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どこかで狂った歯車(4)

 友達の変わり果てた姿に、京介は言葉を失う。

 肌の色が不気味な闇色に変化していて、痩身だったはずの体はあちこちがぶくぶくと膨れて元の二倍ほどの体積となった奇妙な姿になっている。綺麗だった琥珀色の瞳も血のような赤に染まっている。

 一年前、初めて出会った陽だまりのような少年は、面影すら感じられない。まったく別人だ――否、その姿はあまりに「ひと」からかけ離れた異形となっている。体は今もなお変化を続けているようで、京介が絶句している間に、右腕の関節が本来ありえない方向に曲がっていき、彼は小さく悲鳴を漏らした。

 苦しげな声に京介ははっと我に返る。

「朧、なのか……?」

 哀しいことに、確信を持てないくらいに、目の前の「モノ」は朧とは似ても似つかぬ異形だった。化け物が朧の声で喋っているだけだ――そう言われた方がずっと納得できた。

 しかし、京介の問いに、目の前の彼は掠れた声で応じる。

「そう、だよ……京介……よかった、京介が来てくれて……あと少し遅かったら、俺だって、解ってもらえなく、なってたかもしれない」

 途切れ途切れの言葉に、京介の胸が締め付けられる。

 震えそうになる声で、京介は叫ぶ。

「朧っ……何があった!? なんで、こんな……どうすれば元に戻れる?」

「――無駄だ。そうなっちまったら、もうどうしようもない」

 応えたのは、知らない男の声だった。

 声のする方を見遣ると、朧の奥――男が壁に凭れて腕を組んでいる。凶悪な瘴気の中だというのに、男は平然としている。自分の身を守る術を使っているのだろう。

「そいつが今どういう状況なのか、馬鹿でも解るように教えてやろうか。俺がやった実験は単純明快、複数の妖の妖力を、一匹の妖怪を器として注ぎ込んだらどうなるのかってものだ」

 かろうじてまだ顔だと解るぎりぎりのレベルまで崩れた朧の表情は苦痛と悲嘆で溢れている。それとは対照的に、男は愉快そうに、歌うように語る。

「妖の強さを決めるのは畢竟、妖力の容量だ。それはある程度は鍛錬でどうにかなるが、やはり生まれつきの才能に因る部分が大きい。妖力の弱い妖は、先天的に、量、質ともに、たいした妖力が作れないようになっている。妖力を生み出す器官がそうなっているし、妖力を貯めておくタンクもそうなっている。一言で言うと、雑魚は頑張っても雑魚、ってわけだ。

 だがそれじゃあんまりだろ? だから俺は、雑魚が最強になれる方法を考えた。タンクを無理矢理拡張して、外部から補充した妖力をぶち込む。虫けらでも強くなれる可能性を秘めた夢の実験だ。だが哀しいかな、実験に失敗はつきものだ」

 まるでたいしたことではないことののように、男は肩を竦めて言う。

「妖力は、それを生み出す妖によって……そうだな、たとえて言うなら『色』がある。それを混ぜるとどうなるか? 赤と青を混ぜたら、綺麗な紫ができるかもしれない。だが、いくつも混ぜてるうちに、色はどんどん汚く濁っていく。濁って、濁って……黒にもなりきれない、ただの汚い泥水になる。

 先天的にエネルギードレインの能力を持つ妖はいるが、そいつらは濁った泥水を濾過して自分の力に変化させる器官があるんだよな。それがない妖を器にすると、泥水に拒否反応を起こすらしい。

 おまけにこいつは『混ぜるな危険』って奴だったらしい、穴の開いた器から瘴気が漏れ出してきちまって……実験体は、ただの有害ガスの発生装置になっちまった。上手くいかねえもんだなぁ」

