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幸福な日々への追憶(4)

 一月下旬某日。夕方になって、竜胆からメールが来た。曰く、『午後八時、屋敷に来い』とのこと。拒否権の存在しない招待状だ。手早く夕食を済ませ、明日までの宿題を終えると、京介は竜胆邸へ向かった。

 やたらと広い敷地に建つ、一人暮らしにしては大きすぎるくらいの二階建て家屋。石造りの門を抜けて砂利敷きの庭を進む。竜胆が居間で待っているらしい、ということは、障子越しに漏れる灯りで解った。

 中学に上がるまでは暮らしていた家だ。インターホンを鳴らすが、返事は聞かないまま上り込み、迷わず居間に入る。竜胆は、座椅子に座ってこたつにあたっている。いつ見ても、還暦近い年齢には見えない若作りだ。

「やあ、よく来た、京介。まあ座りな。話したいことが、割とたくさんある」

「仕事か?」

 問いながら、座布団の上に正座する。こたつには、ほんの少しだけ脚を入れさせてもらう。

「いや、仕事ではない。まあ、面白い話だ」

 そう話す口元が緩んでいる。面白い、というのは嘘ではなさそうだ。もっとも、竜胆にとって面白いことは間違いないとしても、京介にとって面白いかどうかは不明だが。

「まず一つ目だけど。揚羽という妖を覚えているか?」

「ああ……二週間くらい前に墓場で暴れていた彼女か」

「そうそう。某魔術師を運命の王子様呼ばわりしていた超面白ロマンティストの彼女」

「……」

 運命の王子様呼ばわりされた某魔術師は思わず渋面になる。

「彼女ね、ついこないだの街コンで花見塚地区のイケメン妖怪を捕まえていたよ。『この方が私の運命の王子様に違いないわ!』って叫んで、店のホール担当が度肝を抜かれたって話」

「あいつの運命安いな!」

「これで彼女が過去の王子様を求めて発狂する心配もないということだ。よかったな、京介」

「まあ……うん、でも比較的どうでもいい情報だな、それ」

「私もそう思う」

 この話をしたのは、ただ京介を弄りたかったからに違いない。京介は竜胆をじとりと睨み、さっさと実のある話をしろと急かす。竜胆は肩を竦め、

「二つ目の話。整骨院で働いている私の知り合いの受付嬢がな、神ヶ原三中の生徒が『なんだか体がものすごく重いんです』って青白い顔で施術を受けにきたと言っていたよ。『三中っていったらお孫さんの通ってる学校ですよね? 石みたいな妖がちょろちょろしてるかもしれないから気を付けるように伝えてください』だとさ」

「……へえ」

「その生徒の名前もついでに聞いたんだけど、私の記憶が正しければ、そいつは小学校もお前と一緒で、ことあるごとにお前にちょっかいをかけていた奴だった気がする」

「……ほう」

「私が何を言いたいかもう解ると思うけれど」

 竜胆は、できの悪い子どもにがっかりするかのように溜息をついた。

「何を生温いことをやってるんだ。やるならもっと手酷くやってやれ」

「その台詞はさすがに解んなかった」

 てっきり説教されるのかと思いきや、想像と百八十度違うことを言われてしまった。竜胆は忌々しげな表情で語り執念深さを露呈する。

「私は覚えているぞ。あのしつこいクソガキ、お前を追っかけてうちまで来て、庭に泥団子を投げ込んだ奴じゃないか」

「よくそんなこと覚えてるな。俺でも忘れてたのに」

「ちょっと体が重くなる程度じゃ甘い、石抱の刑に処せ!」

「中学生に拷問を提案するなよ」

 思わずツッコミを入れてから、それにしても学校でちょっと魔が差した程度の悪戯まで筒抜けてしまうとは、不破家当主の情報網恐るべし、と京介は小さく身震いする。

「さて、最後の話だ」

 そこで竜胆は、今までよりもいっそう愉快そうににやにや笑い、

「お前、友達ができただろ」

「ぅぐ」

 予想していなかったところから切り込まれて、思わず変な声が出た。明らかにからかい調子の竜胆のせいで、京介は恥ずかしくなって頬に朱が上る。

「まー、できれば人間の友達をそろそろ作ってほしかったところだけれど、贅沢は言うまい。放課になるや意気揚々と学校を飛び出して会いに行く相手ができたのだから、人付き合いのド下手なお前にしては上々の成果だ」

 京介の放課後事情はどこまで筒抜けているのだろう。もしかしたら彼女は千里眼かもしれない、と本気で疑ってしまった瞬間である。

「私は基本的に放任主義だから、お前が誰と付き合おうが、それこそ相手が人間だろうが妖怪だろうがどーでもいいし、人間と妖怪の橋渡しをするのが役目である不破の人間としては、妖怪と縁があるのは歓迎すべきことかもしれない。だけど、妖怪と付き合うならそれなりに注意しろよ」

「注意? それは具体的にはどういう?」

「あぁん? そんなの、あれだ、いろいろだ」

「……」

 基本的に竜胆の教えは参考にならない。これは昔から変わることのない真理である。

 テーブルの上の、急須とマグカップが載った盆を引き寄せ、竜胆は茶を用意し始める。大雑把な計量で茶葉を急須に放り込み、傍らのポットから湯を注ぐ。竜胆愛用のマグカップは黒猫の絵が描かれていて、取っ手が猫の尻尾を模している。緑茶だろうが紅茶だろうが、何を飲むにも使うマグカップに、緑茶を注いで、がぶ飲みする。勿論、京介の分はない。最初から最後まで、彼女の言動は絶妙にいらっとくる。

