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幸福な日々への追憶(2)

 警邏中の警官に見つかったら間違いなく補導されるような時刻に、京介は自転車を飛ばした。まだあどけなさを残す中学生の顔を見せないようにとフードつきのコートを着てみたのだが、なんだか不審者じみて見えてかえって職質を受けそうな風体になってしまった。まあ、見つからなければいいだろう、と開き直り、目指すは神ヶ原市南部にある天台宗如来寺である。

 空には雲がない。冬の空は星が綺麗に見えた。星座に詳しくない京介でもオリオン座くらいは知っている。オリオンはギリシア神話に登場する狩人だというが、これから妖怪狩りに向かう京介も狩人と言っていいのだろうか。いやしかし、今の自分はやっぱり不審者にしか見えないだろうな、と京介は自虐的なことを考える。

 キィッ、とブレーキをかけて片足を地面につく。墓地の入り口に着いた。軽く体育館六個分くらいはありそうな広い土地は、京介の膝くらいまでの木柵で囲まれているだけで、しかも入口の門はいつでもオープン状態だ。誰でも簡単に忍び込める。まあ、忍び込んだところで、近くに民家はないので誰かに見咎められることもないだろう。

 南側の門から入ると、左半分には墓石が立ち並んでいるが、右半分はまだ何もない芝生状態で、土地がまだまだ有り余っている様子が窺える。入り口からまっすぐ伸びる砂利道は途中で何本にも枝分かれして、それぞれの家の墓の前まで導いてくれる。砂利道を直進すれば、道は右側にゆるやかにカーブしていく。そちらへ行くと、道はやがて左右を森に囲まれ鬱蒼としてくる。昼間でも薄暗く物騒な雰囲気の場所を越えればその先に寺があるのだが、寺に用があるなら墓地内の道を通らなくても、最初から東側の門から入ればすぐである。

 今回用があるのは寺の方ではない。竜胆は墓場が現場だと言っていた。京介は道の端に自転車を停める。

 フードを外し、視界を広げて墓地を見回す。かさかさと風が草木を揺らす音がかすかに響く。足音は自分のものだけ。墓地の前の道に立つ街灯は切れかかっているらしく、不規則な点滅を繰り返している。解ってはいたことだが、夜の墓場など、そう気分のいいものでもない。幽霊が出てもおかしくない雰囲気だ。

 はたと気づく。相手が本当に幽霊だった場合の対処はどうしようか。京介の専門は妖怪相手のトラブル解決だ。幽霊は残念ながら専門外だ。

 こうなったらいっそ、相手が妖怪であるように祈ってみようか。冗談交じりにそんなことを考えながら、京介は砂利道を歩いていく。

 ぴちゃん、と水の滴る音がした。反射的にそちらを振り返る。そこにあるのは水汲み場だ。水汲み場の脇には木桶と柄杓が並んでいる。そこに紛れるように、人影があるのが見えた。

 真夜中だというのに、相手の姿はうすぼんやりと光り、闇の中に浮かび上がって見える。蛍光素材の服を着ているのでなければ妖だろうな、と適当に考える。

 相手は赤いワンピースの女だった。髪が長く、前髪で瞳を隠していて、袖から伸びる手は青白い。その姿を、じっと凝視する。京介は人間と妖を見極める眼を持っている。ふだんはその特殊な視力を抑えていて半分も力を使っていない。だが、妖怪かどうかを判断するだけなら、抑えている力をわざわざ解放する必要もない。一目見れば解った、やはり相手は妖怪だ。

「ここで何を?」

 なるべく柔らかい声音で問うてみる。女は首を傾げ、

「人を、待っているの」

「こんな時間に、誰を?」

 詳しく話を聞こうとした時、ポケットの中でケータイが震えた。メールのようだ。こんな時間に、誰が。いや、どんな時間だろうが京介のケータイにメールを寄越すのは竜胆くらいしかいない。哀しい話だが、祖母からしか連絡が来ないのが現実である。