 初めて会い、初めて言葉を交わした相手の男だが、その正体も、何をやったのかも、理解した。

 この男は、最低最悪のクズ魔術師だ。

 力の弱い妖を、抵抗できないのをいいことに道具のように扱った。

 理解した瞬間、怒りがふつふつと沸き上がり、握りしめた拳が震えた。

「朧を……器にしたのか。倒れている妖たちから妖力を吸い取って」

「そうさ。雑魚でも、こうやって主人の役に立てるんだから本望だろう」

「使い捨てるために調伏したのか! いったい……どれだけ犠牲を出すつもりだ、葛蔭悟!」

 男――葛蔭悟は酷薄な笑みを浮かべる。

「成功するまで。俺は研究者だ……妖怪共はみんな、俺の実験道具さ」

「っ……来い、刈夜叉!」

 怒りを抑えきれないままに叫び、右手に退魔刀・刈夜叉を召喚する。切っ先を葛蔭に向け、京介は怒鳴る。

「朧を元に戻す方法を教えろ!」

「京介!」

 朧の叫び声にはっとする。歪んだ顔で朧は訴えていた。

「俺はもう、駄目だ……逃げて、京介……!」

「駄目じゃない! 勝手に諦めるな!」

「逃げ、て……う、ぁああああッ!」

 苦しげに悲鳴を上げ、朧は体をくの字に折る。途端に、朧の体から強い瘴気が放たれた。ぶわりと視界を埋め尽くすどす黒い瘴気に思わず怯む。

「そいつの言うとおり、そいつはもう駄目だ。失敗作、手遅れだ。もうどうにもならない」

 けらけらという葛蔭の笑い声が京介の神経を逆撫でする。

「ああ、いけねえなあ、失敗すると俺はつい、すぐに自棄になっちまう。だけどまあ、いいか。もうそいつは、毒を吐くしかできない生ゴミに成り果てちまったんだ。真っ黒な瘴気を吐き出して、ここら一帯不毛の地に変えて、そこの目障りな魔術師も黙らせてくれれば万々歳だ」

「黙れ!」

 京介は葛蔭に斬りかかる。葛蔭は右手に頑丈そうな杖を現すと、両手で構えた杖で京介の太刀を受け止める。

「待ってろ、朧! すぐに、こいつをぶちのめす。お前を助ける方法を聞きだすから!」

「ははは、無駄だ無駄だ、そんな方法はねえ!」

「京介、駄目だ、もう、逃げて……!」

 怒りと、嘲笑と、懇願と。三者三様の叫びが重なり合う。

 京介の太刀と葛蔭の杖がぶつかり合い、激しい音を響かせる。葛蔭がにやにやと笑みを深くするほどに、京介は怒りを駆り立てられる。こんな男の自分勝手な「実験」のせいで友達を傷つけられるなど、我慢できない。

 この男だけは赦せない。

 今まで京介は、不破の次期当主、神ヶ原の退魔師として戦ってきた。この地を守るため、人と妖を守るために戦ってきた。使命感や責任感が、行動原理の多くを占めていた。

 今だけは違った。今だけは、自分の役目も立場も忘れて、私情だけで、私怨だけで動いていた。

 使命の代わりに怒りを。責任の代わりに憎しみを。

 自身が操る焔の如くに滾らせて、京介は刃を振るう。

「――劫火現界ッ!!」

 激情を体現するかのように、京介は全身に焔を纏う。暴走に近い業焔だった。ありったけの魔力をつぎ込んで炎を放つ。湧き上がる焔が葛蔭を呑み込む。凄まじい威力、怒濤の勢いで膨れ上がる火焔に、葛蔭が初めて狼狽を見せた。

「な……なんだ、この炎……! こんな馬鹿みたいにでかい魔力……お前は……ぐ、がああああッ!」

 炎にまかれ、葛蔭は絶叫する。怯んだ葛蔭の杖を焼き払い、刈夜叉を振るう。炎の勢いを借りて、袈裟懸けに斬りかかる。低い唸り声を上げながら、葛蔭が床に倒れた。

 京介は、火に焼かれて爛れた葛蔭の顔の、すぐ脇に刀を突き立て、問い詰める。

「朧を元に戻せ」

「こ、この……悪魔めが! よくも、やってくれたな!」

「お前の戯言に付き合っている暇はない」

「何度訊かれても答えは同じだ! もう手遅れだ」

 京介は舌打ちし、刀を引き抜く。

 灼熱の焔を操りながら、感情はどんどん熱く暴走していく。

 この程度の脅しでは駄目らしい。そう、腕の一本でも斬りおとさなければ――

 そう思った時、

「そいつの言うとおり、もう手遅れのようだ」

「!」

 後ろから声が響いてきて、京介は反射的に振り返る。その声の正体が誰かを考えるより前に、その言葉の内容にかっとなり、怒りを露わにした表情のまま向き直った。しかし直後に、さっと血の気が引いた。

