運命はまた回り出す(1)
あのとき、違う選択をしていたら。
契約を結んでいたら、この結末は変わっただろうか。
そんなことを考えても、もうどうしようもない。時間を戻すことはできない。
一つだけはっきりしている。
――俺は選択を間違えたんだ。
自分が間違えたせいで招いた惨禍だ。
「ごめん……ごめん、朧……」
腕に抱いた朧の体は冷たい。貫かれた胸からは、血すら流れない。妖ですらなくなった、壊れた朧。真っ黒になって、ぐずぐずに崩れた異形が、最後に京介の耳元に口を寄せる。
「――ありがとう、京介」
手の中の感触が、消えていく。涙で滲んだ視界の中で、朧だったモノが消し炭みたいに崩れて、散っていく。そうして手の中には、何も残らない。
からん、と刀が床に落ちる。それを追うように、京介はがくりと膝をつく。
呆然と自分の掌を見る。血の流れなくなった朧を貫いた手が血で濡れることはなかったけれど、白い手は救いようがないほど真っ赤に血塗られてしまったように感じた。助けられるはずだった友達の命を取り零し、その代わりに幻の血で濡れて、呪われてしまった手。その両手で震える体を抱いて、押し潰されそうなほどの後悔を抱え込む。
「あ……ぁああ――」
いつまでも、未練がましく、慟哭だけが響き渡る――
その後、魔術師中央会の応援が到着したのは二十分ほど後のことだった。発生源が消えたことで、瘴気の侵蝕の速度は落ち、市街の方まで被害が及ぶことはなかった。浄化魔術を専門とする魔術師たちが一丸となり、瘴気を抑え込み浄化するのに、それでもたっぷり一時間はかかった。その間、京介にできることはなく、邪魔にならないように避難しているのがせいぜいだった。それにしたって、京介は抜け殻みたいに蹲ったままで動けそうになく、竜胆に引きずられるようにして廃墟を抜け出したのだ。
葛蔭悟は中央会に連行され、彼に使い捨てられ命を落とした大勢の妖たちも、魔術師たちに運ばれていった。
朧は、死体すら残らなかった。
現場の指揮官らしき魔術師が京介に何事かを言っていた。
いったい何があったのか。
被害を未然に防げなかったのか。
犠牲者をもっと少なくできなかったのか。
いくら犯罪魔術師相手でもやりすぎではないか。
私怨で動いたんじゃないか。
ひたすら責め立てるようなことを言われていた気がする。だが、京介はほとんどそれを聞き流し、代わりに竜胆が適当に受け答えをしていた。
今は、余計な言葉に耳を貸す余裕なんてない。
★★★
さすがに竜胆も気を遣ってくれたらしく、しばらく仕事は休んでいいと言ってくれた。
「何日かは、魔術師も妖怪も忘れていていい。難しいだろうけれど、自分の中でちゃんと整理をつけなさい」
気遣われているのはありがたい。しかし、ほんの何日か休んだところで、心の傷を癒すのに十分な時間かといえば、そんなはずもない。そもそも、この傷を癒すことが許されるのか、それさえ京介には解っていないのだ。
「……ただ、一応受験生だ、学校にはできる限り行っておけ」
「ああ……解ってる……」
入試までまもなくである。何日も学校を休んでいられるような身分ではない。竜胆も、勉強でもしていた方が気が紛れるだろうと思ったのだろう。
そうして、整理がつくまでは竜胆が妖絡みの仕事を引き受け、京介は学校に行くことになった。
しかし、竜胆のこの計らいは、今回ばかりは逆効果となった。事件から数日後、うっかり学校になど行ったせいで、美波を泣かせ、潤平には殴られる羽目になったのである。
その日、潤平との決裂の後、部屋に入るなり、京介は着替えもしないで布団に倒れ込んだ。
体が重い。殴られた頬がひりひりと痛む。ひどく疲れていた。
目を閉じる。摩耗した神経はすぐに眠気に誘われる。目を開けるのは億劫だった。だが、このまま眠ってもまた悪夢を見そうだった。
黒い腕に捕まれて、深い闇に引きずり込まれていく、繰り返す悪夢。
怨嗟の声が聞こえてくる気がする。
どうして、どうして、と繰り返し問うてくる。
どうして殺したんだ。
どうして助けてくれなかったんだ。
――どうして、間違えてしまったんだろう?