 厭な予感がする。女が呟く。

「ああ、来たみたい」

 京介はケータイを開いて素早くメールを確認する。

『Title:仕事の件

 追加情報。墓地の妖怪は昼間にわざと姿をさらして騒ぎを起こし、対処に来た魔術師を襲う作戦らしい。既に何人か退魔師が返り討ちになっているらしいので要注意』

「――絶対わざと黙ってただろこれッ!!」

 竜胆の露骨な悪ふざけに怒りをぶつけるのと、地面から白い腕が生えてきたのは、ほぼ同時だった。

「げっ」

 明らかに人間のものではない青白い腕が二本、土の中から突き出してきて、京介の足を掴んだ。腕の細さからはおよそ考えられない怪力で、痕が残りそうなほどに強く掴まれ、動きを封じられる。ぼこ、ぼこっ、と鈍い音がすると、更に二本、三本と腕が伸びて京介の体に巻き付いてくる。これはちょっとしたホラーだ。予備情報がなければ悲鳴くらい上げていたかもしれない。

「焔々現界」

 相手が妖怪なのは解っていた。不意打ち上等。悲鳴の代わりに咆哮を上げる。京介は呪符を放った。

「焼却せよ!」

 京介を中心に炎が巻き起こり渦を巻く。取りついてきた異形の腕を焼き払い、燃やすものがなくなると早々に鎮火する。火焔の術は京介の十八番。腕の二本や三本、五秒もあれば消し炭にできる。

 女は興味深げに、唇に笑みを湛える。

「ふぅん……今までの退魔師よりは、骨がありそうね」

「何が目的で退魔師を誘き寄せ襲っていたかは知らないが、これ以上問題を起こさないって言うなら見逃してやる。まだやる気なら、悪さができない程度まで痛めつける」

「そう。じゃあ、折角だから、私の目的、聞いてくれる?」

 女がふるふると首を横に振り、目にかかる前髪を煩わしげにのけた。露わになった素顔は、不気味な腕とは対照的に、決しておどろおどろしいものではなく、普通に歩いていれば普通の人間に見える、若い女の顔だった。

「私、人を探しているのよ。そのために、退魔師を待っていたの」

「探し人は魔術師なのか」

「さあ、解らないわ。でも、魔術師なら何か知っているかしらと思って、誘き寄せたの」

 誰だか解らない相手を探して騒ぎを起こす女妖怪は、揚羽アゲハと名乗った。

「けれど、私が何か聞こうとすると、なぜか引かれてしまうのよ」

「そりゃあ……」

 真夜中にぼんやり光る赤いワンピースの女が前髪で顔を隠して、「あのぅ……」などと言いながら手を伸ばして近づいて来ようとしたら、そりゃあ引く。魔術師であっても、その不気味さに引く。

「でも私、どうしても聞きたいことがあって……けれど私、足はあまり早くないから、逃げられたら困ると思って、手を伸ばして捕まえたの」

「それ完全にアウト」

 そんなことをしたら聞けるものも聞けないだろう。いきなり地面から腕が生えてきてがっしりホールドしてきたら、死に物狂いで逃げたくなるのが人情だ。

「私、ただ人を探しているだけなのよ……」

 京介は頭を抱える。こいつただの天然だ。なぜこんな天然女妖怪相手に退魔師たちが続々と負傷しているのか。もしかして返り討ちに遭ったという退魔師は、ただビビッて自滅しただけではなかろうか。

「ねえ、どうしたらいいのかしら。あなた、一緒に考えてくれない?」

「どうしたらって言われても……」

 困惑気味に頭を掻く。人探しは、京介の得意とするところではないのだ。できるアドバイスは、必然的にあたりさわりのないものとなってしまう。

「相手が魔術師だって解ってるなら、魔術師中央会が神ヶ原の魔術師を把握してるから、そこに照会かけてみるとか……それか、神ヶ原第一高校旧校舎に棲んでる妖怪連中がやたらと情報通だった気がするから、訊いてみたらどうだ」

