どこかで狂った歯車(3)
初めて朧と出会った場所、如来寺へと、京介は自転車を飛ばした。朧は基本的に寺を根城にしている。いつものようにそこで猫と戯れている姿を思い描きながら、寺の前に自転車を付けた。
しかし、そこに朧の姿はなかった。
彼だって、一日中そこで猫と一緒にいるわけではない。気まぐれに出かけることもあるだろう。だが京介は、今日に限ってひどく胸騒ぎがした。
『ごめん……俺、全然、駄目だなぁ』
朧の昨日の言葉が引っかかっている。なぜ朧はそこまで自分を貶めるような言い方をしたのか。朧の提案を受け入れることはできなかったが、それは別に朧に非があるような話ではなかった。なぜ朧は、あんなにもひたすらに謝り続けていたのか。
その理由をよく考えもせずに、京介は朧の申し出を突っぱねてしまった。京介が誰とも式神の契約を結ばない理由を知っていた朧が、それでもなお、今になって言い出した理由を、もっと考えるべきだったのではないか。
だが、考えても、
「解らないよ、朧……いったい、何を考えてる?」
京介は朧と対等な関係でありたかった。上下を定めて、利害や打算で結ばれるような契約関係にはなりたくなかった。
そう考えていたのは京介だけだったのだろうか。朧は何を求めていたのだろうか。
京介は溜息交じりに頭を振る。やはり一人で考えていても埒が明かない。朧に会って話をしたい。
朧を探さなければならない。せめて朧がケータイを持っていれば苦労もないのだが、残念ながら持っていない。朧がいそうな場所を手当たり次第に探すのは、いくらなんでも非効率だ。手っ取り早いのは探査の魔術の類なのだが、京介は妖に対する探査の魔術は修得していない。
少々、というかかなり気が進まないが、彼女に頼るしかなさそうだ。京介はケータイを引っ張り出して、登録してある番号にコールした。
『お前からかけてくるのは珍しいね』
「頼みがある、竜胆ばあさま」
電話の向こうで、竜胆がくすりと小さく笑うのが解った。
『お前が私を頼るとは、よほどのことがあったかな? けれど、残念だな、お前の頼みをきいてやれる余裕はない。実のところ、私も丁度、お前に連絡を取りたいと思っていたんだ。授業中の受験生の邪魔をしちゃ悪いと思って遠慮していたけど、既にサボっているようだから、仕事の命令をするよ』
タイミングが悪いな、と京介は内心舌打ちする。だが、プライベートなことを理由に仕事を拒否するわけにもいかない。どうにも物事が上手くいかないもどかしさを感じながらも、頭を切り替える。
「……仕事って?」
『面倒な魔術師がいるという情報があってね。力の弱い妖や攻撃手段を持たない妖を誰彼かまわず調伏して式神にしている奴がいると、妖怪連中からのタレコミだ』
「調伏?」
魔術師が妖を式神とする方法は二通り。契約するか、調伏するか。調伏は魔術師が妖を力ずくで従わせるものだ。自分に従おうとしない相手を強引に力で屈服させるもので、魔術師には相応のリスクがあるが、一度調伏できれば、そのリスクに見合うだけの、妖怪の強大な力という恩恵を受けられる。契約による式神が、自分の意思で力を貸してくれるのに対して、調伏による式神は、魔術師がその力を一方的に利用するものだ。悪さをして暴れまくる妖を鎮め手綱をつけて管理するための方法でもあるが、現在では魔術師がより強い力を手に入れたいだけのために使うことが多い。
力の弱い妖が相手なら、調伏のリスクは小さい。だが、弱い相手をわざわざ調伏して手元に置く理由はほとんどないはずだ。
「状況からすると、妖の力を利用したいわけではなさそうだけど……いったい何の目的で」
『さあね。……そこそこ力をつけた奴は、横暴な魔術師から身を守る術も持っているだろうが、本来調伏のターゲットになるはずのなかった力のない奴が狩られてるとあって、妖たちは戦々恐々としているよ。いったい、その魔術師は何を考えているのだか』
「いったい何者なんだ」
『今、目撃情報を元に、中央会に照会をかけている』
「そいつは本当に、見境なく妖を式神にしているのか」
『そうらしいね。不破家としては、できるだけ妖連中を横暴な魔術師の手から守ってやりたいけれど』
「できるのか」
『方法はあるさ。けど、なにぶん契約となると妖たちも慎重になるからねぇ』
「契約……?」
なぜ契約の話になるのか京介が訝しんでいると、そんなことも解らないのかと言いたげに、竜胆は告げる。
『通常、妖は二人の主を持つことはできない。ロクでもない奴に調伏される前に、契約してしまえばいいのさ』
