幸福な日々への追憶(5)
パズルに熱中しすぎたせいで肩が凝ったらしく、朧は大きく伸びをした。蜜柑を食べながら、小休止。
「あ、この蜜柑、超甘い」
目を輝かせてそう呟いた朧は、二口で蜜柑を平らげた。美味しい蜜柑だと解っていたら、もう少し貰っておいたのに、と京介は思った。
「蜜柑って当たり外れあるじゃん? 京介、選ぶの上手いな」
「いや、これは竜胆ばあさまから貰ったんだ」
「竜胆様って、不破家現当主の?」
「そう。昨日、呼び出された時に」
「なにか事件?」
「どうしてそう思うんだ?」
「京介、ちょっと表情変わったから。面倒事を思い出した顔」
「俺はそんなに顔に出やすいかな」
京介は苦笑しながら、昨日竜胆から命じられた仕事の話を掻い摘んで説明した。聞いていた朧が徐々に難しい表情になっていく。
「……怖いなー。あそこの公園って、妖怪も多いし、人間の子どももよく遊んでるところだろ? 妖怪が不調になるくらいじゃ、子どもなんてなおさら大変な気がする」
「そうだろうな」
「謎の瘴気発生事件か……調査はどこまで進んでるんだ?」
「昨日の今日だからまだ何も。何から手をつけるべきか……とりあえず、瘴気をまき散らす可能性のある妖とか、関係ありそうな魔術を洗い出して、瘴気を浄化するための術の勉強まではやったんだけど」
「昨日の今日でもうそこまでやってるのかよ」
朧は感嘆の吐息を漏らす。それから、なにか閃いたようで、横手を打った。
「なあ、明日の放課後、行ってみないか?」
「行くって、問題の公園に?」
「そう。俺も手伝うよ、その調査」
少し悪戯っぽく笑い、朧は言う。
「こういうのもなんだけど、なんだか冒険に行くみたいでわくわくする。もしくは探偵みたい」
冒険や探偵というワードに興奮する気持ちは、解らなくもない。
「俺もいちおー妖の端くれだからな。少しは役に立てると思うぜ」
「心強いな」
「おう、任せとけ」
どん、と胸を叩いて朧は力強く頷く。面倒な仕事を押しつけられたと思っていたが、朧と一緒なら、こういうのも悪くないかな、と京介は思う。
「じゃあ、明日の放課後に」
★★★
執念深い男は見苦しいな、と京介はふと思った。こう言ってしまうと男女差別に聞こえるかもしれないが、ねちっこい女よりねちっこい男の方が、やはり情けないように見えてしまうので、どうしようもない。
粘り強い、と言えば長所のように聞こえるが、目の前の少年は粘り強いのではなく、ただ粘着質なだけだから救いようがない。粘り強いと粘着質の違いはどこにあるのだろう、と考える。
「……生産性の有無、かな」
自分なりの結論をぽつりと呟くと、
「は? 何言ってんだお前」
相手には当然ながら意味が解らなかったようで、ただ苛立ちを煽るだけの結果になった。
草壁はしつこかった。何の根拠があるわけでもないのに、先日、体の調子が悪くなったのは京介のせいだと決めつけているのだ。まあ、実際京介のせいなのだが。いや、正確を期すなら妖のせいだ。京介は問題の妖怪を草壁に押しつけただけだ。間接的には京介に原因があることは間違いないのだが、しかし相手は適当に言ってるだけ、京介が気に食わないからとりあえず適当に理由をでっち上げたくて言っているだけだ。ゆえに、素直に自分のせいですと認めて頭を下げるのは、どうにも納得がいかない。そもそも説明のしようもない。
朝、登校するなり、昇降口で待ち構えていた草壁に捕まった。取り巻き連中にも囲まれ、有無を言わせず校舎裏に案内されてしまった。さすがに、他の生徒が登校してくる中、武力行使というわけにもいかなかったのだ。
「お前がいた時に急に調子が悪くなったんだぜ。だいたい、お前最近調子に乗ってて気に入らねえし、前に顔をやられた時のお返しも、そういやしてなかったよな」
「いや、それは……」
特に最後のは完全に言いがかりだ。殴りかかってきた草壁を避けたら、勢い余った草壁が勝手にすっ転んでコンクリートの地面に顔面からダイブしただけだ。自分で転んだことまで人のせいにされてはたまらない。京介は抗議する。だが、草壁は聞く耳を持たない。
結局、理由なんて何だっていいのだ。ストレスの捌け口にすることが目的で、相手は誰でもいい。たまたま京介が目についただけの話だ。
さて、適当に殴られてやるか、それとも人目につかないのをいいことに反撃に出るか。どの選択が一番面倒がなくていいかと、京介はぼんやりと考える。
「おう、不破ぁ!」
その時、草壁たちの向こうから手を挙げてやってくる男子生徒がいた。草壁たちが一斉に振り返る。京介も相手を凝視する。この状況で、自分に声をかけてくる奴がいるとは思わなかった。
その少年は京介を見て、まっすぐにやってくる。どう考えてもこちらは険悪な雰囲気の漂う現場なのだが、危機感がないのか空気が読めないのか、無防備な笑顔を浮かべてさえいる。
「お前が校舎裏の方に行ったって聞いてな。探したぜ、まったく」
やたらと親しげにそう言ってくる男子生徒は、しかし名前も知らない相手だった。京介は首を傾げる。こいつはいったい誰だ。
「おー、草壁、不破は俺と先約があるんだ。ここは譲りな」
「先約?」
草壁が訝しげな声を上げる。京介も思わず声を出すところだった。先約なんかない。あるわけない。だいたいお前は誰だ。
「じゃ、行くぞ、不破」
