どこかで狂った歯車(2)
その日は結局、勉強は中断したまま遊んでしまった。京介はいい息抜きになったからよしとした。潤平のほうは、夕方帰る段になって「しまったぁぁ、遊んじまった課題終わってねえしぃぃ」と叫んでいた。なんとか課題だけ京介のものを写そうとしていた潤平だが、美波に引きずられて泣く泣く帰って行った。
「受験が終わったらゆっくり遊ぼうな」と言い置いて、二人と一緒に朧も帰った。一気に静かになった部屋を、京介は一人で片づけ始める。もう夕飯を作り始める時間だった。
散らかしたままだった勉強道具をしまって、冷蔵庫の中に何が残っていただろうかと考えながらテーブルの上をきれいにする。
考え事をしながらでも、手は動かせるものだ。残っている材料を思い出すのに十秒、その材料でできる今夜の献立を決めるのに二十秒。そこから先は別のことを考え始める。
結局朧には、彼がほんの一瞬見せた不安の理由を尋ねることができなかった。潤平たちがいたから、というのもある。妖である朧が悩むとすれば、妖に関わることである可能性が高い。潤平や美波の前で、迂闊に切りだせる問題ではない。それに、自分の思い過ごしである可能性を考えると、潤平たちに余計な心配をさせるような言動は躊躇われたのだ。
朧とは近いうちにまた話がしたい、と思った。
その時、部屋のチャイムが鳴った。京介は片づけを中断して玄関に向かう。扉を開けると、外に朧が立っていた。
会いたいと思っていた矢先に、つい先ほど潤平たちと一緒に帰ったはずの朧が戻ってきて、京介は小さく目を見開いた。彼は走って来たのか、少し息を切らしている。
「どうした、朧? 忘れ物か」
そう問うたのは、お互いに落ち着くための時間稼ぎみたいなもので、朧が忘れ物をしたわけではないことは、解っていた。朧が今日持っていたのはショルダーバッグだけで、彼がそれをしっかり肩にかけて部屋を出て行ったのは確認した。部屋を片付けていても、誰の忘れ物もなかった。
「いや、まあ、その……」
朧はいつになく歯切れが悪い。いつもはまっすぐにこちらを見るはずの朧が、この時ばかりは目を泳がせている。
「ええっと……潤平と美波がいたから……話しそびれたことがあって」
「……二人に聞かせられない話?」
いよいよ、朧の見せた表情は、京介の思い過ごしなどではなかったのだと思われてくる。やはり妖絡みだろうか、推測しながら、ひとまず、朧を中に招き入れて扉を閉めた。
朧は玄関から先へ進もうとはせず、決意を固めたような表情で、単刀直入に告げた。
「京介――俺を、京介の式神にしてくれないか」
「え……」
予想していなかった申し出に、京介は呆然とした。
友達でいることと、主従の契約を結ぶことは両立しえるのか、ということについては、一度考えたことがある。朧と出会って間もない頃のことだ。その自問に、京介は「ノー」という自分の答えを出した。ゆえに、朧にそれを提案したことは一度もなかった。
出会ってから一年。なぜ今になって朧が式神の契約などという話を持ち出したのか、京介はその意図を測りかねた。
「どうしたんだ、朧、式神だなんて急に」
「驚かせてごめん」
「式神になるって、意味は解ってるんだろう?」
「勿論」
言われるまでもない、とばかりに朧は力強く頷いた。
式神は主人に望みを叶えてもらい、主人は式神の力を得る。主人は庇護を与え、式神は服従を誓う。
妖は自分が尽くしてもいいと思える相手に従う。どちらかの命が尽きるまで傍にいる意思と覚悟が必要だ。お互いの利害が一致して納得したら、双方の合意の上で主従の契約を交わす。
「解っているなら……」
京介は困惑気味に頭を掻く。朧を突き放す気はない。どうすれば傷つけずに伝えられるだろうかと、京介は言葉を慎重に選ぶ。
「朧、前に少し話したかもしれないけれど、俺は自分の式神を見つけようと真剣に探したことがないんだ」
「聞いたよ。式神のための何をしてやれるわけじゃないからって言ってた。京介、俺は別に見返りが欲しいわけじゃないんだ。ただ、ずっと京介の友達として、京介の力になれたらって思うだけなんだ。何もいらないから、俺を君の隣にいさせてくれないか」
真剣なまなざしを向ける朧に、京介は戸惑う。
「……どうして、急に」
考える時間を稼ぐように、京介は問う。朧は微かに動揺したように瞳を揺らして、俯き気味に言う。
「その……今日、進路の話が出ただろ? そしたらさ、京介もいつか神ヶ原を離れることがあるんだろうかって思って、それで……保証が欲しくなったんだよ、友達でいられる保証」
その言葉は、京介にとってはひどく矛盾したもののように聞こえた。朧の中では、友達関係と主従関係が矛盾していないのだろうか。
「それで、不安そうな顔をしていたのか?」
「やっぱり、気づいていたんだね……俺、そんなに顔に出やすいかな」
朧は小さく苦笑する。その笑みは、どこか無理をしているようにも見えたのは、気のせいだろうか。
「朧……俺は神ヶ原を離れる気はないよ。主従契約なんて結ばなくたって……式神じゃなくたって、友達としてずっと一緒にいてほしい。それじゃ駄目なのか?」