主人の椅子は一つだけ。椅子取りゲームは早い者勝ちだ。誰かに調伏される前に、別の誰かが契約して椅子を埋めてしまえばいい。そうして対処療法をしているうちに、問題の魔術師を黙らせればいい。双方の同意で結ばれた契約は、同じく双方の同意で破棄できる。邪魔な魔術師を大人しくさせてから、椅子を立てばすべて丸く収まる。それが竜胆の考える、妖を守る策だ。
だが、なかなか彼女の思うようには、事態は進んでいないらしい。電話の向こうで竜胆は煩わしげに溜息をつく。
『こっちとしては完全な善意での提案なんだけどね、ことが済んだ後にちゃんと解放してやるって証拠を見せられるわけじゃないから、言葉巧みに服従させようって腹なんじゃないかって疑われてて、なかなか妖たちの保護が進まないんだ。こうなったら、妖どもについてはなんとか自衛してもらうとして、とっとと問題の術師をとっ捕まえる方が早いかな……』
その後も竜胆はぶつぶつと、ああでもないこうでもないと考えているようだったが、その言葉は半分くらい聞こえていなかった。
なぜ朧が式神になりたがったのか――その理由が、こんなところで繋がった。
どうして朧が今になって式神になろうとしたのか。主人の椅子を京介で埋めようとしたのか。
他の誰かに座られる前に、埋める必要があったからだ。
『――い……おい、京介、聞いているのか?』
「あ、ああ……聞いて、る……」
『本当か? ……おっと、中央会から照会結果が来た。登録のある魔術師だ。名前は、葛蔭悟』
「そいつが……」
『ああ。だが、こいつが今どこにいるのか……人間に対する探査術はなかなか難しいから、ヒットするか怪しいな』
「ばあさま」
喉がやけにからからに乾いていた。その言葉を吐き出すのに、ひどく労力が必要だった。
「朧を……術で探してほしい。朧が危ない……もしかしたら、その魔術師のところに、いるかもしれない」
★★★
自転車を飛ばして、京介は竜胆の屋敷へ急いだ。とにかく合流しろ、という指示だった。
先ほどの竜胆との会話を思い出しながら、一心不乱に自転車を漕ぐ。
焦燥で上擦る声で朧を探すよう頼んだ京介に、竜胆は固い声で問うた。
『……その根拠は?』
『昨日、朧が俺の式神にしてほしいと言ってきた』
その一言だけで、竜胆は京介が抱く危惧を瞬時に理解してくれた。
『問題の魔術師に調伏される前に、お前の式神になって身を守ろうとしたのか。朧は葛蔭悟の動きに……自分に迫っている危険を予期していたのか。それで、お前は突っぱねたのか?』
『……まさか、こんなことになっているなんて』
『後悔しているか』
沈黙は肯定だ。京介はどうしようもなく後悔していた。悔やんだところで事態が好転するわけではないと解っていながらも、悔やまずにはいられない。
あの時、朧の提案を受けていれば。
朧が差し出した手を握り返していれば……彼の無言のSOSに気づいていれば、今こんなに、胸を押し潰すほどの不安を抱くことなどなかったのに!
『……お前は悪くない、お前の判断は間違っていなかったよ。朧が正直に全部打ち明けてくれれば話は簡単に済んだんだ。もっとも、彼のことは何度か見たことがあるけれど、温厚で人畜無害そうな彼に、お前を利用するような真意を打ち明けられたとも思えないが』
『頼ってくれてよかったのに……友達なんだから、困っているなら、頼ってほしかった。利用だなんて、思わない』
『頼ることと利用することの境界は難しいよ。実際お前は、魔術師が式神に何かをしてもらうことは、頼ることではなく利用することだと思っているだろう』
『……式神は主に逆らえない。絶対的な上下がある関係では、「利用」になるに決まっているじゃないか』
『さて、どうだろうね。主が望まなければ絶対服従の機能は作用しない。式神の契約はね、時に、約束にもなりえるんだよ』
『約束?』
『そう。上下関係とか、服従とか、利害の一致とか、そんなものを全部抜きにして……一緒に生きる約束。そういうものになれる。難しいけれどね』
『……』
『まあ、今はお前の判断の良しあしを判じていても始まらない。探査はやってみるから、お前はひとまず屋敷に来い。まったく、ほんの数回見たことがある程度の相手を探せだなんて無茶を言う孫だ。いくら私が天才的当主だっていっても、大変なんだからな』
さりげなく自分で自分を持ち上げながら、竜胆は電話を切った。
竜胆は、京介は悪くない、間違っていないと言ってくれた。だが、京介自身は、自分の判断が間違いだったとしか思えなくなっていた。
