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名を呼ばれない一日(1)

 心の整理がついて気が緩んだのか、無茶をしたが故の当然の結果か、京介は翌日から熱を出した。病室のベッドに横たわる京介は、頬に赤みが差し、呼吸は苦しげだ。特段心配なわけではなかったが、たまたま暇だったという理由で見舞いに来た芙蓉は、京介を見るなり呆れて溜息をついた。

「ひ弱な人間のくせに無茶をするからそうなるんだ」

「……悪かったな、ひ弱で」

 返す言葉も弱弱しい。しかし、京介が怪我を負った責任が自分にないでもないと自覚しているだけあって、芙蓉は珍しく、たまには親切にしてやってもいいか、という気分になった。やれやれと出来の悪い弟でも見るような視線を送りながら、芙蓉は問う。

「何かしてほしいことがあれば、今日くらいはきいてやる」

 京介がちらりと見上げてくる。潤んだ瞳が、本当に言っていいものかどうかと悩んでいるふうに瞬く。促すように頷くと、京介はぽつりと呟く。

「……メロン食べたい」

「調子に乗るなバカ主」

 芙蓉の親切心は一瞬で霧消した。メロンなど、たとえ見舞いの定番品であったとしても、人にくれてやるくらいなら自分で食べる。芙蓉はふんと鼻を鳴らして踵を返す。

「そのざまでは言うまでもないと思うが、当分は大人しくしていろ。余計なことをして悪化でもしたら剥ぐからな!」

 およそ怪我人に向かって言うべきではない言葉を荒々しく吐き捨てると、芙蓉は早々に見舞いを切り上げて病室を辞した。



 京介があの調子では、当然仕事どころではない。竜胆もそのあたりのことは承知しているはずだろうから、妖どもが問題を起こしたとしても京介が駆り出されることはない。京介が妖怪絡みの厄介ごとに首を突っ込まないということは、芙蓉の出番もないということだ。

 いつ呼ばれるか、あるいは呼ばれないのかはっきりしないいつもと違って、今日は呼ばれないことが保障されている。完全にフリーな一日である。

 京介の状態が、特に命に関わる重大なものではない、という気楽さも手伝って、芙蓉は主人が臥せっている割には呑気な調子で、街へと繰り出した。

 駅前までくると、休日を満喫中らしく、中高生くらいの若者たちの姿が多く見受けられた。バス停には、少女たちがずらりと並んでいる。ここから十分ほどのところにあるショッピングセンターへ向かうバスの乗り場だ。ウィンドウショッピングも楽しそうだが、きゃっきゃと喋っている少女たちは少々姦しい。あの行列の最後尾につくのは躊躇われる。芙蓉はバスには乗らず駅前をぶらつくことにする。

 まず向かったのは、芙蓉行きつけのカフェ「プリムローズ」である。週に一度は必ずといっていいほど店を訪れてスイーツを堪能し、京介に「なんでそれだけ食べて太らない上にニキビの一つもできないんだ?」と心底から疑問に思われる程度には常連である。

 午前十時に開店したばかりで、窓越しに見える店内に客の姿はない。喧しい女子たちの集団に近づくことには躊躇しても、オープン直後で誰もいない店に一人で入ることには躊躇しない。店のドアに手を伸ばしかける。

 と、後ろから声を掛けられた。

「芙蓉ちゃん?」

 彼女を「ちゃん」付けで気安く呼ぶ馴れ馴れしい男に、心当たりは一人しかいない。振り返ると、予想に違わず紅刃が手を挙げていた。

「今日は一人か」

 いつもべったり主人にくっついている、というイメージのある紅刃にしては珍しいことだと思いながら芙蓉は問う。

「お嬢ならおたくの主人のお見舞いだよ。俺は、まあ見回りみたいなものかな」

「見回り?」

「不破の退魔師がダウンしてるのをいいことに、調子に乗る奴が出ないとも限らない。そういうアホが出てきたらうまく対処するように、とのお達しだ。負傷中の彼に気を揉ませるわけにはいかないからね」

「殊勝なことだな」

 そんな殊勝なことを考えるどころか仕事を無いのをいいことに休日をエンジョイしようとしていた芙蓉だが、特にそれを恥ずかしいとも思わず堂々としている。紅刃はそんな芙蓉と、今しがた芙蓉が入ろうとしていた店とを交互に見て苦笑した。

「まあ、とりあえず今は平和そのものだし。ちょっと休憩しようかな。ご一緒してもいい?」

「好きにしろ」

 特に拒否する理由もないのでそう言って、芙蓉はベルを鳴らしながら店の扉を開けた。拒否するつもりはないが律儀に待つ理由もないのでさっさと扉から手を離してしまうが、閉まりきる前に紅刃がついてきた。

 いらっしゃいませ、と女性がすかさずやってくる。チェック柄のエプロンをかけた三十代前半くらいの女性で、いつも穏やかな微笑みを浮かべていて、とても愛想がよい。この小さなカフェの看板娘だ。通い詰めているうちに顔なじみになった彼女とは時々言葉を交わす。看板娘の名は小町という。珍しく二人連れで来た芙蓉に、小町はにっこりと訳知り顔で微笑んだ。

