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幸福な日々への追憶(3)

 翌朝、登校前の忙しい時間に電話がかかってきた。相手が竜胆だと解っている以上、無視するわけにもいかない。京介は食パンを齧りながらケータイを取った。

 聞こえてきたのは、朝っぱらから活気が溢れている竜胆の陽気な声だった。

『おはよう京介、昨夜はご苦労様。魔術師中央会に揚羽と名乗る女妖怪から問い合わせが来ているぞ。運命の退魔師様にふられたんですがどうすればいいですか、だとさ』

「……」

 竜胆の明るい声とは対照的に、京介は気が重くなった。衝動的に電話を切ってしまいたくなったが、なんとかこらえた。

『丁度電話に出たのが、彼氏いない歴イコール年齢の高峰蓮実という私の知り合いだったんだが、その関係で私に愚痴を零してきたんだ』

「……なんて回答したんだ」

『「次の出会いを探してください。そうそう、今度神ヶ原の妖怪を対象にした街コンがありますよ」ってな具合に投げやりなコメントをしたそうだ』

「街コン……」

 そんなのがあるのか。

『まあ、これで彼女も次の恋を探して大人しくしてくれるだろう。中央会からは感謝のコメントと、「彼氏いない歴イコール年齢の私を馬鹿にしているのですか」という苦情が寄せられているよ』

 仕事の話をするのかと思って、多少の苛立ちには目を瞑って聞いていたが、そろそろ限界だ。こっちはこれから学校に行かなければならないのだ、話は単刀直入にしてほしいし、もしも話が京介をからかうことだけなら、それなりの対応をしてやるところだ。

「竜胆ばあさま、話がそれだけなら、俺はもう登校する」

『おいおい、折角の朝の談笑タイムをそう無下に……』

「切る」

 宣言してから、電話を切った。

 とりあえず、しつこくコールしてくることはなかった。やはりたいした用事ではなかったらしい。京介は鞄を肩に引っかけ、部屋を出た。

 自転車を飛ばして、十分ほどで神ヶ原三中に到着する。生徒たちの波に流されるように駐輪場に向かい、自転車を停める。手はすっかり冷たくなっている。この時期、教室ではストーブがつけられている。早く教室で温まろうと、京介は足早に校舎へ歩き出した。

 昇降口で、少し緊張しながら下駄箱を開ける。幸い、今日の上靴は無事らしい。小さく安堵の溜息をついて靴を履き替える。目の前の階段を上がって、二階の教室を目指す。

 と、階段の途中で立ち止まっている男子生徒の背中が目に入った。手すりに縋りつくようにして、気分が悪いらしく項垂れている。

「うう……体重い……二日酔いかぁ?」

 中学生としてはありえない発言である。ぱっと見た感じ、飲酒をたしなむような不良少年には見えないので、今のは彼のジョークなのだろう、と結論付ける。

 よく見ると、背中に灰色の石みたいなものが乗っかっている。男子生徒には見えていないだろう。それは、妖だった。人間に取り憑き、石のように重くなる、いわゆる子泣き爺に似た系統の妖だろう。

「困ッテル……ケケケ……」

 ちょっとした悪戯のつもりらしい。この程度の悪戯を仕掛けてくる妖はごまんといる。京介が今まで見てきた中では、可愛らしい部類に入る。

 放っておいてもさして害はないだろうが。

「……」

 後ろから見ても、男子生徒が顔色を悪くしているのが解る。さてどうしようか、と京介が迷いながらゆっくり階段を上がっていると、後ろから声がかかった。

「よぉ、不破ぁ」

 あまり顔を合わせたくないタイプの相手だな、というのは声の調子ですぐに解った。こちらを見下して、嘲笑う色を大量に含んだ声だ。渋々ながら振り返ると、何人かの男子生徒がにやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべながら歩いてきた。

「昨日は大変だったんじゃないか? なーんか、靴が汚れてたみたいだけど?」

 くすくすと重なり合う嘲笑。成程、彼らが犯人か。自分たちから明かしてくるのは、まあ、証拠がないのと、どうせ仕返しなんかできないだろうと高をくくっているから、といったところだろう。子どもじみた浅はかさだな、と思う。まあ、実際中学生なんてガキなんだからそんなもんか、とも。

「それがお前たちに、何か関係あるか? 心配してくれるような仲でもあるまいに」

 ついつい挑発じみたことを言ってしまうのも、自分がまだまだガキだからだな、と京介は自嘲する。自嘲はするけれど、自重はできないので、無駄な怒りを買ってしまう。

 大柄な男子生徒が不愉快そうな顔で前に出る。クラスメイトだ。名前は確か、草壁。冬休み明けの席替えで彼が前の席になってしまったせいで授業中に不愉快な目に遭わされることもしばしば。

「調子に乗るんじゃねえぞ。何考えてるか解らない変人のくせに。勉強できるからっていい気になるなよ」

「ああ……」

 合点がいった。この学校では試験があるたび、学年上位二十人までは廊下に貼りだされるのだ。先日、冬休み明けに行われた定期考査の結果が出て、上から二番目に京介の名前があった。そして草壁何某君の名前は、確かその五つくらい下にあった。

