、いざ乗り込もうとする度に病室に次から次へひっきりなしに見舞客が来るものだからタイミングを逸し続けてしまったのだ。ようやく多すぎる来客の波が止んだ。この機を逃すまい。
目的の階に着きエレベーターを降りると、自然な足取りで廊下を進み、受付で教わった通りの道順で病室へ向かう。やがて部屋の前に着くと、名札を見て、そこが間違いなく目当ての場所であることを確認する。
思えば、年始早々、芙蓉姫などという強敵すぎる相手とぶつかったのは、艶島にとって不運としか言いようがなかった。本来なら、ちまちまとコソ泥を繰り返して小銭を稼ぐくらいの小さなこと、魔術師の仕業であると気づかれることの方が稀だし、中央会に目をつけられることも少ない。誰にもばれずに全部済むはずだった。それを、運悪く不破の魔術師などに目をつけられ、さらに運の悪いことにその式神が無駄に強かったせいで、艶島はあえなく敗北、投獄の憂き目を見たわけである。
こんなはずじゃなかったのに、と心の中では嘆きながら、うわべでは反省しているふりをして、真摯なふりをして、模範囚を演じた。そして、それが功を奏し、かつ中央会の魔術師の目が一部節穴だったことも手伝い、堂々の出所を果たした。娑婆の空気を吸った艶島が一番にやろうと決めていたのは、勿論芙蓉姫への復讐だ。自分にこんな無様な思いをさせてくれた式神に報復を。そんな野望をずっと心に秘めていたのだ。
しかし、芙蓉姫に敵うなどと自惚れるほど、艶島は自身の能力を高く見積もってはいない。所詮自分はこそこそとするのが似合いの小悪党だ。だが、小悪党には小悪党なりのリベンジの仕方がある。すなわち、搦め手から攻める。お誂え向きに、復讐相手の主人である不破京介は入院中であった。これを天啓と思わずにいられるだろうか。
かくして艶島は病院へとやってきた。弱った魔術師相手に楽々立ち回り、芙蓉姫への復讐の足掛かりとする。人質にとってやるか、あるいは芙蓉姫の前で傷つけてやるか。どちらにしても、芙蓉姫に大きなダメージを与えられるに違いないと踏んでいた。
完璧な計画を抱えて、艶島は音もなく病室の扉を開ける。忍び足で滑り込んだ部屋のベッドでは、目当ての相手が無防備に眠っている。自分の服役中に何やら厄介な相手と戦い重傷を負ったらしいとは噂で聞いていたが、よほど面倒な敵だったらしいな、と艶島は想像する。魔術師の侵入に気づかないほど消耗しているのがその証拠だ。艶島にとっては非常に都合のいいことであった。
何かの罠かと疑ってしまうくらいに、何の障害もなくベッドの傍らまで歩み寄る。今なら容易く縊り殺せてしまいそうだ。もっとも、ここで殺してしまっては、その先の本来の目的である芙蓉姫まで届かない。ひとまず、抵抗されないように今のうちに拘束してしまうべきだろう。
艶島は冷静かつ大胆に京介へと手を伸ばした。
――その手を、後ろから掴まれた。
「っ!!?」
今の今まで全く気配を感じなかったというのに、その瞬間、突然に現れた禍々しい邪悪な気配が艶島の身を竦めさせた。思わず悲鳴が漏れそうになるが、後ろから伸びてきたもう一つの手に口を塞がれて強引に堰き止められる。
いったい何が起きているのか、咄嗟のことで動転した艶島は一瞬冷静さを失っていた。焦燥が募る艶島を嘲笑うように、聞こえてきたのは静かで冷たい声だった。
「騒ぐな。京介が起きる」
「……むぐっ……!」
忘れもしないその声の主は、艶島の顔面を砂利道に沈没させてくれた憎き式神、芙蓉姫であった。
馬鹿な、と艶島は狼狽える。名前を呼ばれもしていないのに、なぜ式神がいるのだ。こんなことは想定外だ。
この時点で艶島の頭からは、そもそも正月のときだって芙蓉姫が特に呼ばれてもいないのに主人を守るために推参したという事実がすっぽり抜け落ちている。
負傷中の主人を襲撃し、ノーリスクで芙蓉姫を追い詰める策だったはずなのに、結果を見ればラスボスが待ち構えていたところにのこのこと無策で踏み込んでしまった形だ。一応拘束から逃れようともがいてみるが、力で妖に敵うはずもない。
「京介の負傷の責任の一端は私にもある。この上、これを好機と考えた三下魔術師なんぞに狼藉を許すようでは私の格が落ちる。二度とこいつに手を出そうなどとは思わないように、悲惨な思い出を作った上でお引き取り願おうか」
そんな思い出いらないんですけど、という内心の要望は、当然ながら無視された。
★★★
断末魔の叫びみたいな声が聞こえた気がして、京介は目を覚ます。
ぼんやりとしながら体を起こすと、ふわりと風が吹いて前髪を揺らす。まだ眠気の残る目を擦りながら見遣ると、レースのカーテンが揺れている。窓が開いている。自分で開けた覚えはないから、誰かが開けたのだろう。
誰だろうか、と視線を巡らせると、芙蓉姫が腕を組み壁に凭れているのが目に入る。いつの間に来ていたのだろう。
「芙蓉」
声をかけると、不機嫌そうな顔の芙蓉が視線を寄越した。
「まだ起きるな、大人しく寝ていろ。余計なことをしたら剥ぐと言っただろう」
「別に何もしないけど……お前だけか? 他に誰かいなかったか」
「私一人だ。私だけでは不満か」
「いや、そうじゃなくて。なんか、騒がしかったような気がしたんだけど」
気のせいかな、と京介は首を傾げた。すると芙蓉は、不機嫌そうだった唇に、僅かに興が乗ったような色を浮かべる。
「ああ……病室に害虫が紛れ込んでいたから、格闘の末に窓から放り出しただけだ」
「ふうん……十階でも虫って出るんだ」
高層階でも油断ならないものだな、などと考えながら、京介は再びベッドに身を沈めた。
式神に見守られながら、京介の時間は平和に過ぎていく。