 その言葉を告げたのは、竜胆だったのだ。

 味方であるはずの彼女がなぜ、そんな絶望的なことを言うのか。信じたくなくて、熱くなっていた思考が急激に冷めて、青ざめる。

「竜胆ばあさま」

 竜胆は入り口近くの壁に凭れ、溜息をついた。

 中での異常を察知して、彼女自身も防護の術を施してここまで来たのだろう。竜胆の力は優れているが、それでも、この濃い瘴気の中で二人分の防御魔術を行使するのは至難のはずだ。にもかかわらずこうして来たということは、そこまでせざるをえない事態だと判断したということだ。

 竜胆は朧を一瞥すると、重い溜息をつき、昏い瞳で京介を見つめて告げた。

「そうなってしまったら、もう手の施しようがない。生きている限り、そいつは瘴気を吐き出し、周りに害をなす。もうどうしようもない」

 簡単なことのように言う竜胆に、京介はやるせない気持ちで拳を握りしめた。

「なんで……なんで、そんなことを言うんだ。竜胆ばあさまなら、なにか方法が解るんじゃないか? それに、中央会からの応援だって来るはずだ。他の魔術師たちにも協力してもらえば……」

「京介」

 静かな声で、しかし、有無を言わせぬ迫力を持った声で、竜胆は名前を呼んだ。

「お前も心の底では解っているんじゃないか? 諦めているんじゃないか? どうしようもないと認めているから、ありったけの魔力を焔に変えて、憎しみを葛蔭悟にぶつけた」

「違う……!」

「認めたくない気持ちは解るけれど、認めるしかないんだ。一年前、白峰運動公園に現れた黒い式神……思えばあれも、葛蔭悟の実験台にされた妖のなれの果てだったんだろうね。お前はあれを、迷いなく切り捨てた。ああなってしまったらもう駄目だと、お前はもう知っているはずだよ」

 言うな。言わないでくれ。京介は懇願するように、首を横に振る。

 だが、竜胆は躊躇わない。神ヶ原を守る使命を帯びた、不破家当主は厳命する。

「殺せ、京介」

 目を見開き、絶句する。

「ま、待って……他に、方法がある。きっと、何か」

 掠れた声で訴える京介に対して、竜胆はきっぱりと、迷いなく告げる。

「ない。万が一そんなものがあるのだとしても、それを探している時間はない。瘴気は広がりつつある。放っておけば被害は市街に及ぶ。朧を救う方法を考えているうちに千人が死ぬぞ。一人と千人、秤にかけるまでもない」

「頼むから、待ってくれよ!」

「待てない。他の何を犠牲にしてもたった一人の友達を守りたい、なんて戯言だけは言うなよ? そんなことを言っても、得られるのは自己満足だけだ」

 一かけらの優しさもなく、竜胆は冷たく告げる。心を抉るナイフのような言葉に、京介は小さく震えていた。

 殺す? 朧を?

 ずっと、この地のため、使命のため、人と妖のためにと、戦ってきて。

 苦しい思いも哀しい思いもしてきて。

 絶望しそうなほどつらい中で、ようやく友達ができたというのに。

 ただの一度すら、その友達のために戦うことも許されないのか。

 自分の大切なものさえ自分で壊すことを強いられるのだとしたら、いったい何のために――

「京介」

 消え入りそうな声が名前を呼んだ。

 震える体を抱きながら振り返ると、ぐちゃぐちゃに崩れた体で、朧は微笑んだ。

 屈託なく笑う少年は、

「最後に、京介に会えて、よかった」

「朧」

「ごめんね……こんなことを、頼んで……ごめん……」

「朧っ」

「けど、誰かを傷つけてしまう前に……俺は京介の手で……」

「朧!!」

「京介――俺を殺して」

「――――」


 誰もかれもが殺せと言う。

 聞きたくなくて、耳を塞いだ。

 それなのに、声が響く。頭の中に声が響く。殺せと――そう言っているのは、自分の心だ。

 それに気づいた瞬間、涙が溢れた。

 自分自身でさえ――くだらない正義感に毒されて、諦めて、悟ったみたいな声で殺せと囁いていたのだ。

 もう諦めるしかない、殺すしかない――そう告げる竜胆の言葉を、認めたくなくて、けれどどうしようもなく認めてしまっているのは、他でもない自分自身だった。

 自分はなんて卑怯者なんだろう、と京介は思う。

 苦しいのも哀しいのもつらいのも朧の方なのに、朧を今まさに手にかけようとしているのは自分なのに、自分こそ被害者だとでもいうように、泣いている。


 変わり果てた姿の友達を抱きしめることに、躊躇いはなかった。

 そうして自分の腕に抱いた友達を刀で貫くことにも、もう躊躇うだけの心は残っていなかった。

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