刺客は過去から来る(1)
濡れた髪をタオルでくしゃくしゃと拭きながら、潤平は美波の部屋の扉をノックする。
「美波ー」
呼んでも返事がないので、潤平は扉を開けて部屋の中に進入した。その直後、吹っ飛んできたクッションが顔面に激突した。
ばふっ、と柔らかい音がしてクッションが床に落ちる。デスクに向かってノートパソコンを開いていた美波がじとりと睨みつけてきた。
「兄さん、返事がないのに入ってくるのでは、ノックの意味がありません」
「寝てるのかと思って入ってきたんだ。風呂あがったぞ、早く入れ」
「今手が離せないので、蓋をしておいてください」
そっけなく告げると、美波はパソコンの画面に向き直る。なにをそんなに熱心に見ているのか、と潤平は後ろから画面を覗き込む。瞬間、美波が呆れたような溜息をついた。
「兄さん、人のパソコンを覗くなんて、マナー違反です」
「俺と美波の仲じゃないか」
「そんな仲になった覚えはありません」
「で、何やってんだよ」
結局強引に覗くと、画面いっぱいに大量の男性の顔写真が表示されていて、潤平はぎょっとした。
「もしかして、次の彼氏候補?」
「そんなわけないでしょう」
言いながら、美波はパソコンの脇に置いてあったスマホを操作し、一枚の写真を表示する。男の顔のアップだった。しかし、カメラ目線ではないので、隠し撮りだと一目で解った。そして、その男に見覚えがあった潤平は「あっ」と声を上げた。
「お前、その男……」
「ええ。今日、帰り道で、反対側にいた男。京介さんが見ていて表情を変えた男です。京介さんのあんな顔、初めて見ました。どうせ京介さん、訊いても教えてくれないでしょうから、自分で男の正体を突き止めようかと思いまして、隠し撮りを」
あの数秒の邂逅の瞬間に咄嗟に隠し撮りを成功させるあたり、美波の行動力は半端ない。
「それ持って、街頭で訊いて回るのか?」
「そういう地味な作業は兄さんに任せます」
「え、俺も手伝うことは決定事項?」
「あら、兄さんは降りるんですか」
「……乗るに決まってんだろうが」
京介は友達だ。一番つらい時に支えてやれなかった、その事実は潤平にとって棘となっている。もう同じことは繰り返さない。京介に何かが起きているなら支えたい。京介との縁は絶対に切ってなんかやらないと、心に決めているのだ。
だが、はたと気づく。京介があんな恐ろしい顔をするということは、かなり重大な何かが起きている。それが高校生活の延長で起きていることとは思えない。十中八九、彼の裏の顔――退魔師稼業絡みだ。
京介が魔術師であることを知らない美波が、京介が隠している深いところまで足を突っ込むのは危険なのではないだろうか、と潤平は思う。
「……美波、お前は入学したばかりで学校の方が大変なはずだ。男のことを探るのは俺がやる」
そう提案すると、美波はじろりと睨みつけてきた。
「受験生にそんなことを言われたくありません。兄さん、何か知っていますね」
「えっ!?」
「何か知っていて、私に隠していることがありますね」
「なんでそう思うんだよ?」
「兄さんはご自分で思っているより嘘も隠し事も下手くそです。唐突に意味の解らない提案をしてくる時はだいたい何かを隠しています」
「そ、そんなことは……」
魔術師であることを、京介は明らかに隠している。いくら妹とはいえ、京介の隠し事をそう簡単に明かすわけにはいかない。それは京介への、友達への裏切り行為だ。
俺は友達を裏切ったりしないぞ、と潤平は固く決意する。
が、美波は机の上のペンたてからボールペンを引き抜くと、
「兄さん、これで急所を貫かれたくなかったら洗いざらい白状してください」
「……」
妹の前では、兄の決意など脆いものである。
「成程、魔術師、ですか……」
洗いざらい白状させられてしまった潤平は、心の中で京介に土下座しながら、美波を説得にかかる。
「だからさ、美波、下手に深入りすると危険なんだ。実際、俺も京介も変な魔術師に目をつけられて殺されかけた」
「でも兄さん、そんな目に遭っても兄さんはまだ京介さんの友達なんでしょう」
「ああ」
「魔術だのなんだののことを知りながらも、兄さんは退くつもりはないのでしょう。なら、私が降りる理由はありませんね」
「美波」
「一度は恋した殿方です。自分の愚かさゆえに恋が実ることはありませんでしたが、京介さんを好きなことに変わりはありませんから。私は私にできることをします」