答えの出ない問いが重石のようにのしかかり、京介の意識を自責と後悔の底なし沼に沈めていった。
★★★
目が覚めると、体中にじっとりと厭な汗をかいていた。腕や脚を掴まれる感触が残っているような錯覚を覚える。乱れた呼吸を鎮めながら、目尻に浮かんだ涙を乱暴に拭う。
怠い体を起こす。微かに痛む頭を押さえながら時計を見ると、時刻は午前四時。どうりで部屋がまだ暗いわけだ。だが目は冴えてしまった。京介はのろのろと起き上がる。
カーテンを開けてみるが、やはり空はまだ真っ暗だ。
部屋の灯りをつけ、汗にまみれた服を脱ぎ、シャワーを浴びる。鏡に映った顔は、死人みたいに青ざめていた。
制服に着替えようとして、少し逡巡してから、私服を身に着けることにする。受験生にあるまじきことだが、今日は学校に行くのをやめよう、と早々に決めてしまった。とても、そんな気分じゃない。勉強したって気は紛れないし、目を背けていたって何も変わらない。
向き合わなければならないことが、たくさんある。
刀で心臓を貫いた生々しい感触も、腕の中でぼろぼろと崩れていった体の冷たさも忘れられない。殺した感触が手から消えない。これまでだって何度も妖を狩ってきた、妖殺しはなにも初めてというわけではない。だが、大切な友達を救えなかった罪の意識はこびりついて離れない。
「……朧」
名前を呼んでも、彼は二度と応えない。
「俺が……あの時契約していれば、違った結果になっていたか?」
それは意味のない問いかけだ。無意味な問いは、すなわち、どうしようもない後悔だ。
後悔に捕らわれたとき、どうすれば前に進めるのかを、京介は知らなかった。
六時頃までぼんやりとしてから、京介はふと思い立って電話をかける。ワンコールで出た相手、竜胆は、朝早くにもかかわらず、眠そうでもなければ迷惑そうでもない、いつもどおりの声で応じた。
『どうしたの』
「車を出してくれないか」
『かまわないけれど、こんな時間じゃ花屋も開いていないよ』
さすがに竜胆は察しがいい。何も言わずとも目的地を理解していた。
「いいんだ。花屋が開くまで待っていられるほど、余裕がないから」
心に余裕がない。今はすぐにでも、あの廃墟に行きたい、そんな気分だった。
十数分後、アパートの前に赤いCX-5が乗り付けてきた。助手席に乗り込むと、車は緩やかに発進する。ついこないだは、二年ぶりの運転にペーパードライバーぶりを披露していた竜胆だが、数日乗り続けているうちに感覚が戻って来たらしく、危なげない運転をしている。
竜胆の横顔を窺う。彼女はやはり、いつもと変わらないように見える。
「行先は、廃墟でいいんだろう?」
「ああ」
「丁度良かった。私も墓参りに行きたい気分だった。立て込んでいた仕事が一段落したからね」
京介が休んでいる間、妖絡みの問題は竜胆が代わりに全て処理していた。葛蔭悟の一件の後始末も重なって、いろいろと忙しかったのだろう。
神峰地区を汚染していた瘴気の浄化は終了し、死んだ妖たちは中央会による調査の後は丁重に弔われ、葛蔭悟は収監された。葛蔭悟が引き起こした事件は一応の解決をみた。
しかし、事件が解決したからといって、当然ながらなにもかもが解決したわけではない。時間は、周りは、全部終わったみたいに動いていく。全部が既に過去のことのように、何食わぬ顔で進んでいく。
京介だけがまだ終われない。終われるはずがない。一人、時間が止まったみたいに、自分が引き起こした一つの死に囚われていた。
「……まあ、私なんぞに参られても、彼は喜ばないかもしれないけれど」
竜胆が珍しく自虐的なことを言うので、京介は意外に思う。
「どうして」
「私が殺せと言ったんだもの」
「……殺したのは俺だ」
「命じたのは私だ。責任は私にある。私はずっと、役目を……汚れ仕事でさえ、お前に押しつけてきた。だから、責任ぐらいは私が持つし、お前の憎しみの捌け口になるのは私の役割だと思っている。自分を責めて苦しむくらいなら私を恨め。お前にはその権利がある」
「別に、竜胆ばあさまを恨みはしないよ」
あの時、殺せと命じたのは竜胆だった。だが、最終的にそれを受け入れたのは京介だ。竜胆に言われるまでもなく、心のどこかで朧の命を諦めていたのも京介だし、そもそも朧を殺さざるを得ない状況にしてしまったのも京介だ。
「結局……何もかも、俺が悪い」
「何もかもというのは言い過ぎだ。元凶というなら、葛蔭悟が一番の元凶だ。あいつさえいなきゃ問題は起こらなかった。そうだな、割合で言うと……葛蔭が窒素で私が酸素、お前は二酸化炭素くらい」
「……なにその微妙なたとえ」
言いたいことはまあ解るが、その割合にはいまいち納得がいかない。やはり自分ばかりを責めてしまう。
「まあ、ショックから立ち直るには時間がかかるものだ。少しずつ折り合いをつけていくしかない」
