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名を呼ばれない一日(2)

 宣言通りちゃっかり紅刃に奢らせた上で、彼とは店の前で別れた。紅刃は「芙蓉ちゃんと違って俺は働き者だから」などと嘯いて、見回りに向かったようだった。

 勤労な式神を見たからといって、芙蓉のやる気が触発されるわけもなく、彼女は漫然と散策を再開する。昼も近づいて日が高くなってきた空は眩しく、そこはかとなく暑い。人間ほど暑さ寒さに敏感ではないものの、しかしどちらかといえば日焼けしながら外を歩くよりも程よく空調の利いた適温の建物の中にいたい気分だ。

 神ヶ原駅ビルは適度に涼しく、混雑具合も鬱陶しくない程度で丁度いい。ビルの三階には書店があるのを思い出して、気がむいたら京介の入院中の暇潰し用に本でも買ってやろうかと考えながらエスカレーターを上がる。無論、あとで京介には費用を割り増しで請求する腹積もりで。

 フロアの半分以上を占める書店をゆったり見て回っていると、見知った顔を見かけた。芙蓉が声をかけようか否か迷っているうちに、相手の方が気づいて顔を上げた。

「お、姐御じゃないっすか」

 彼女を「姐御」などという微妙な呼び方をする知り合いに、心当たりは一人しかいない。窪谷潤平はにかっと笑って、なぜか敬礼してきた。

「姐御、ここにはよく来るんすか」

「たまには、な。一日フリーであることだし、京介に本でも買ってやろうかと」

「奇遇っすね。俺もこれからきょーすけに本を持って行こうかと。病院は暇だろうと思って」

 ちらりと潤平の手元を見る。物色しているのは、いわゆる成人向け雑誌である。

「姐御、きょーすけはカワイイ系とキレイ系、どっち派だと思いますかね」

「知るか」

 やたらと真面目な顔で悩む潤平を、芙蓉はばっさり切り捨てた。

 本気とも冗談ともつかない様子で、潤平は悩み続ける。京介の部屋に持ち込まれるいかがわしい本、そしてそれを、一応友達がくれたものだからと捨てるに捨てられず困惑する京介の姿を想像して、芙蓉は嘆息した。

「……京介は、そういうのに興味はないと思うが」

「マジか! あいつほんとに思春期男子かよ」

 自分こそが思春期男子の手本であるとでも言いたげな潤平は天を仰ぐ。

「まー確かに、中学の時に行ったきょーすけの部屋、浮ついたものは何一つなかったっけ」

 逆に中学の頃からそんないかがわしいものが部屋にあったら驚きだ。そう素直に言ってやると、潤平がなぜか得意顔で言う。

「甘いっすよ、姐御。男子中学生のバカさ加減を舐めちゃいけませんぜ」

「そのあたりの事情には詳しくないが、そもそもそういった成人誌を中学生は買えないのではないのか?」

「そこを上手いこと手に入れるのが醍醐味っすよ」

「お前はいつか逮捕されそうだな」

 半分本気、半分冗談くらいで評すると、なぜか潤平は嬉しそうに親指を立てる。別に褒めたわけではないのだが。

 とりあえず潤平の危ない計画を阻止し、もう少しましな本を買うよう提案する。言いながら、なぜ自分が高校生相手に真面目くさった説教をしなければならないのだ、と芙蓉は若干の疲労を感じていた。

