刺客は過去から来る(4)
どうにか最終バスを捕まえて駅前まで戻ってくると、空はもう暗くなっていた。
「じゃあ、明日作戦会議ね」
帰りの方向が違う歌子がそう言って別れようとするのを、京介はふと思いついて呼び止めた。
「実は歌子、相談なんだけれど」
「なに?」
「中央会のことが、少し気になるんだ。葛蔭悟がこうもあっさり脱獄できたのが、どうも妙だと思う」
京介の意図を正しく察して、歌子は厳しい表情を見せる。
「……まさか、中央会に脱獄を手引きした奴が?」
「その可能性はあると思う」
「解ったわ、中央会に探りを入れてみる」
言いながら、腕時計で時刻を確認し、歌子は小さく頷く。
「今からでも十分、中央会にカチコミに行けるけど」
「カチコミって……」
「けど、そうするとこっちが手薄になるわよね。葛蔭が神ヶ原にいることは間違いないわけだし」
「だけど、中央会に裏切り者がいてよからぬことを企んでいるとしたら、このまま放置するのは危険だと思う」
「確かに、葛蔭に続いて他の厄介な奴までほいほい出て来られちゃ、たまんないしね。解った、なるべく早く調査を終えて戻ってくる。けど、何かあったらすぐ呼び戻してよ?」
言うが早いか、歌子は早速駅のホームに向かって駆けて行った。心強いな、と思いながら、京介は京介で、葛蔭との戦いに備えてやるべきことを済ませておこうと、アパートに戻ることにする。
この判断が、吉と出るか、凶と出るか――
★★★
空はすっかり暗くなっているが、等間隔に並ぶ街灯、店々のネオンが煌いていて、国道をひっきりなしに通る自動車のライトが絶えることなくあたりを照らしている。夜の不安などかき消される。
潤平は妹の美波と並んで帰途についていた。がらがらに空いたバスに揺られて神ヶ原駅前まで戻ってきて、そこからずっと歩いてきている。歌子とは駅前で、京介とは少し前に別れた。ここ数日アパートを空けていたという京介だが、今日こそは自分の部屋に帰るらしい。「そろそろ牛乳の消費期限が切れる」などと嘯いていた。実際には、来たるべき戦いに備えるのだろう、と潤平は予想する。
「京介さん、葛蔭と出くわした時はとても怖い顔をしていましたけど、今日はだいぶ穏やかな表情に戻ってよかったです」
かつて京介に恋をして、いまでも京介を大事に想う美波は、そんなふうに言う。重度のシスコンであるところの潤平としては、妹が自分以外の男に執心であるのは少々複雑な気持ちだが、相手が京介ならまあ許してやってもいいだろう、という気分だ。
「魔術絡みじゃ役に立たない俺たちだけど、まあ、いないよりはマシかね。少しは支えになれてるといいんだけどな」
つい数日前まで京介に対して嫌がらせの限りを尽くしてきた奴と同一人物とは思えない台詞を、潤平は漏らす。結局のところ、それが潤平の本音だ。今までは少々やり方が歪んでいたが、根底にある気持ちは変わっていない。ずっと友達の支えで居続けること、なにがあろうと縁をつないでいること、それに尽きる。
「明日は、葛蔭の居場所をガチで探さねえとな」
「四人もいるのですから、何かいいアイディアが浮かぶでしょう」
「そうだな」
自分はあまり戦力にならないかもしれないが、他の三人は優秀だから大丈夫だろう、と潤平は呑気に思う。
そんな時、不意に美波が潤平の腕を掴み立ち止まった。
「どうした、美波?」
怪訝に思って振り返ると、美波が驚いたように目を見開いている。そして微かに焦燥と恐怖を滲ませている。美波の視線を追って前に向き直り、潤平ははっとする。歩道を前から歩いてくる男がいた。男の顔はよく覚えている。その男は、入学式の日に見た男――葛蔭悟に相違なかった。
「面白そうな相談をしてるなぁ。俺のことも交ぜてくれよ」
野太い声が愉快げに言う。
潤平は自分の愚かさを呪う。
解っていたはずだ、魔術師を敵に回すということが、どういうことか。潤平は、一度は魔術に立ち向かい、危うく命を落とすところだった。その恐怖を忘れたわけではない。だが、どこかで油断していた。
甘かったのだ。どんな危険があるとしても友達のためにできることをする、決して京介を見捨てない、傍で支えてみせる――そう思うのなら、もっと強い覚悟が必要だった。
自分が京介にとって「弱み」以外の何物でもないことを、自覚すべきだったのだ。
「なあ、知ってるか?」
葛蔭がさも親しいような調子で問う。自分の腕を掴む美波の手が酷く緊張していた。
「大事な人間が傷つくとき、あいつは一番絶望するんだ。復讐するなら、ぜひともその顔を拝んでやらなきゃな」
★★★
数日ぶりに戻るアパートの部屋だが、なぜか灯りがついている。ドアノブに手を掛けると、出る時にはかけたはずの鍵が解錠されていて、扉は抵抗なく開いた。中から人の気配。
