幸福な日々への追憶(6)
ベッドの上で体を起こしている美波は、頬を紅潮させ俯いている。しかしそれは体調不良のためというより、どちらかというと羞恥のせいであったようだ。
「ご友人を連れてくるなら先にそう言ってください、兄さん! 私ったら、いきなりあんなはしたない言葉を聞かれてしまったではありませんか……」
「大丈夫だ美波。口汚く罵る美波も超可愛い」
「変態ですか」
ぐっと親指を立ててみせる潤平を、美波はすぱんと切り捨てた。
しばらく恥ずかしがっていた美波だが、いつまでも顔を合わせないわけにもいかないと踏んだのか、ゆっくりと顔を上げて京介と目を合わせた。
整った目鼻立ちの美貌は随分と大人びて見えるが、驚くべきことにまだ小学六年生だという。
「ええと、不破さん。どうせ兄が無理矢理連れてきたのでしょう。サボタージュに友達を巻き込むなんて、まったく、兄さんは何を考えているのか……」
「いや、俺も深く考えずについてきたから……いきなり部屋まで押しかけて悪かった」
「不破さんが謝ることではありません。全て兄さんが悪いのです」
「美波、俺はお前が心配でだな。不破は心霊治療師なんだ。お前の謎の体調不良は一発で治ること請け合いだ」
兄の言葉から飛び出してきた胡散臭い言葉に、美波は眉を寄せた。潤平とはまともな話ができないと踏んだのか、美波は困ったような顔で京介に問う。
「あの、兄さんの今の発言は、兄さんがただ馬鹿なだけですか。それとも……」
「俺自身は、心霊治療師なんか自称したことはないんだけど」
「そうですよね。今日の兄さんはいつにもまして頭のおかしなことを言っていますね」
「俺はおかしくない。そんなことより、美波を診てくれ。俺にやったみたいに、すぱーんと解決してくれ」
「無茶言うなって」
言いながらも、成り行きとはいえこんなところまで来てしまったのだ、何もしないで帰るというわけにはいかないだろうとは思っていた。一応潤平には、草壁に因縁をつけられていたところを助けてもらった借りがある。潤平の方は貸し借りチャラだと思っているかもしれないが、京介としては、先日の「二日酔い治し」は自分が溜飲を下げたいがためのただの悪戯であり、潤平を助けようと思ってのことではなかったから、貸しだとは思っていない。
無論、京介に医学的な知識は皆無である。ゆえに、京介は診ることはできない。できるのは、視ること。本来見えるはずのないものを視ることだ。原因不明の体調不良と聞いた時から、心のどこかでは、自分の目で視える何かが原因なのではないかと疑っていたからこそ、ここまでのこのこついてきてしまったような気がする。
スイッチを切り替える。じっと美波を見つめる。美波は恥ずかしそうに目を逸らすが、京介は目を逸らさない。まもなく、京介の目は黒い霧のようなものが美波にまとわりついているのを捉えた。
禍々しくどす黒い色の霧が漂い、美波に絡みついている。それが美波を苦しめていることは疑いようがなかった。黒い霧の正体を、京介は知っている。瘴気だ。自然発生するケースでは、魔力の残滓や妖怪の死骸が集まって不浄の存在となることで、穢れた邪気を放つ。意図的に発生させられる場合だと、犯人は魔術師か妖怪の二択だ。
穢れを好む妖も存在するが、たいていの妖にとって瘴気は毒だ。人間にとっては言わずもがな。ただし、人間は妖怪と違って瘴気を感知できないので、瘴気にあてられると原因不明の不調をきたす。
厭なタイミングだな、と京介は思う。そして、半ば予感を抱きながら問うた。
「もしかして、最近白峰運動公園とか行った?」
美波が目を見開く。
「どうして解ったんです?」
「やっぱり……」
「ええ、確かに、三日前、公園に行きました。思えばその頃からですね、なんとなく調子が悪くなったのは。体が重くて、熱が続いて、時々眩暈もして」
「不破、なんで解ったんだ? 霊視か?」
半分くらい当たっている。やたらと勘が鋭い奴だな、と京介は少し潤平を警戒する。
「ははぁ、読めたぜ、不破」
潤平がにやりと笑う。名探偵が犯人を名指しするかの如く、びしりと京介を指さし、潤平は叫ぶ。
「あの公園は、ザ・呪われた場所だな!? おそらくあの場所で殺人事件が起きて、死んだ女子学生の怨念が留まり美少女な美波に嫉妬して呪いビームを放ったに違いない。心霊治療師の業界では有名なんだろ」
よくもまあ、一瞬でそこまで面白い話をでっち上げられるものだと京介は半ば感心する。想像力が豊かなのは間違いない。しかし妹の方はリアリストのようで、潤平を冷たい目で射抜いた。
「兄さん。私の知る限りあの公園で殺人事件は起きていませんし、だいたいなんで被害者が女子学生と決めつけられているのかまったく意味不明ですし、身内贔屓にしても妹を迷いなく美少女と言い切る感性も気持ち悪いですし、呪いビームとか本気で言ってるとしたら小学生かと疑うレベルですし、心霊治療師の業界ってなんですか兄さんの空想の中だけに存在する異世界ですか」
