幸福な日々への追憶(1)
急に何もないところを見て表情を変えたり、誰もいないところでぶつぶつと喋ったり、そんな奴がいたら、そりゃあまあ気持ち悪いだろう。京介自身だってそう思う。気味悪がられることをしている自覚はあった、ものすごく。だが、人のシューズを泥水塗れにする神経の方がよっぽど気持ち悪いし気味が悪いんじゃなかろうか、とも思う。ついでに言うと、小学校時代の奇行を中学に上がってまでしつこく引きずってくる神経もどうかと思う。
妖を視る能力の制御は、中学二年の冬ともなれば、いい加減修得している。ただ、小学生の時は今ほど完璧には制御できなかったし、異形の姿をした妖に対しても耐性がついていなかったものだから、そのへんをうろちょろしている妖怪を見るたびにいちいち驚いていた。そのせいで周りからは完全に問題児扱いされた。
貼られたレッテルは、控えめに言っても「かまってちゃん」で、もっと遠慮のないものだと「変人」「化け物」といった具合だ。これはそこそこ傷ついた。
その上、そういうレッテルを貼られた人間というのはえてして標的になりやすい。思春期の少年少女というのは、なにかにつけてターゲットを見つけて、見下し、差別し、排除したがるものだ。正面切って殴りかかってくるなら返り討ちにするだけなのだが、持ち物に悪戯をされる系の、まあありがちで地味な嫌がらせというのは、防ぐのが難しいし、精神的にくる。
小学校も高学年になれば、京介の奇行はすっかり鳴りを潜めていたはずなのだが、子どもたちの記憶は鮮明なうえに、一度標的にされるとそこから外れるのは困難ときた。京介は依然迫害の対象であり、そして中学に上がっても、まあこれは、小学校時代の同級生がほぼ全員揃って進学する地元の公立校に来たから当然といえば当然なのだが、状況は変わらなかった。残念ながら、思春期の少年少女たちは、中学生になったくらいでは大人にはならないのである。
しかも困ったことに、ひょっとすると小学生の時よりやりづらいぞ、と思う時がある。いきなり集団に取り囲まれてリンチにされかけることがしばしばあるのだ。まあ、それは別に、簡単に返り討ちにできるからいいのだが、そうすると相手は狡猾で、教師に泣きついて京介を悪者にするわけだ。そのせいで、入学早々教師にまで睨まれて、よくもまあぐれずに中学二年目までやってこれたものだ、と自画自賛したくなる。
今でも十分若く見える祖母が正真正銘に若かりし頃、彼女は周囲の奇異の視線や嫌がらせに腹が立ってやさぐれたらしいが、京介はそこまで極端にはなれない。結局、言いたいことを我慢してストレスフルな学校生活を送るしかないのだ。
「まあ、別にいいけどさ……」
買い替えたばかりのシューズをぐちゃぐちゃにされたところでキレたりしない。こんなことでいちいち目くじらを立てたりしない。だが、
「あー、くそっ、いい加減探査系の術をしっかり覚えようかな……犯人突き止めてばれない程度に仕返ししても罰当たらないよな?」
などとぶつぶつ言うくらいは許されてもいい気がする。
しかし、探査の術、とりわけ人間に対して使う探査の術はあまり発展していない。妖怪に対して使うものならそこそこ魔術体系ができあがっているが、そちらについては、生まれつき特殊な「眼」を持つ京介にとっては、習得の必要性があまりない。
せめて相手が魔術師なら、魔力の流れや痕跡が眼で見えるし、探査術でそこそこ追い詰められるような気もするが、ただの中学生が相手となると難しい。
そもそも京介は、魔力は弱くない、というより強い方なのだが、術の得手不得手がきっぱり別れている。得意なのは炎の魔術で、他の方面は総じて初心者から中級者レベルで、「一応使えるけど積極的に使うほどではない」という水準に留まる。基本的な戦闘方針は、燃やすか焼くか爆破するか。顔見知りの妖怪たちからは「破壊神」呼ばわりされている。今更探査の術を覚えたところで、さほど上達はしないんじゃないかと、今までの経験から想像する。
ちなみに得意な術の系統は、遺伝とは関係ないらしい。その証拠に、祖母であり現当主である竜胆がもっぱら得意としているのは水の魔術という、京介とは正反対のものだ。竜胆のいい加減な推察によると、
『こいつは魔術を使い始めた頃の最初の衝動というか、行動原理の根底にある感情に由来してるって説があるよ。お前、あれだろ、敵を全部まとめて吹っ飛ばしたいとか思ったんじゃないのか? 私はあれだ、気に入らない奴はまとめて溺死すればいいのにって思ってたから』
魔術の使い始めといえば三歳とかそこらの話だ。さすがにそんなころに「吹っ飛ばしたい」だの「溺死しろ」だの考えるはずもないのだが。
ともあれ、魔術を使って仕返し、というのは現実的ではないらしい、という結論に落ち着いた。京介は大人しく、泥水塗れのシューズを履いて下校する。
校舎の裏手にある駐輪場に回ると、京介の自転車の前で顔見知りが待ち構えていた。
「よーぅ、京の字」