契約を約束だと思えていたなら。
魔術師は式神を利用するだけだという、無意識のうちに、暗黙のうちに思い込んでいたその傲慢さがなければ、京介はきっと、昨日――いや、もしかしたらもっと早く、朧と「約束」を交わせていたかもしれない。そうすれば、朧がロクでもない魔術師に狙われることはなかった。今、こんなに焦燥することはなかったはずだ。
葛蔭悟という魔術師が、妖たちを調伏してなにをしようとしているのかは解らない。だが竜胆の話通りなら、調伏のセオリーから外れた行動をしていることは間違いない。葛蔭悟は妖を利用してなにかを企んでいる。顔も知らない相手に、京介はふつふつと怒りを湧き上がらせる。何を考えているか解らない奴に、友達に手を出されるのは我慢がならない。
朧は人間の中に交じれるほど存在の強い妖だ。だが、彼の持つ能力は幻術系の力だ。あの優しい妖は、誰かを傷つけるような術は使えない。攻撃の手段は持っていない。魔術師相手に戦うのは難しいだろう。狙われれば、自分の身を守り切れるか。
――どうか無事でいてくれ。
祈るような思いで、京介は竜胆の屋敷に辿り着く。
自転車を放り出して敷地に駆け込むと、玄関の扉から突如、赤い光が飛び出した。
「!?」
リボンのように流れていく赤い光が、どんどん遠くへ伸びていく。まるで、道案内をするように。
リボンの行く先を視線で追っていると、がらりと扉が開く音がする。振り返ると、コートを羽織りながら竜胆が飛び出してくるところだった。
「竜胆ばあさま」
「なにをぼけっとしている。出るぞ」
指をくいっと曲げて手招きすると、竜胆は屋敷の横手に回る。
車庫に停めてある竜胆の愛車、燃えるような煌く赤のCX-5。竜胆は運転席に滑り込む。京介が助手席に乗り込むと同時に、竜胆はアクセル全開に飛び出した。
ひどく燃費の悪そうな急発進に体を大きく揺さぶられ、京介は舌を噛まないように気を付けながら問う。
「光の先に、朧が?」
「私の妖怪探査術は完璧だ。攻撃と防御を一切捨てて、補助と暗躍のための魔術に磨きをかけてきたからな――おい、うじうじと俯いている暇はないぞ!」
竜胆に叱咤され、京介ははっと顔を上げる。
「後悔などという無意味なものは鼻かんだティッシュに丸めてポイだ。ぼけっとしていると足をすくわれるぞ。アホな魔術師をぶっ潰して、友達を助けることだけ考えていればいい」
「――了解」
「珍しく私が直接手を貸してやっているんだ、無様な醜態をさらすなよ!」
ハイテンションに叫びながら、竜胆は更にアクセルを踏む。
直後、赤信号に引っかかって急ブレーキ。前にのめった京介は反動でヘッドレストに頭を打ちつけ醜態をさらした。
「ふむ……二年ぶりの運転か、腕が鳴るな」
「頼むから事故だけは起こさないでくれよ、高齢ペーパードライバー」
危険すぎる竜胆の運転で、車はぐんぐん進んでいく。賑やかな繁華街を通過し、景色はやがて田園風景に変わっていく。民家も疎らになり、バスもロクに通らないような、交通の便が悪い、神ヶ原北西部地域――旧神峰村地区に入っていく。少し前から、すれ違う車も、人も見かけなくなった。
田園と畑と森ばかりが広がる、緑と茶色の景色の中、赤い光を追いかけて、メタルレッドの車が疾る。車窓を流れる景色を落ち着かない気分で眺め、京介は不安に駆られた心臓が鼓動を早めるのを感じていた。
対向車も歩行者もいないのをいいことに、竜胆はひたすらアクセルを踏みまくる。法定速度など知ったこっちゃないとばかりにかっとばす。いつもなら小言の一つでも言ってやるところだが、今だけは、もっと急いで、もっと早くと口をついてしまいそうだった。
「朧……」
思わず呟くと、運転席からすかさず怒鳴り声が飛んだ。
「ぶつぶつ呟いていると舌を噛むぞ! ……ん? これは……!」
言ってる傍から、竜胆が急ブレーキを踏むので、危うく舌を噛みかけた。プリテンショナーは正常に作動した。シートベルトが体に食い込んで苦しい。二度目なので、頭だけはしっかり守り、車体が完全に止まったのを確認してから、京介は竜胆に苦情を入れる。
「竜胆ばあさま、急ブレーキは勘弁して」
「んなこと言ってる場合か、前を見ろ」
促されるままに前方に視線を向け、京介は絶句する。
普通の人間には見えないだろう、しかし、魔術師である京介と竜胆には、前方に立ちこめる黒い霧――瘴気に気づいた。視界を真っ黒に埋め尽くす瘴気は、尋常ではない濃度だ。
「酷い瘴気だな」