兄の発言のすべてにツッコみ尽くす妹も驚異的であった。しかし潤平は妹に自説を全否定されてもちっともめげずに笑っていた。
「まー、細かい事情なんてどーでもいいんだよ。俺は美波が元気になればそれでいい。で、どうすりゃ治るんだ、先生」
「誰が先生だ」
潤平がやたらと期待を込めた目で見てくる。思わず目を逸らす。
さて、どうしたものか、と京介は思案する。原因が解ったからには、放置しておくわけにはいかない。しかしかといって、彼らの前で呪符をばら撒いて詠唱を始めるわけにもいかない。
そこで一計を案じる。
「……必要なものがある」
「お、何だ?」
「水。二十リットルくらい。ちょっとそこのスーパーまで走って買ってきて」
「水? ははぁん、浄めの水的なサムシングだな?」
勝手に納得して、潤平は部屋を飛び出す。が、すぐに戻ってきて、京介に釘を刺していく。
「俺がいない間に、妹に色目を使うなよ」
「早く行けよ」
潤平は今度こそ部屋を飛び出して行った。
まったく、今日初めてまともに話した相手の言葉を、よくこうもあっさり信じられるものだ。シスコンのくせに、こんな胡散臭い同級生と妹を二人きりにしていいのか。京介は呆れて嘆息する。
と、美波がベッドの上でくすくすと笑い始めた。
「兄さん、馬鹿ですね。まんまと追い出されてしまって」
どうやら美波は兄より聡明のようだ。京介の思いつきの嘘など見通している。だが、解っていながら潤平に何も言わなかったのはなぜか、京介には解らなかった。訝しんでいるのが伝わったのか、美波は悪戯っぽく微笑んだ。
「兄さんがあなたを信頼しているようですから、私も信じましょう」
「信頼って……今日初めて話したんだけど。どうしてそこまで信じられるのか、解らない」
「兄さんは馬鹿ですけど、人を見る目だけは確かです」
そう言ってから、少し残念そうに溜息をつく。
「まあ、私が絡むと途端に節穴になる目ですが」
「手厳しいな」
「あの極端なシスコンさえなければ、お人好しで優しい人なんですけれど……」
困ったように呟いてから、美波は上目遣いに京介を見る。
「あなたも相当のお人好しで、優しい方と見ました」
「どうして?」
「こんなところまでのこのこついてきたのが、その証拠です」
京介は肩を竦める。お人好しだというのは違いないな、と自分でも思う。優しいかどうかは判断を保留したいところではある。だが、今だけは少し、自分の優しさとやらを信じてみたい気分だ。
信頼されているなら、それに応えなければならないと思う程度には、誠実な人間のつもりだ。
「……睡」
小さく呟くと、美波はぱちぱちと眠そうに瞬きをし始める。やがて瞼が落ち、かくりと力が抜ける。崩れそうになる美波の体を京介がそっと支え、ベッドにゆっくりと寝かせた。
使ったのは相手を眠らせる魔術だ。妖怪相手に使えるほど習熟した術ではないが、普通の高校生である美波には問題なく使えた。
静かに寝息を立てる美波を見下ろし、京介は小さく息をつく。
「さて……あいつが戻ってくる前に、終わらせないとな」
白峰運動公園の問題が持ち上がってから、必要なこともあるだろうと思って、珍しく浄化の魔術を勉強をしておいた。まだ、得意な炎の魔術ほど自由自在に扱えるわけではないが、美波にまとわりついた瘴気を祓うくらいはできるはずだ。
呪符を一枚、美波の体の上に置く。
「穢れを禊ぎて清と為す、不浄を祓いて浄と為す。闇を解き、虚ろなる器を満たせ」
ふわりと部屋に風が吹く。緩やかに渦を巻く風は、美波に取り憑く黒い霧を巻き込んで次第に渦の中心に向かう。そして、渦の中心に置かれた呪符を次第に黒く染めていく。瘴気を美波から引き剥がし、呪符という器の中に封じ込めているのだ。
やがて風が止むと、真っ黒に染まった呪符が一枚、残される。それを拾い上げると、京介は掌の中で燃やし尽くす。後には灰すらも残らない。
美波の様子を窺う。目を覚ます気配はなく、静かに眠り続けている。
彼女はこれで大丈夫だろう。だが、原因である公園の件が片付かなければ、根本的な解決にはならない。朧が懸念した通り人間側にも被害が出ているとなると、そちらの対処を急いだほうがよさそうだ。
京介は鞄から財布を取り出し、千円札を二枚抜き出して、机の上に置いておく。結局水は使わない。潤平と顔を合わせると面倒そうなので、このまま帰ることにする。
時刻を確認する。一時間目の授業はとっくに始まっている。今から遅刻して行くこともできるといえばできる。だが、なんとなくもう行く気がしない。授業をサボるというのは、微かな快感があるらしい。まったく褒められたことではない楽しみを覚えてしまったようだと思いながら、京介は部屋を出て行った。
授業には出ない。しかしさしあたって、置きっぱなしになっている自転車を取りに行かなければならないので、学校には戻らなければならないのだが。