朧がはっと目を見開く。それから困ったように微笑む。
「そう、だよな……ごめん、変なこと言って」
「いや……」
「ごめん……俺、全然、駄目だなぁ」
そこまで卑下したことを言わなくても、と京介は思った。だが、京介がそう言う隙を与えず、朧は壊れたレコードみたいに謝罪を繰り返し、自分を責めるような言葉を呟いた。
「悪かった、京介、全部忘れてくれ」
そう言って、朧は逃げるように部屋を出て行った。
ばたん、と閉じた扉を見つめ、京介は胸に重い澱が沈んだような感覚を覚える。
間違っていないはずだ。後悔はしていない。せっかくできた大切な友達だ、主従契約などで縛りたくない。そんな無粋なもので、今の心地よい関係を濁らせたくない。
間違っていない、はずだ。
★★★
一時間目の授業が終わった直後、潤平が京介の席までやってきて、顔の前で両手を合わせた。
「きょーすけ、頼む! 後で、今の授業のノート見せてくれ。全っ然聞いてなかった」
潤平はそう懇願した。しかしそういうことは、せめて一時間目の担当だった数学教師が教室を出て行ってからでもよかったのではないだろうか。教壇の上から眼鏡をきらりを光らせ数学教師が睨みつけてくる。潤平が睨まれるのはいいとして、京介まで共犯扱いの如くまとめて睨まれている。
潤平は教師からの鋭い視線にはまったく気づかないふうで、早口でまくしたてる。
「いやぁ、昨日死ぬ気で宿題やってたら寝不足でさぁ。これじゃ本末転倒だよなーとは思うんだけど。ま、とにかくノートプリーズ」
京介が了承する前に、潤平は机の上に広げっぱなしになっていた京介のノートをひったくる。そして、直後に目を剥いた。
「きょ、きょーすけ、お前、今日のノート全然とってねえじゃん! 日付だけ書いて止まってるし! どういうこっちゃ、まさかお前も寝てたのか!?」
大声で叫ぶので数学教師がまたしても鋭く睨みつけてきた。京介は慌てて教師の視線から逃げるように体をずらし潤平の体を盾にする。
次の授業の準備のために、数学教師は渋々といったふうに教室を出て行く。京介は安堵の溜息をつきながら、潤平からノートを奪い返す。
「潤平、声大きい」
「わ、悪い……って、いや、今回ばかりは俺が謝る必要はないはずだ。お前が悪い」
「お前も悪い」
両方悪い。
「……いや、ちょっとぼんやりしてて。ほとんど授業を聞いていなかった」
「ははぁ、恋煩いか」
「違う」
迷わず即答したが、潤平はしたり顔で勝手に話を進める。
「解る、解るぜ。受験前だから禁欲を強いられてるんだろ。つらいよなぁ」
「何も解ってないだろ。違うって言ってるだろうが」
「まぁ、合格決まった後にいくらでもいちゃつけばいいさ。だけどノートはちゃんととれよ、俺のために」
「いちゃつかないし、なんでお前のためになんだよ」
授業はぼんやりしていても、ツッコミは怠らない。
潤平が不意に表情を改めて問う。
「まあ、冗談はさておき。お前が授業中上の空なんて珍しい。よっぽどのことがあったとみた。なにか悩み事か」
「まあな」
「朧と喧嘩でもしたか?」
当たらずしも遠からず。潤平から思いがけず鋭い回答が飛び出してきたことに驚き、京介は目を瞠る。
「なんでそう思う」
「いや、昨日、一緒に部屋を出た朧が、途中で『忘れ物したから取ってくる』って引き返したから。あいつ嘘下手だよな、忘れ物ったって、昨日あいつが持ってたのは鞄一個だけで、それはちゃんと持ってたのに……だが、嘘が下手ってのはいいことだ。ふだん正直に生きてるってことだ。まあそれはともかく、どうなんだ。いや、まあお前の反応でだいたい解った。見当違いなら、質問に質問で返さねえからな」
京介は肩を竦める。潤平は意外と注意深く、人の言動を見ているらしい。
「だけど、喧嘩ってのとも少し違うよ。ただちょっと……少々顔を合わせづらい状況になったってだけ」
「ははあ、三角関係か」
「違う」
潤平は時々、鋭いんだか馬鹿なんだかよく解らない考えをしている。
「まー、何があったか知らねえけど、ぐじぐじ一人で悩んでたって仕方ないさ。それより早く復活して俺のためにノートを」
「ノートは自分でとれ……だけど、そうだな、一人で考えてたってどうにもならない」
なぜ朧が契約のことを言い出したのか。進学の話題が出たからだ、と朧は説明していた。昨日は京介もそれで納得しかけた。だが今になって思い返してみると、それだけではないのかもしれない、と思う。その根拠は、強いてあげるとするならば、朧がやたらと自分を責めるような様子で謝ってきたことだ。契約を求めた理由を、どうにも昨日は上手く誤魔化されてしまったような気がするのだ。
やはりもう一度、落ち着いて話をするべきだろう。
「ちゃんと話をしないと……悪い、潤平、早退するから、あとのノートは任せた」
「はぁ!? おい、俺がノートを頼んでるんだよ、なんで俺がノートをとるしかないんだ。おい、きょーすけ!?」
潤平の叫び声を無視して、京介は鞄を片手に教室を飛び出した。