少年は勝手に京介の手を引いて歩き出す。京介は呆気にとられて抵抗するのも忘れていた。草壁たちも呆然としている。突然の闖入者に、どう対応してよいか判断しかねるようだった。そうして誰もが手をこまねいているうちに、少年は京介を掻っ攫ってずんずん歩いていく。
昇降口側に戻ったまではよかったが、登校してくる生徒の波に逆らって歩き、ついに正門を出てしまったあたりで、京介はようやく我に返って少年の手を振り払った。
「待て待て、どこに行く気だ! そしてお前は誰だ!」
前を行く少年は振り返ると心外そうな顔をした。
「誰だとはご挨拶だな。お前は忘れたかもしれないが、俺はお前をよーく覚えてるぜ。あの時、お前、俺の方に手を伸ばしてなんかやってたろ。あの不自然な仕草に俺が気づかないとでも?」
にやりと笑ってそう言う少年。少年の言葉を反芻し、京介はようやく思い当たる。
「二日酔いの奴!」
奇しくも、草壁に追及されていた件に関わっていた少年だ。あの時、最初に妖に絡まれていた彼である。
思わず指さして叫ぶと、少年はその覚えられ方に噴き出しながら名乗る。
「二年六組、窪谷潤平。よろしくな、不破!」
潤平と話しているうちに、なんとなく流れで学校から離れてしまっている。明らかに今日の授業をサボる流れになっている。なぜ潤平が「先約」などと嘘をついてまで京介を連れ出したのか。
「学校サボらせてまで、どんな用件だ」
「なんだよ、草壁から上手いこと助けてやったんだから、もっとありがたそーな声出せよ。嫌そうな顔すんなよ」
「そりゃまあ、助かったけど」
草壁の相手をするのがちょうど億劫で投げやりになっていたところであったのは事実だ。波風を立てずに場を濁せたのはよかった。
「ま、俺もお前にこないだ助けられたから。これで借りは返したぜ」
「こないだって、二日酔いの?」
まさか潤平には妖が見えて、あの時自分が何をしたのか全部解っているのだろうか。京介は慎重に探りを入れる。京介が密かに緊張していることなど露知らず、潤平は豪快に笑いながら、
「何が起きたかさっぱりだが、あの時不破が傍にいたし、変な動きをしてたからな。で、俺はぴんときたわけだ。あれが噂に聞くスピリチュアルヒーリングだろ?」
「……」
全然違う。
とぼけているのかとも思ったが、どうやら彼は真面目にそう言っているらしい。鋭いんだか馬鹿なんだかよく解らない奴だ。まあ、わざわざ誤解を解く必要もないし、本当のことは説明のしようがないので、京介は曖昧に笑って言葉を濁す。それを肯定と受け取ったのか、潤平は勝手に話を続ける。
「で、こっからは俺の頼みなんだが。そのスピリチュアルなヒーリングでうちの妹を診てやってくれないか」
「妹?」
「どうも、ここ最近体調がすぐれない。医者にも診てもらったんだが原因不明。一応薬は処方してもらったけど効果なし。そろそろお祓いでも頼もうかと思ってた時にお前が現れた。渡り鳥だ」
「……渡りに船か?」
「そうそれ」
「もしかして、早速その妹とやらのところに向かっているのか?」
「察しが良くて助かるぜ」
潤平は嬉しそうに言うが、京介は彼の能天気さに若干の焦りを感じながら言う。
「いやいや、待て待て。原因不明の症状で臥せってる妹を、病院で精密検査させるならまだしも、会ったばかりのただの子供に診せるのか?」
「ただの子供じゃないだろ、スピリチュアルなヒーラーだろ」
「もし俺のことを本気でそう思ってるなら、そんな胡散臭い奴に診せるのかよ」
「胡散臭くねーよ、俺は治ったから」
「だいたい俺はスピリチュアルなヒーラーじゃないし」
「じゃ、何だよ」
「ただの子供だよ」
「ただの子供じゃないだろ、スピリチュアルなヒーラーだろ」
「本気でそう思ってるなら……駄目だこれ、堂々巡りだ」
京介はこめかみを揉む。完全に潤平のペースに巻き込まれていることを自覚する。
「なあ、不破。俺は藁にも縋る思いなんだ。可愛い妹のためなら、どんな奴にでも頼る!」
「お前……」
「ま、もしお前が妹を治せないなら、詐欺師と見なして殴るけど」
「いや理不尽だろ」
勝手にスピリチュアルヒーラー呼ばわりして勝手に担ぎ上げて、最終的には詐欺師扱いする気か。京介は別に潤平を騙してなどいないのに。
もしかしてこいつは妹のこととなると途端に馬鹿になるシスコンなのでは、という疑惑が、話をして五分で浮上した。それくらい、潤平は解りやすいシスコンだった。
あれこれ言い合っているうちに脚だけはしっかり動かしていたので、とうとう潤平の自宅に到着してしまった。のこのことこんなところまで来てしまって、いったい何をやっているんだか、と京介はペースを狂わされっぱなしの自分に呆れてしまう。
「親は仕事行ってる。学校休んでる妹しかいない。特別に、特別に! 妹の部屋に入れてやる」
「そんな恩着せがましく言うな」
コンクリートブロックの塀に囲まれた深緑色の屋根の家。脇には一台分のカーポートがあるが、今はそこに車は停まっていない。門を開けて、潤平は京介を中に招き入れる。玄関の鍵を開けて、潤平は中に声をかける。
「ただいまー。美波、おにーちゃんが帰って来たぜ!」
すかさず、中から返ってきたのはこんな声。
「――堂々とサボタージュとはいい御身分ですね、兄さん」
京介が聞いた窪谷美波の第一声は、兄に向けられた棘だらけの言葉だった。