「芙蓉さん、今日はお二人様ですね」

 傍目には恋人同士に見えなくもない、同じ年頃の外見の男女二人組である芙蓉と紅刃。ゆえに彼女が勘違いしているだろうことは容易に想像できたので、芙蓉はあらかじめ断っておく。

「小町殿、言っておくがこの男はただの財布だ」

「言うに事欠いて財布呼ばわり? というか、俺が奢るの確定?」

 容赦のない言い様に紅刃が目を剥いた。しかしすぐに諦めたように肩を竦める。小町がくすくす笑いながら席に案内してくれる。

 窓際の席に座に着くなり、芙蓉はメニューも見ずに注文する。

「ケーキセット。フレンチトースト、ダブル、バニラアイス添え、ホットコーヒーで」

「うわあ芙蓉ちゃん、今日一日働かないくせにそのカロリー摂取量」

「仕事がないからこそだろう」

「ああそう……俺はアイスコーヒー」

 小町が奥へ引っ込むと、ところで、と紅刃が切り出してくる。

「仕事をする気のなかった芙蓉ちゃんには申し訳ないんだけど、仕事がらみで一つ、話をしてもいいかな」

「急を要する話か」

「切羽詰まった話ではないよ。ただ、一応報告は早い方がいいと思って。例の、葛蔭の逃亡幇助のことだ」

 およそカフェでするのに似つかわしくない物騒な話だ。しかし、一緒の席に着いたところで浮ついた話をするような仲でもない、話をするとなれば必然、そういう方向になるのは避けられまい。幸い、他に客はなく、カフェ・プリムローズこだわりのフレンチトーストは焼き上がりまでに十五分はかかる。

「おたくのご主人が予想した通りだったよ。魔術師中央会に、葛蔭悟の逃亡を手引きした奴がいた」

「魔術を封じた上で捕え、ベテラン魔術師共が目を光らせている監獄だ、そこからの脱獄など容易いはずがないからな、やはり裏切り者がいたわけだ」

「葛蔭の仲間が中央会に外からこっそり侵入して、っていうのも難しいっぽいと思っていたし、やっぱり犯人は中にいた。善良な魔術師を装って律儀に入会試験を突破して正規の方法で中央会に入り込んでたんだよ。真面目な新入り魔術師のふりして、実は最初から葛蔭の脱走の機会を虎視眈々と狙っていたわけだ。恐ろしいね」

「中央会の試験がザルなだけじゃないだろうな」

「なんでも、そいつは精神操作系の魔術に特化していたらしいね」

「精神操作……催眠暗示のような?」

 一瞬、そういうのが得意な妖・紗雪御前の顔が頭に浮かんだ。不愉快だったのですぐに打ち消した。

「そいつの場合は、他人ではなく自分の精神を操作するのが得意だった。自己暗示、っていうのかな。後ろ暗い本心をキレーに隠して、試験官を欺いたわけ」

「そしてとうとう本性を現して、ということか」

「ことが済んだ後は、再び自己暗示をかけて、自分がやらかしたってこと自体を忘れるようにしていたらしい。そのおかげで、中央会の連中は葛蔭の脱獄後に職員を尋問したけれど、そいつの犯行に気付けなかった」

「間抜けな連中だ」

 脱走に関しては自分に一切非がないだけあって、芙蓉は遠慮なく中央会を罵れる。

「お前たちはよく、そいつの正体を見破ったな」

「そりゃあ、緻密にして迅速な調査の賜物だよ。精神操作の魔術じゃ記録はそうそう誤魔化せない。葛蔭が逃亡した日とか、その直前とか、不自然に葛蔭の独房に近づいていた奴がいないか記録をチェックして、あとは、何人か殴り飛ばしたりして」

 催眠暗示の魔術は、痛みを与えると解除できる場合が多い。おそらくそれを狙って殴り飛ばしたのだろうが、何人かは無実であるのに殴り飛ばされた可哀相な奴がいるということだ。もっとも、みすみす脱獄を赦した間抜けな魔術師連中に同情はしないが。

「要するに、この件は中央会の節穴連中が揃って出し抜かれたことが原因じゃないか。おかげで京介がどれだけ……」

 ぶつぶつとぼやくと、紅刃が含みのある笑みを浮かべる。それがなんとなく癇に障ったので思わず喧嘩腰に訊く。

「何がおかしい?」

「いやあ、なんだかんだいって、主人想いなんだなぁ、と」

「戯言はそれくらいにしておけ。……それで、あまり意味はないが、その裏切り者、名前は?」

「相馬誠。知ってる?」

 その名前をゆっくりと咀嚼してから、芙蓉は応える。

「――知らないな」



 実を言うとその名には聞き覚えがあるような気がした。

 しかし、思い出せない。そしてなぜか、思い出してはいけないような気がした。

 芙蓉はなんとなく不吉な予感のするその名前を、記憶の奥底に封じ込めた。

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