靴を脱いで上がり、廊下を歩いて部屋に入ると、案の定芙蓉が勝手に上り込んでいた。以前、「京介が留守の時にサスペンスを見れないのは困る」という理由で合鍵を作らされた。早速有効活用したらしい。カーペットの上にぺたりと座り込んでテーブルに頬杖をつき、何をするでもなくぼーっとしている。京介が帰ってきたのに気づくとちらりと視線を上げる。
「捕まったようだな」
潤平たちに、ということだろう。どうやら全部お見通しらしい。京介は苦笑する。
「よく解ったな」
「お前は単純だ」
「事情はどこまで知ってる」
「二日前、二時間サスペンス視聴のためにここに来たらお前が帰ってきていなかった。竜胆ばーさんのところに行って、お前が三年前に豚箱にぶち込んだ魔術師が脱走したという話は聞いた。そいつがおそらくお前に復讐しようとしている、ということも。その後お前がどうするか……そのあたりの思考回路は単純だから手に取るように解った。ここに戻ってきたということは、少しは考えを変えたんだろう」
「葛蔭は俺を狙っている。周りを危険に巻き込みたくなかった。けれど、潤平たちはもう関わってしまった。踏み込んでしまった。だから、一人で背負わなくてもいいのかな、と思い始めている」
「お前がそう思うなら、そうすればいい。そして私にも、お前の荷を分ければいい。まあ、私が素直に背負ってやるかは、気分次第だがな」
芙蓉はそんな無責任なことを言いながら笑った。
その時、京介のケータイが振動した。確認すると、発信者はつい今しがた別れてきた潤平だった。
「もしもし、潤平?」
だが、聞こえてきたのは潤平の声ではなかった。
『――元気か、不破』
「……っ!」
背筋が凍る。この声は知っている。忘れようのない、野太い男の声。
「葛蔭悟……!」
なぜ潤平のケータイを葛蔭が持っているのか。その理由を考えると恐怖で身が竦んだ。
京介の緊張に気づいたようで、芙蓉が厳しい表情で立ち上がる。
『もう解ってると思うが、お前のお友達は俺が預かってるよ。兄妹揃って今は寝てる。これが永遠の眠りになるかどうかは、まあ、お前次第だな』
潤平だけではない、美波も葛蔭に捕えられたのだ。
甘かった。思えば、葛蔭とは入学式の日、京介が二人と一緒にいたときに遭遇した。ほんの一瞬の邂逅だったとはいえ、美波の方が葛蔭の存在を認識し、顔を覚えた以上、その逆に葛蔭が美波たちのことを捕捉していることも、想定して然るべきだった。あの時から、二人は葛蔭に目をつけられていたに違いない。潤平たちから目を離すべきではなかったのだ。
『不破、どうせお前、俺のことを血眼になって探してるんだろ? お望み通り、俺の新しい実験場に招待してやるよ。来たら特別に、お前の前でお友達を嬲ってやる』
「葛蔭!」
『ま、死ぬのが怖けりゃ別に来なくてもいいぜ。その時は、俺が一人で愉しむだけだ。この女の子、可愛いよなぁ、兄貴の前で犯してやったらどんな顔をすると思う?』
そんなことを笑いながら平気で口にする。
どす黒い殺意が渦巻くのを感じる。
一人で背負わなくてもいいとか、仲間と一緒に立ち向かえばいいとか、そういう生易しい考えが全部吹き飛ぶ。
駄目だ、この男だけは駄目だ。救いようのない下衆野郎。やはりこいつだけは、自分の手で殺さなければ――
『不破、俺を殺しに来いよ。返り討ちにしてやる』
葛蔭は場所を一方的に告げると、通話を切った。
「ふざけやがって……!」
怒りのままに吐き捨て、京介は踵を返す。今すぐ葛蔭の息の根を止めてやりたい、そんな衝動だけが京介を突き動かす。
と、部屋を出て行こうとした京介の前に、芙蓉が回り込んでいた。わざと邪魔をするように立つ芙蓉に、京介は苛立ちを感じた。
「芙蓉、どういうつもりだ」
「何をしに行くんだ」
「解りきったことを訊くな。葛蔭を殺す」
答えると、芙蓉は溜息をついた。その意図を理解することはできず、また理解する暇もなかった。京介は短く告げる。
「芙蓉、どけ。邪魔をするな」
すると芙蓉は、いつものように言う。
「却下」
「芙蓉!」
苛立ちのままに、芙蓉の胸ぐらに手を伸ばす。だが、やすやすと捕まる芙蓉ではない。京介の手を取り、捻り上げる。
「何のつもりだ、芙蓉」
「悪いが、ここは通せない。通りたかったら、私を倒してみろ。まあ、無理だと思うがな」
そう言って芙蓉は京介を突き飛ばす。よろめきながらも踏みとどまり、京介は芙蓉を鋭く睨みつける。芙蓉は嘲るような笑みを浮かべている。
「前哨戦だ。いいだろう? どうせ、私に勝てないようでは葛蔭にだって勝てまい」
こんな時に冗談に付き合っている暇はない。だが、芙蓉は冗談を言う奴ではない。つまりは本気だ。
「……芙蓉、俺は今気が立っているんだ。後悔しても知らないぞ」
「させてみろ」
芙蓉が漆黒の剣・黒曜剣を抜く。京介はそれに応じて刈夜叉を取る。
刃がぶつかり合い、空気がびりびりと震える。
本当に、始まってしまったのだ、京介と芙蓉の斬り合いが。




