どこかで狂った歯車(1)
朧と出会い、潤平と出会った、中学二年の冬――それがもう、一年も前のことになる。まだ昨日のことのように鮮やかに思い出せる邂逅の記憶をふと回想し、京介は幸福な微笑みを浮かべる。それに目敏く反応した潤平が、ぎろりと睨みつけてくる。
「きょーすけ! 何にやにやしてんだよ。自分が余裕だからってよぉ!」
「悪い……別に余裕ぶってるわけではないんだけど。俺だって公立行きたいからこれからが本番だし」
一月下旬、受験生である京介たちにとっては忙しい時期だ。去年はとても呑気だった。休日は、仕事さえ入らなければ、魔術の鍛錬か朧と会うか潤平と会うかの三択で、間違っても一日中机にかじりついて勉強漬け、などということはありえなかった。さすがに、入試まで二か月を切った今では、そんな能天気は通用しない。重々承知しているので、日曜日である今日も、京介は部屋でテキストと睨めっこしていた。
そこに、「勉強教えてくれえええ」と半泣きになりながら潤平が転がり込んできた。私立の滑り止めに受かっている京介は本命が県立神ヶ原第一高校であるためまだ気が抜けないでいるが、出願していた私立一般入試をインフルエンザで尽くおじゃんにしたためもう後がない潤平は京介以上に切羽詰まっている。
卓袱台の上に積み上げられた参考書の山。顔を突き合わせてひたすら問題集を解きまくる。京介の方は、潤平が頻繁に「ここ教えて」「なんでこうなんの」「わかんねええええ」と口を挟んでくるのでなかなか先に進まない。
午後三時を少し過ぎたあたり、潤平がその日五十二回目の「わかんねえ」を口にしたあたりで、京介も疲労を感じ始めた。背伸びをして、一旦テキストを閉じる。
「お茶淹れる」
気分転換がてら台所に立つ。ヤカンに二人分の水を注いで火にかける。
と、狙ったかのようなタイミングで、部屋のチャイムが鳴った。
「ん?」
この部屋を訪ねてくる心あたりは片手で数えるほどしかない。京介は一旦火を止めて、玄関に向かう。ドアスコープで覗くと、面白い組み合わせの二人組が立っているのが見えて、京介は目を丸くする。扉を開けると、来客二人がそれぞれに挨拶する。
「よっ、京介!」
「こんにちは、京介さん」
朧と、窪谷美波だった。
カーキのモッズコートを羽織った朧はポケットに両手を突っ込んで寒そうに白い息を吐いている。隣に立つ美波は白いダッフルコートとピンクのマフラーで防寒している。この二人が連れ立ってくるのは珍しいな、と京介は思う。
美波は両手で持った白い箱を軽く持ち上げる。
「兄さんがお邪魔していると聞いたので、差し入れに。そこで朧さんとお会いしたので一緒に来ました」
そう言って目配せすると、朧はにっと笑って、斜め掛けしたショルダーバッグを目で示して、
「京介、勉強は順調か? 三時のティータイムにお茶持って来たぜ、お茶。なんか、勉強に集中できるっていうハーブティーだってさ。お湯沸かしてくれよ」
「今、丁度沸かそうと思ってたんだ。外は寒いから、二人とも早く上がって」
客を招き入れ、京介はヤカンに水を足して火をつける。
台所で準備をする間、美波と朧を先にストーブで暖めた部屋の方に入れる。玄関でのやり取りが聞こえていたようで、潤平がテーブルの上のテキストを片づけながら朧に言う。
「ハーブティーとは、女子力高いな、朧。どこでそんなオシャレを仕入れてるんだ?」
「いやあ。でも俺なんかより美波の女子力が半端ないぜ。ケーキ、手作りだって」
「美波は超絶天才美少女なんだ、とーぜんよ!」
「やめてください兄さん」
照れ隠し、ではなく割と冷たい声で美波はすっぱり釘を刺す。兄に対しては厳しい態度の妹である。
「っし、じゃあ俺も休憩するか。きょーすけ、皿借りるぞー」
ここ最近頻繁に部屋を訪れている潤平は、京介の部屋の台所事情を既に把握している。戸棚を開けて食器を用意する。荷物を置いた朧がティーバッグの用意をしてくれる。勉強会は一気にお茶会になった。
朧が用意してくれた茶葉で四人分のハーブティーを入れて部屋に運ぶと、美波がロールケーキをカットして皿に取り分けていた。クリームの中にイチゴやオレンジ、キウイがたくさん入ったフルーツロールだった。
「これ手作り? すごいな、美波ちゃん」
「ありがとうございます、京介さん」
「器用だよなぁ、美波。お店で売ってるみたいじゃん」
「ふふ、褒めても何も出ませんよ、朧さん」
「さすが俺の妹だな、美波!」
「兄さんは黙っててください」
「俺の扱いだけ酷くない!?」
美波は潤平に対してだけあからさまに態度を変えていた。京介と朧は目を見合わせて吹き出した。
勉強のことはひとまず置いておいて、四人で談笑する。笑いあいながら、京介は目の前に広がる不思議な光景について考える。