他の誰も呼ばないような呼び方をしてくるのは、周防という妖だ。京介の進学第一志望である神ヶ原第一高校の旧校舎に棲みつく狐のような妖で、以前、旧校舎取り壊し問題が浮上した際に知り合った。時々こうして、旧校舎を離れ、中学生の京介にちょっかいをかけにくる酔狂な奴だ。
「その後、旧校舎はどうだ」
「至極快適だぁ。京の字ももうちっと頻繁に高校に来いよぉ」
「そう言われても、俺はまだ中学二年だぞ。高校の敷地にしょっちゅう忍び込むわけにはいかない」
「だったら早く高校生になれやい」
「無茶言うな」
そんなの飛び級でもしなければ不可能である。さて、現在通う公立中学にそんな制度があっただろうか、いやそもそも義務教育にそんな制度があるのだろうか。そのあたりのことは不勉強なので、京介には解らなかった。まあ、周防も本気で言ってるわけではないだろうから、京介も本気では考えない。
周防は京介の自転車の籠の中にひょいと飛び移り、特等席だとでも言わんばかりに占拠する。苦笑しながら、京介は自転車をこぎ出した。
困ったことに、京介がここ最近で一番長く話をしているのは周防である。竜胆以外の人間相手に最後に談笑したのは、さていつだったか。そういう事情を知っている周防は、たまにやってきては、大人ぶって――実際年齢はかなり上なのだが――諭すように言う。
「京の字ぃ、俺は京の字と遊んでやるのは楽しいけどよ、そろそろ人間の友達作れよ。一番の大親友が妖怪ってんじゃ笑えねえぜ」
「自分で大親友とか言うなよ」
「え!?」
途端に周防は弱気になる。
「え、え? 親友だよな、俺たち親友だよな、京の字ぃぃぃ」
「……」
この妖怪は、ふだんは強気でいるのだが、ちょっとネガティブ方面にスイッチが入るとかなり弱気になる。たぶん彼のメンタルは豆腐で、半分が生の豆腐で半分が高野豆腐になっているのだろう。「親友だ」と肯定してやると、周防は心底から安堵したような顔をする。
親友だ、などとなんの臆面もなく言われて、本当に安心しているのは京介の方なのだが、それは周防には言わないでおく。言うと調子に乗りそうだから。
周防とは軽く世間話をして別れた。スピードを上げて、国道沿いの道を走る。
自転車をこぐ足がひどく冷たく感じてきた。ずぶ濡れの靴を履いて冬の寒空の下で自転車を漕げば、冷えるのも当然だ。火の術で乾かそうかとも思ったが、自宅までの道のりは既に半分ほど進んできてしまっている。今更というものだ。
京介が借りているアパートは、神ヶ原第三中学校からほど近い場所にあり、同時に神ヶ原第一高校からも近い場所に立地している。つつましやかに一人暮らしをするのに適した1Kで、家賃と生活費は魔術師中央会から支払われる報酬で賄っている。実家からの仕送りはなし。不破竜胆は基本的に放任主義なのである。おそらく京介が頻繁に教科書やら制服やらを買い替えているのも、知らないか、知っていて知らないふりをしているかのどちらかだ。
部屋に戻り、汚れたシューズを洗う。ドライヤーで乾かして、とりあえず明日は問題なく履ける状態にした。帰ってくるなり憂鬱な一仕事。それを終えると、京介は着替えるのも面倒になって、敷きっぱなしの布団に寝転がった。
幼い頃はしょっちゅう泣いていた気がする。今となってはさすがに泣けない。しかし聞いた話によると、涙を流すことにはストレスを発散する効果があるとか。とすると、昔より今の方が精神的にきついのだろうか、と思う。
哀しくはないし、苦しくはない。不破の退魔師として生きるなら、まあこんなもんだろ、と割り切っている。
それでも――少し体が重い。なんとなく、疲れている気がする。
今の中学に通っている生徒たちは、三分の一ほどが神ヶ原第一高校に進学するという。あと三か月もすれば憂鬱な受験生になるし、面倒な受験シーズンを乗り越えて中学を卒業したとしても、あまり変わり映えのしないメンツと顔を突き合わせ、いつまでも昔のことをねちねちと蒸し返されるのかと思うと、気が重い。
周防のメンタルが、半分生豆腐で半分高野豆腐などと評したが、かくいう京介の方は全部生豆腐に違いない。
「竜胆ばあさまは……高野豆腐、いや鋼鉄だな……」
などとぼそぼそ言いながら、目を閉じる。
しかし、竜胆のことなど、独り言でも口にしたのが拙かったのかもしれない。噂をすれば影が差す、携帯電話が鳴った。京介は慌てて起き上がる。
京介に電話をかけてくる相手など、竜胆くらいしかいない。そして竜胆は、孫の様子を気にして「最近どう?」などといった電話をかけてくることはありえない。十中八九、仕事だ。
通話ボタンを押すと、案の定竜胆が、単刀直入に告げた。
『仕事だ、京介』
「はい」
『如来寺のところの墓場で幽霊を見たとの情報がある。妖の可能性がある。大人しくさせろ』
「了解」
短いやり取りで、電話が切れる。
つー、つー、と無機質な音を放つケータイをなんとなく見つめ、
「竜胆ばあさまは、悩みなんかなさそうだな」
と、呟いた。