「姐御、きょーすけはどういう本を読むんすか」

「お前、奴の部屋を見たことがあるんじゃなかったのか」

 私よりお前の方が詳しいのでは、と暗に言うと、潤平は首を傾げる。

「あいつの本棚、教科書と参考書と辞書しか入ってなかった気がする」

 おそらく潤平の部屋の本棚には京介のものとは違う「教科書」やら「参考書」が入っていそうだな、と内心で思いながら、芙蓉は続きを促す。

「思えばきょーすけ、滅多に読書しねえな。家にいる時、何してるんすか、あいつ」

「京介の私生活など、私が詳しいはずもない」

「あれ、でも同棲してるんじゃないんすか」

「してない」

「何ですと! こんな美女な相棒がいるのに一つ屋根の下に住んでいない!? 同棲しながらあれこれハプニングが起きるのが定番じゃないんすか!」

 何が定番なのか。

 なぜか異常にショックを受ける潤平に、芙蓉は淡々と説明する。

「私は少し離れたところのアパートで部屋を借りている。気が向いた時には京介の部屋に押しかけて飯をたかることもあるが、基本は一人暮らし。だいたい、年頃の男女が一緒に住んでなどしてみろ。どうなると思う」

「どうなるんすか」

「テレビの取り合いが起きる」

「……」

 サスペンス視聴が最大の趣味である芙蓉にとってテレビの主導権争いは最重要案件なのだが、残念ながら潤平の理解は得られなかった。

「だいたい、私と京介は式神とその主。言ってみれば仕事上の関係だ。必要な時に呼び、呼ばれるだけだ。四六時中くっついている必要はない。京介もそう思っているだろう」

 ただそれだけの主従関係だ。芙蓉は淡泊にそう言う。

「なぁんだ、同棲じゃないんすか。ま、確かにきょーすけらしいっちゃらしいけど」

「らしい?」

「きょーすけはたぶん、仕事上の関係だから、とか思ってないと思うっすよ。姐御を必要以上に縛りたくないというか、姐御の自由を尊重したいんじゃないかと思うんすよね。なにより、姐御は女の子っすから。俺だったら喜んで女の子との同棲ライフをエンジョイする派っすけどね」

「……」

 百年単位で歳の離れた人間から「女の子」扱いされるとは思わなかった。

 類は友を呼ぶ。

 京介も奇特な奴だと思っていたが、奇特な人間には奇特な仲間ができるらしい。

「さて、ともかく、エロ本が駄目となると、何を買っていっていいか本格的に解んねえな……」

 本棚に向き直り、潤平が唸る。

 芙蓉は少し考えて、助言めいたものを送る。

「京介は……一人暮らしをしているせいか、割と料理が好きだ」

「料理の本か……確かに、エロ本よりは実用的で喜ばれそうっすね。上手くいけば俺が上手い飯をたかれる」

 助かったっす、と礼を言って、潤平は意気揚々と料理本コーナーに向かった。

 そして数分後、潤平が得意満面の笑みを浮かべて抱えてきたの本は、『シニアのための一人ごはん』だった。

「……それは何か違うと思う」



 買った本を提げて、潤平はこれから早速見舞いに行くということだった。書店の前で別れ、なんとなく潤平の姿がエスカレーターで消えて行くのを見送った。

 本は潤平が買っていってやるのだから、自分が買っていくことはないだろう、と芙蓉は結論付ける。京介への見舞いはおいおい考えるとして、折角のフリータイムだ、ひとまず自分の買い物を楽しむことに決める。

 四階に上がると、ブティックやアクセサリショップ、雑貨屋などが並んでいる。特に目的のものがあるわけでもなく適当に店々を冷やかしていく。

 通りかかった雑貨屋の前で、ふと足を止める。ディスプレイされているキーホルダーに目が留まった。マカロンがモチーフになったキーホルダーで、危うく「可愛い」より先に「美味しそう」という感想が出かけた。

 一応女子である芙蓉は、こういう小物にはそれなりに心躍る。傍目には全く心が躍っているようには見えない表情をしているが、実は密かにときめいている。買おうか買うまいか割と本気で迷って、手に取ってみようとした。