奇妙なメンバーだな、と思う。普通の中学生が二人と、ちょっと普通とは言い難い退魔師な中学生が一人と、中学生に見えるけれど中学生ではない妖怪が一人。
きっかけは、京介の部屋に遊びに来ていた朧と潤平がバッティングしたことだ。三年に進級して、京介と潤平は同じクラスになった。そのため、彼と話すことも多くなったし、互いの家に遊びに行くことも増えた。また、美波が中学に上がってきたため、潤平と京介が会うときは美波もついてくることが多くなった。
朧との関係も続いていた。去年の一月に運動公園の事件を二人で解決した後、朧はより親密になって、朧が京介の部屋に来る機会も増えた。
朧と潤平、双方と関わる機会が増えていく中、彼らの遭遇は時間の問題だったと言える。結局、五月のゴールデンティークに、朧と潤平はファーストコンタクトと相成ったのだ。
妖怪はその気になれば人間に交じり、人間を装い生きることもできる。朧の姿は人間と変わらない。朧の姿は、普通の人間の目にも映った。京介が「道場で知り合った友達」といういい加減な嘘の紹介をした朧と、潤平はすぐに意気投合した。そこに美波も加わって、以来、四人で会うことが増えたのである。
人間と妖怪が普通の友達同士になって接している。その光景はとても不思議なものだが、人間と妖怪の仲介役である身としては、心から嬉しく思う景色だ。
「それで、兄さん、受験勉強は捗ってるんですか? レベルの低い質問で京介さんの邪魔をしていないでしょうね」
美波の棘のある問いに、潤平はぎくりと肩を揺らしていた。
「ええとだな、美波、人に教えることは自分の勉強にもなるんだ。つまり俺は積極的に京介の勉強の糧となろうとしているのであって」
「――などと供述しており」
「あ、っこら朧、茶化すなよ!」
「すみません、京介さん、レベルの低い兄さんにつきあわせてしまって」
「美波、どうしてそんなに俺を貶めようとするんだ」
美波と朧の攻撃に、潤平は劣勢のようだった。
「ところでさぁ、冗談抜きできょーすけは俺よりずっと勉強できるのに、なんで第一志望は俺と同じ一高なんだ?」
二人は揃って神ヶ原第一高校を目指している。県内での学力水準は中の上くらい。神ヶ原三中の生徒でいうと、中堅層が目指す高校だ。上位層は市内の他の私立高や、神ヶ原市を出て県央地域にある進学校を目指す。神ヶ原一高を、潤平はかなり無理をして、京介は少しレベルを落として、狙うことになる。
「俺はさー、遠く行くのめんどくさいし、私立は金かかるからダメって親に言われてるからさー。……だから私立の滑り止め落ちたのは結果オーライなんだぜ。どうせ受かってたって行く気なかったから、公立受かんなきゃ浪人決定だ」
こんなところで私立全落ちの言い訳をしなくてもいいのに、潤平はなぜか見栄を張る。すると美波がすかさず、「高校浪人だなんて偉そうに語らないでください」とツッコミを入れた。
「きょーすけならもっと上行けるじゃん。ほら、たとえば……」
潤平が県内でも有数の進学校の名前をいくつか挙げるが、いずれも神ヶ原から遠く離れている。通学できない距離ではないが、県外からも進学してくる生徒が多く、生徒のための寮が学校の傍にあるため、わざわざ通わず寮生活をする生徒の方が多い。
「え、京介、神ヶ原から出てくのか?」
朧が不安げに問う。京介は笑って否定する。
「まさか。俺はそんなに真面目じゃないから。ガチガチの進学校で勉強一筋にやってくつもりなんかないし。だいたい、今潤平が言ったのは全部私立じゃないか。もう入試終わってる」
「きょーすけ、お前も俺と一緒に高校浪人か?」
「しねえよ。というか、潤平が浪人すること前提に話進めるなよ」
実際のところは、神ヶ原市の人間と妖怪の調停役という使命がある以上、神ヶ原を離れるわけにはいかないという事情がある。しかし、それは潤平と美波には話せないことだ。潤平に語った話も嘘ではない。
神ヶ原を出るつもりなどない、のだが、朧がどうにも顔を曇らせている。なにがそんなに気にかかっているのだろうか、と京介は怪訝に思う。どうしたんだ、と視線を向けると、それに気づいたらしい朧がぱっと笑顔を見せる。さっきまで見せていた微かに不安の宿る表情は何かの間違いだったかのように、いつもと変わらない笑みを浮かべる。
それがいかにも取り繕ったもののように見えたのは、どうやら京介だけだったらしい。潤平は気づかずに馬鹿な話を続けている。
「まぁ、俺としては都合がいいけどな。きょーすけが同じ学校なら、試験前に泣きつけるし」
「兄さん、言ってて恥ずかしくないんですか」
妹の辛辣な台詞に、潤平は肩を竦め、朧はからからと笑った。
微かに見え隠れした不安は気のせいだったのだろうか。今度は京介が一抹の不安を覚えていた。