「この先に、朧が? こんなところにいたら、妖だってただじゃ済まないはずだ」
「見ろ、草木も枯れている」
瘴気は少しずつ広がってきている。瘴気に侵蝕された場所では、緑が枯れていく。
「お前の付け焼刃の浄化術でなんとかなるレベルじゃないな。それに、この瘴気は現在進行形で発生中……どんどん増えているようだ。元凶を叩かなければ意味がない」
「元凶……一年前、白峰運動公園に現れた黒い式神みたいな奴が、この先に?」
京介は、一年前に朧と一緒に倒した正体不明の人造式神を思い出す。結局、あれが何だったのか、誰が作り出したのか、竜胆は突き止め損ねていた。
「傾向としてはそうだが、威力が段違いだ。くそったれ、どうせ葛蔭悟とかいう奴のせいに決まっている。私のCX-5でここに突っ込めと? いい度胸じゃないか!」
忌々しげに呟きながら、竜胆はCX-5をおじゃんにする覚悟を三秒で決めたようで、再びアクセルを踏み込んだ。
車は赤い光の導くまま、舗装された道路を外れて、森に囲まれた獣道を強引に突き進んでいく。がたがたと荒っぽく揺れる車の中から、京介は外を見遣る。木々は瘴気に蝕まれ、その命を枯らしつつあった。
「作戦を伝えるよ、京介」
前を向いたまま竜胆が口早に言う。
「瘴気の処理については、魔術師中央会に掛け合って応援を寄越させる。お前は葛蔭悟を捕え、瘴気の元凶を叩き斬れ。私はお前の補助に回る。この瘴気の中を動き回るとなれば、お前に防御のための術を施すしかない。だが、それだって、フル稼働させるとなったら長くはもたない。十分で片づけろ」
「また無茶なことを」
相変わらずの無茶ぶりに京介は肩を竦める。しかし、実際問題、即座に片づけないとこちらの身がもたない。それに、朧のことも速やかにここから連れ出す必要がある。
やがて細い道が終わり、開けた場所に出る。竜胆は、今度は緩やかなポンピングブレーキで停車した。目の前には、赤レンガ造りの洋館が建っていた。
「廃墟のようだな」
「ここに、朧が……」
赤い光は、建物の中に消えていた。
「気を付けろよ、京介。この探査術の厄介なところは、探していることが相手にも筒抜けなことだ。朧と敵が一緒なら……いや、まあ間違いなく一緒だろうけど、敵さんは、お前が来ると解っていて待ち構えている」
「解っている。じゃあ、行くよ」
「よし――浄めの光よ、彼の者を護れ」
竜胆が唱えると、うっすらと赤い光が京介の体を包んだ。瘴気から身を保護する魔術だ。補助と暗躍の魔術を極めた竜胆の腕は伊達ではない、しかし、そんな彼女を以てしても、この強い瘴気の中では十分が限界ということだろう。
急がなければならない。
京介は車を飛び出し、眼前にそびえる西洋館に進入した。
廃墟のため、当然電気は通っていない。ところどころ崩れている壁から陽光が微かに差し込むが、黒い霧のせいで、やはり視界は悪い。それでも、赤いリボンのような光だけははっきりと浮かび上がっていて、京介はそれを頼りに建物の中を走った。
緩やかにカーブを描く階段を駆け上がり、半開きになった扉の奥に光が吸い込まれているのを認め、京介は迷わず扉を蹴り開け中に飛び込んだ。
直後、部屋の中に広がる異様な光景に、京介は息を呑んだ。
床に、妖たちが倒れていた。
一人や二人じゃない。少女の姿をした者、老翁の姿をした者……老若男女を問わず、妖たちが大勢、薄汚れた床に倒れ伏していて、ぴくりとも動こうとしない。死屍累々、という言葉がぴったりだった。
京介は一番近くに倒れていた少女の傍らに膝をつき、首筋に触れてみる。脈は、もうなかった。
「……っ、朧!」
京介は朧の姿を探し求める。幸か不幸か、倒れている妖の中に朧はいない。なら、朧はどこに?
敵が待ち受けていることなどお構いなしに、京介は朧の名前を呼ぶ。
「朧! どこにいる!?」
赤い光はこの部屋で途切れている。ここにいるのは間違いないのだが、なにぶん視界が悪い。
もしも近くに瘴気の発生源があるとしたら一時凌ぎにしかならないだろうが、とにかく部屋の全容が知りたい。京介は呪符を放ち、
「旋風現界!」
風を巻き起こし、瘴気を吹き払う。
一瞬、瘴気が払い除けられ、視界がはっきりする。
折り重なる、力尽きた妖たち。
その先に、一人だけ、立っている者がいた。
「――京介?」
発せられたのは、京介のよく知る朧の声だった。
人影が振り返る。今の声は、確かにその人影から発せられていた。
「……朧?」
だが、振り返った姿は、京介の知る朧の姿ではなかった。