「解ってる……解ってるけど」
「折り合いをつけるために必要だろうから、こうして……」
それきり竜胆は静かになってしまった。
沈黙のまま、車は神峰地区の廃墟を目指した。
まだ空が薄暗いうちに、廃墟には到着した。魔術師たちによる浄化魔術は、しかし、既に瘴気に侵されていた森を完全に元に戻すことは難しかったようで、廃墟の周りを囲む森はところどころで枯れている。事件の爪痕は、そう簡単には消えてくれない。市街の人間たちに被害が出なかっただけでもよしとするしかない、というのは竜胆の言だ。
建物の裏手に、事件で死んだ妖たちは埋葬された。葛蔭悟に調伏され、使役され、命を捧げさせられた妖たちは土の下に眠っている。墓石も十字架もない。人間と深いかかわりを持つことなくひっそりと生きていた妖は、人間の世界に死の痕跡、形を残すことはなく、静かに送られるものだ。魔術師たちの手で埋葬されることですら稀なことだった。
妖たちはここに埋められたが、朧の亡骸は土の下にはない。瘴気に完全に毒されてしまった彼の体は、崩れて塵になってしまった。
救いようのない死に様だった。それを引き起こしたのは、葛蔭悟であり、竜胆であり、京介だった。
「竜胆ばあさま」
「何だ?」
「俺は、大事な友達でさえ殺してしまった。友達のために戦うことは赦されなかった。だったら俺は、何のために戦えばいい?」
「京介……」
「一族の役目。責任。平和。……これから先、そういうもののためだけに戦わなければならないなら、俺は大切なものを作らない方がいいのかな」
「……それはお前次第だよ」
京介は微かに驚きを込めて竜胆を見る。肯定すると思っていた、竜胆は、私情など全部捨てて戦えと言うものだと思っていたので、意外だった。
竜胆は小さく苦笑する。
「私には理解者がいなかった。そして私にも、役目をないがしろにしてまで守りたいほど大切なものはできなかった。私はそういう人間なんだ。大切にされないし、大切にしない。冷めてるんだよ。
お前も、私のように、ただひたすらに使命のために、この地のために、不破の退魔師として戦うというなら、そして下手に大切なものを作って傷つくくらいならそんなもの無いほうがいいと思うなら、それでもいい」
けれど、と竜胆は少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「世の中には、大切なものがあると強くなれる、という名言があるらしい。もしもお前が、役目なんかそっちのけにしてでも、私の命令を無視してでも、殺せだなんて馬鹿なことを言う私を殺してでも、どうしても守りたいと思えるほど大切なものができたなら、それを優先しても、私は文句を言わないかもしれない。というか、その時はたぶん、私は殺されてるから何も言えない。わはは」
冗談とも本気ともつかないことを竜胆は言った。
京介は、そっと目を閉じて、真っ暗な中で考える。
朧を殺したのは、自分だ。散々迷って、悩んで、苦しんで、泣いた揚句、結局殺したのは自分だ。そうしてしまった理由はいろいろだ。だがとどのつまりは、朧より別のものを優先してしまったということだ。
朧は大切だった。しかし、京介にとっての一番ではなかった。
友達の命より、役目とか、責任とか、命令とか、平和とか、大勢の命とか、正義とか、そういう諸々を優先してしまった。それは間違いでもあり、正しいことでもあった。
もしも、また、同じようなことが起きたらどうなるだろうか。
次の「朧」が一番でなかったなら、また同じように「朧」を見捨てて、折り合いをつけていく道を辿るのだろう。それはある意味で間違いで、ある意味で正しいことだ。
そしてもし次の「朧」が一番であるのなら、他のすべてを擲って「朧」を守るだろう。
本当なら、全部を選びたい。けれど、いつでもすべてのものを選び取り、なにもかもを掬い取ることができるほどには、京介は強くない。きっとまたいつか、選択の時は来る。どうしようもなく、どちらかしか選べない時が来る。
その時選べるのは、一番である何かだけ。
きっと、そういうことなのだろう。
心に沈む澱を吐き出すように、京介は重く溜息をついた。
その時、森の方でがさりと音がして、京介ははっと目を開けて振り返った。
こんなところにいったい誰が、と不審に思っていると、がさがさという物音はだんだん近づいてきた。
直後、人影が森から飛び出してきて、脚を縺れさせ、ばたりと地面に倒れた。
「! おい、大丈夫か?」
ほとんど反射で、京介は倒れた人影に駆け寄る。若い女のようだった。
慌てて女を抱き起す。苦しげに呻いていた女は、京介の呼びかけに反応し、焦点の合っていないような目で京介の方を見た。
紫苑の瞳で、京介を見た。