 この結果から得られる結論は、学年十本指に入る成績優秀者でも性格がいいとは限らない、ということである。彼の行動原理の中には歪んだ嫉妬も交っているらしいというありがたくもない新発見をしてしまった。

「だいたいお前は……」

 まだ何か言いたいことがあるらしく声を張り上げようとした草壁だったが、丁度その時、階段下の廊下を教師が通り過ぎた。階段を下りてすぐ左手には職員室があるのだ。騒がしく言い合うのに適した場所ではなかった。

 彼もそう気づいたらしく、聞こえよがしに舌打ちをすると、仲間を引き連れて階段を上がって行った。勿論、通り過ぎる際に京介に肩をぶつけてくるのも忘れない。

 その時、京介は、彼にしては珍しく、子どもじみた悪戯を思いついた。ここのところストレスフルな日々が続いていたので、まあなんというか、魔が差したのだ。

「うっ? なんだ、なんか調子が……体が重く……?」

 草壁が唸る。と同時に、手すりにつかまって項垂れていた男子生徒が、

「お、なんか調子戻ってきた。酒が抜けたようだな」

 彼流のジョークをぶつぶつ言いだした。男子生徒はぱっと顔を上げて、突然体調不良を訴えた草壁と、それを心配そうに見る取り巻き連中、そして京介を順々に振り返ると、首を傾げ、それから足取り軽く階段を上がって行った。

 京介は草壁の脇をすり抜けて先に階段を上がっていく。ちらりと視線をやると、草壁の肩には石のような妖怪がしがみついている。名も知らぬ男子生徒の肩からつまみあげ、代わりに草壁のほうに押しつけたのだ。

 男子生徒は回復し、妖怪は問題なく悪戯を続行し、京介は少しだけ胸がすく。一石三鳥だ、と京介は軽い気持ちで考えていた。

 ――まさかこの小さな悪戯が後々まで影響してくることになるとは、京介は夢にも思っていなかったのだ。


★★★


 放課後、京介はアパートには戻らず、自転車に乗ってとある場所に向かった。

 それは、昨夜も訪れた如来寺である。夜に一悶着あった墓地をそっと覗くと、そこにはもう揚羽の姿はなかった。大人しく自分の住処に帰ったか、街コンの準備をしに行ったか。なんにせよ、ここで幽霊目撃談が浮上することはもうないだろう、と結論付ける。

 今日はその確認と、もう一つ確かめたいことがあってここへ来た。京介は墓地には入らず、敷地の外側をぐるりと回り、東側の門の前に自転車を停めた。門をくぐると、すぐに寺の建物が正面に構えている。寺の前には車が一台も止まっていなかったから、今日は法要の予定は入っていないらしい。敷地内は静かだ。

 知る人ぞ知ることだが、如来寺は本堂の縁の下に猫が何匹も出入りしている。住職が飼い慣らしているのか、はたまた野良猫の溜まり場になっているだけなのか。なんにしても、猫の姿を見ない時はないというくらい、猫が大勢いる。

 昨日、揚羽を襲い京介を助けることになった猫も、ここの猫だろう。だが、あれはあまりにもタイミングが良すぎた。その理由を確かめるために、ここに来たのだ。

 本堂入り口前の木造の階段に腰かけて、猫と戯れる少年がいた。

 中学生くらいの年齢に見える少年で、ねこじゃらしを片手に白猫を手なずけている。その白猫は、昨日の猫のようだった。

 京介が歩いていくと、少年は顔を上げ、にっと白い歯を見せて笑った。

「やあ。君も猫と遊びに来たのかい?」

「いや、お前に会いに来た」

「俺に?」

 昨日の猫は、狙ったかのように乱入してきた。だが、あの猫は普通の白猫だ、京介の危機など解るはずもないし、京介を助ける義理もない。だとすれば、誰かが手引きしたに違いない。少年を見て、確信に変わった。

「昨日はありがとう。猫と喋る力でもあるのか?」

 人間の姿をした彼は、しかし妖だった。

 少年は悪戯っぽく笑う。

「あの揚羽ってひと、最近ここによく来て、ちょっとやりすぎてた感じだったからさ。猫に手伝ってもらった。君が来て、揚羽に隙を作ってくれてよかった」

「まあ、俺が元凶みたいなものだったんだけど」

 揚羽と京介の会話は聞いていたらしい、今の台詞だけで理解できたようで、少年は声を上げて笑った。

 屈託なく笑う少年だった。暗がりを好む妖もいるが、彼はそれとは真逆、明るい場所に棲む、陽だまりのような妖だった。

「君、結構強かったよね。名前は?」

「不破京介」

「驚いた。不破の退魔師か」

「知ってたのか」

「有名人だからね、名前だけは」

「サインやろうか」

「いらね」

 京介の冗談にくすくすと笑いながら、少年は名乗る。

「俺は朧。よろしくな、京介」


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