 思いつく限りのことを言ってから、

「とにかく、今の方法は駄目。絶対NG。騒ぎになるだけで進展しない」

「あうぅ……」

 私ったら駄目ね、などと言って、揚羽は自分の頭をこつんと叩く。第一印象の不気味さとは打って変わって、思いのほか可愛らしい仕草もする奴らしい。

「うん……そうね、違う方法で、頑張ってみるわ」

「ああ、そうしてくれ」

 思いのほかすんなりと話が通じる相手だったことに安堵する。

「それにしても……どこにいるのかしら、私の運命の人」

 突然飛び出してきたロマンティックな言葉に思わず咽かけた。

「え? え、なに? 運命の人?」

「そうなの。あれは十二月のこと……私は神ヶ原駅近くの和菓子屋さんの前を歩いていたの。真冬の寒さに震えながら川に差し掛かり橋を渡り始めた時、突風が吹いて、私のマフラーを吹き飛ばしていったわ。飛んでいくピンクのマフラーは、風に流され私の手の届かないところへ……そして、川に落ちてしまったの」

 その光景を想像してみる。なんとなく既視感があるな、と思う。

「私は寒空の下、震えながら歩いたわ。その時、折よく商店街の衣料品屋の前を通りかかったのだけれど、その時の私はお財布を持っていなかったから素通りせざるを得なかったわ。その時、私を呼び止めたのが運命の人。私はそんなに妖力が強くないから、普通の人間にとってはとても存在感が薄くて、目には留まらないはずなの。だから、たぶんその人は魔術師だと思うのだけれど。その人はさっとお店の中に入っていくと、ピンクのマフラーを買って私にくれたの。『なぜくれるの』って訊いたら、その人は笑って『くしゃみが聞こえたから』って……私はその瞬間、胸打たれてしまったのよ」

「へえ……」

 聞いていながら、京介は気もそぞろだった。

「名前も名乗らず颯爽と去って行ったあの方。もっと顔をよく覚えていればと、悔やまれてならないわ。後光が差していて眩しくてお顔がよく……って、あら?」

 うっとりと回想に耽っていた揚羽がちらりと京介を見る。じっと見る。つかつかと歩み寄ってきて、京介の顔を両手で挟んで凝視した。氷のように冷たい手に触られてぞくぞくと鳥肌が立った。

「あなた、どこかで見たことが」

「き、気のせいじゃないかな」

「よくよく聞くとその声」

「じゃあ、俺、そろそろ帰」

「私の運命の人!!」

 ついにばれた。

 揚羽は京介に抱きつき、勢い余って押し倒してきた。背中を地面に強かに打ちつけるが、揚羽は構わずのしかかる。

「ちょ、待て、どけ、どいてくれ揚羽」

「最初からそう言ってくださればよかったのに! ああ、私の王子様!」

「やめろそのこっぱずかしい呼び方!」

 話の途中から京介は冷や汗をかいていた。まさか十二月のことをまだ覚えていて、自分を探してこんな騒ぎを起こしていたとは露とも知らなかったのだ。

 あの時は、ちょうど前を歩いていた彼女がマフラーを吹っ飛ばされるところから目撃していて、寒さのあまりくしゃみを連発し、とぼとぼと歩いていく彼女を放っておけず、ついマフラーを買ってしまったのだ。せめて自分の目の届く範囲でくらいは、自分にできることをしようと思ってのことだったが、それがこんな騒ぎにつながるとは。

「あのっ、あのっ、よかったらこのあと一緒にお茶でもいかが?」

「いや帰る、俺はもう帰る!」

「そんなつれないことを言わないでぇぇ」

 ギブアップ、というように地面をばたばたと叩くが、揚羽の目には入らないようだ。恋する乙女は盲目らしい。しかし残念ながら、腕が二本より多い女性は恋愛の対象外である。京介は強引なアプローチを仕掛けてくる揚羽からどうにか逃げようともがく。

 その時、にゃぁっ、と猫の鳴き声がした。ぱたぱたと小さな足音が近づいてくるなと思ったら、茂みから飛び出してきた白猫が揚羽の顔に飛び掛かった。

「きゃっ!?」

 悲鳴を上げて仰け反る揚羽。その隙に、京介は這いつくばるようにして揚羽から逃れる。ぜえぜえと息切れしながら立ち上がり、猫と格闘する揚羽に一方的に別れを告げると、自転車に跨って走り出す。後ろから「運命の人~」と叫ぶ声が聞こえたので、「諦めろッ!!」と叫び返した。

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