「ま、というわけで、私の面白くてありがたい話は以上だ」

「特にありがたくはなかったけれど……」

「続いて、ありがたい仕事の話だ」

 結局仕事の話もあるのかよ、と思いつつ、京介は表情を改める。竜胆の放つ空気が変わった。悪戯好きのマダムから、品格ある司令塔へと、雰囲気が一変する。

「白峰運動公園を根城にしている妖どもが不調を訴えている。縄張りのボスである鈴懸スズカケという女妖怪が、『人間どもの工場の排気のせいだ、断固抗議する!』と騒いでいる」

「あの近くに、そんなに排気の酷い工場があったかな」

「ないよ。現地を軽く調査したけど、あれは排気のせいじゃない。誰かが瘴気をまき散らしてる」

「瘴気……」

「妖怪か魔術師か……今まで問題がなかったのに最近になってこのざまってことは、自然現象ではない、元凶がいるはずだ。鈴懸は頭に血が上って、人間のせいじゃないって言っても信用しない。京介、お前は問題の元凶を調査し、処理しろ。鈴懸の抗議デモには私が待ったをかけておくからなるべく早急に」

「デモを起こす気でいるのか」

「ああ」

 竜胆は心底疲れたような表情で頭を抱える。

「運動公園の近隣に工場はないっていうのに、いったい誰に抗議してデモをする気なのか。『人間』とひとくくりにされて大事にされたら揉み消すのが面倒だ」

 あー面倒だー、とぼやきながら、竜胆は茶を啜る。退屈してきたのか、畳の上に放り出してあったリモコンを取ってテレビのスイッチを入れ適当にザッピングを始めた。どうやら話は終わりらしい。

「帰るよ、竜胆ばあさま」

「廊下の蜜柑、持っておいき」

 廊下に出ると、箱買いしたらしい蜜柑があった。一人で食べるにはいくらなんでも多すぎるんじゃないかと思える段ボール箱を見て、少し考えて、三つ貰っていく。

 美味しい蜜柑を恵んでくれたのか、酸っぱい蜜柑を押しつけたのか。食べてみてのお楽しみである。


★★★


「ねえ、京介。正義の敵は何だと思う?」

 朧は真面目な顔で問う。突然の問いに京介は面食らう。

「俺はな、思うんだ。正義の敵は悪だとか、現実はそんな単純じゃないだろうって。正義の敵は、別の正義なんだって。見方を変えれば、正義とか悪とかは簡単にひっくりかえる。誰かにとっての正義は、誰かにとっては悪で、その逆も当然あって……いろいろ、難しいと思うんだ」

 そんなことをぽつりぽつりと語る朧をじっと見つめ返し、京介は応じる。

「確かに、朧の言うとおりだと思う。ただ……」

 朧の手元をちらりと見る。

「……クロスワードの答えにそんな哲学は求められていないから、答えは『悪』でいいと思うけど」

「あ、やっぱり?」

 朧はにっと笑って、シャーペンを走らせマス目を埋める。「ア、ク……あ、これで合ってそう。難しく考えるんじゃなかった」と、どこまで本気なんだか冗談なんだか。

 時刻は午後三時を回った頃。アパートの部屋で二人は顔を突き合わせて、テーブルの上には雑誌を広げている。朧はパズル雑誌の懸賞に応募するのが趣味だという。今まで幾枚もの応募ハガキを投函してきた百戦錬磨の朧だが、当たったことはないらしい。

「少し前にさ、パズル雑誌界隈では割と大手の出版社がインチキやってたじゃん」

「ああ……そういえば」

 二、三週間前にネットのニュースで見た内容を思い出しながら、京介は頷いた。

「あれだろ? 一万人に当たりますって言って、実際にはその半分くらいにしか商品を発送してなかった奴」

「そうそれ。俺、あそこが出してた雑誌に気合入れて応募しまくってたんだよ。ちょっとショックだったなぁ」

「当たると、何が貰えるはずだったんだ?」

「いろいろだけど、俺はあれが一番欲しかったんだ」

 朧は有名なボードゲームの名前を口にした。

「でもさ、よくよく考えたらあれ、一人じゃできないんだよな。いや、やろうと思えばできるけど……」

「できるだろうけど、それは……」

 その光景を思い浮かべて、京介は苦笑する。

「それはちょっと、寂しすぎる光景だな」

「だよなあ。一人で延々とぶっ続けでルーレット回して? 虚しいな」

 言いながら朧は自分でも笑う。

「猫が相手じゃルーレット回してくれないもんな。けど、もうだいじょーぶだ。もし当たったら、京介、一緒にやろう」

「ああ」

 頷きながら、京介は考える。もし当たったらなどと言わずに、この殺風景な部屋にボードゲームの一つくらいおいてもいいかもしれない、と。

「けどさ、二人じゃいまいち盛り上がんないから、その時は京介、学校の友達とか誘ってくれよな。俺も妖怪仲間を紹介するからさ」

「自分で言うのもあれだけど、俺に学校の友達なんているように見えるか?」

 京介が肩を竦めてそう言うと、朧は「だいじょーぶ」と、やたらと自信ありげに請け合った。

「優しい奴には優しい友達ができるんだぜ? 京介の周りにはきっと、優しい人が集まるんだと思う。すぐにいい友達ができるさ」

「俺は優しい、か?」

「会ってまだ二週間くらいだけど、それでも俺はそう思った。だから安心しろよ」

 京介は自分の優しさとやらに自信がない。

 だが、自分の代わりに朧が信じてくれるなら、少しだけ、自分でも信じていいのかもしれない。

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