 と、伸ばしかけた手が、隣から伸びてきた手とぶつかりそうになって躊躇した。

 ちらりと目線を上げると、丁度同じようにした相手と目が合った。そして、お互い「あ」と声を上げた。

「芙蓉さん、こんにちは」

 なんの妖力も魔力も持たず、敵意も殺意も持たない相手ゆえに、その存在に気づくのが遅れた。特殊さの欠片も持たない普通の中の普通の人間の少女で、出先でばったり会った時に芙蓉に微笑みかけてくるような珍しい知り合いは、一人しかいない。窪谷美波は破顔した。

 ちなみに「普通」というのは特殊能力を持たないという意味であって、性格についてのことではない。

「今日は知り合いによく会う日だ」

「もしかして、兄さんと会いましたか」

「ああ、さっき書店で。京介の見舞いに行くと言っていた」

「やっぱりそうでしたか。お見舞いに本でも買っていくと言っていたので、ここの本屋さんに寄っているような気がしたんです」

「シニアごはんの本を買って行った」

「馬鹿ですかあの人は」

 相変わらず、実兄に対しては辛辣である。

「私も京介さんのお見舞いに行くので、ここで時間を潰しています」

「……ん?」

 今、若干、因果関係がよく解らなかった。美波もその自覚があったらしく、一拍置いて言い直した。

「お見舞いに行くので、兄さんとバッティングするのが嫌で、時間を稼いでいます」

「ああ、成程」

 今度は解った。芙蓉は思わず失笑する。すると美波が言い訳するように、

「私が入ると、兄さんは三割増し騒がしくなりますから。病室でそれはよろしくないでしょう?」

「そうだな。京介がげんなり顔を顰めるさまが簡単に想像できる」

 簡単に想像できてしまうということは、それだけ彼がそういう疲れた顔をするのを頻繁に見たことがあるという意味であり、成程あいつは苦労性だな、と芙蓉は思う。その苦労の原因の半分くらいは自分であるという自覚は、あるけれど、気づかなかったことにする。

 美波は今しがた自分が手を伸ばしたキーホルダーを見遣り、それから芙蓉に向き直る。

「こんなことを言っては失礼かもしれませんけれど」

「何だ?」

「こういうお店で芙蓉さんと会えたのは……そうですね、親近感が湧いて嬉しいです」

 特に失礼な物言いだとは思わなかった。美波は、妖に親近感を持つことが身の程知らずなこととでも思ったのかもしれない。一応、歳は百年単位で離れている。だが、そんな年齢差など構わず雑な扱いをしてくる主人もいることだから、そこはたいして気にならない。それよりも、芙蓉は不思議に思う。

「妖と親しくなるのは嬉しいことか?」

「変な人間だと、思ったでしょう」

 図星だったので、芙蓉は隠しもせずに肩を竦める。

「私は、芙蓉さんにちょっと、憧れに近い感情を持っていると思います」

「憧れ?」

「とても凛々しくて、綺麗で、強くて。私が手を伸ばしても届かない、私の好きな方の隣に立って、守るだけの力を持っていますから。私にとって芙蓉さんは、見上げるだけの高嶺の花……そんなふうに思っています。けど、傲慢かもしれませんけれど、こうして可愛いキーホルダーを見ている芙蓉さんは、年頃の女の子で、なんだか私の隣に降りてきてくれたようで、嬉しいです」

「お前たち兄妹は揃って同じことを言うな」

 芙蓉は少しだけ呆れを滲ませる。戦うしか能のないような苛烈な妖を、揃って「女の子」扱いだ。もっとも、そういう扱いをされることは、そんなに悪い気分ではないのだが。

 類は友を呼ぶ。

 奇特な男を好きになった少女も、奇特ということらしい。

「お前、それ、買うのか?」

「ええ、そうですね……私はこれを」

 美波はレモンイエローのマカロンのついたキーホルダーを一つとった。芙蓉はその隣の、薄紫色のマカロンを手に取る。

「色違いだな」

 美波はにっこり笑う。

「そうですね。その色、いいですね。芙蓉さんの瞳の色に似ています」


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