美波は画面をスクロールさせる。潤平はそれでようやく、美波がやっていることに察しがついた。
「そうか、さっきの写真、画像検索にかけてるのか」
「そうです。もしかしたら、と思って。けれど、相手が魔術師となると、顔写真がネットにほいほい落ちている可能性は低く……って、あ、ありましたよ」
美波は自分でやっていて自分で驚いたようだった。「魔術師というのはこんなにガードが甘いものなんですか」と半ば呆れている風だ。
たくさんの検索結果の中で、美波が指さす一枚の顔写真。それは、昼間に見た男に相違なかった。
「これは……ツイッターのアイコン画像ですね。こんな醜男が自画像アイコンですか、笑えますね」
「お前、感想が辛辣だぞ」
「この人のツイッター……三年くらい前の日付で止まってしばらく間があいていたのに、つい一か月くらい前から急にまた呟き始めてますね」
タイムラインを素早くスクロールしながら美波は言う。
「まるでムショに入ってた人が出所してきたみたい」
呟いている内容はたいしたことではない。何を食べただの、どこへいっただの、些細な日常のことを書いているだけだ。緊張感のない魔術師だな、と潤平は鼻白む。
「アカウント名は……『Satoru_Kuzukage』……本名でしょうか。クズカゲという苗字は珍しいですけど」
「え?」
潤平は凍り付く。クズカゲ。サトル・クズカゲ。その名前は、知っている。
去年の十月、誘拐された京介を追いかけていった先で、京介と、京介を殺そうとした男が話していた内容を、潤平は覚えている。こっそり隠れて、全部盗み聞きしていた会話を今でもはっきり思い出せる。
『君に比べたら私は無名の魔術師でね。名前は葛蔭亮という』
『葛蔭……? お前……葛蔭悟の、』
『ふむ、悟は私の息子だ……ああ、そうか、もしや、二年前の事件で悟に噛み付いたのは、不破の次期当主、君だったのか』
『親子揃ってロクでもないことを。反吐が出る』
潤平も酷い目に遭わされた十月の一件の敵、その息子の名前が、葛蔭悟だ。
「二年前……いや、もう三年前になるのか。京介が噛み付いた、って言ってたな。要は、なにかしらの因縁のある相手ってことだ」
詳しいことは解らないが、父親の亮同様に、葛蔭悟もなにか後ろ暗いことをしていて、神ヶ原の地を守る使命を負う魔術師である京介が対決した、ということなのだろうと潤平は推測する。
「ですが兄さん、その推測通りだとすると、三年前に京介さんはその葛蔭悟という男を取り逃がしたということでしょうか」
「あんだけ顔色を変えるってことは、そーとーヤバい相手なんだろ。そんな奴を取り逃がしてたら、呑気に俺の嫌がらせに付き合ってないはずだ。美波、お前が言ったんだろうが、ムショに入ってた奴が出所してきたみたいって」
「成程……京介さんが捕まえた相手がいつの間にか出所していて、再びのうのうと姿を現した、ってことですか」
「それ、絶対京介のこと恨んでるパターンじゃん。あいつ、また危険なことに巻き込まれなきゃいいんだが……」
わざわざ因縁の相手である京介の前に姿をさらした男。
あれは、宣戦布告だったのだろうか。
厭な予感がする。魔術師でもなんでもない潤平の予感に特別な意味があるとは思えない。だが、嵐が来そうな、胸騒ぎがした。
★★★
竜胆への電話がつながったのは、夜になってからだった。
『なんだい、京介。明日は実力考査のはずだよ。電話している暇があったら勉強しなさい』
「竜胆ばあさま。葛蔭悟のこと、知っていて隠していたな?」
単刀直入に言うと、受話器の向こうで竜胆が舌打ちした。
『なんだあの男、お前の前に現れたのか』
「ばあさま」
『お前が知ったら荒れるだろうと思って、情報を遮断していた。葛蔭悟は一か月ほど前、魔術師中央会の監獄から脱走した』
「脱走!? なんでそんな大事なことを黙ってたんだ!」
思わず声を荒げてしまい、しかし竜胆にあたっても仕方がないと思い直し、すぐに謝る。
『お前の心を乱したくなかった。黙ってはいたが、私だって何もしていなかったわけじゃない。中央会も奴の行方を追っていた。また三年前みたいな事件を起こされたらたまらないからね。なかなか尻尾を掴ませなかった相手だが、そうか、神ヶ原に来ていたのか』
「やはり、奴はまた何かやる気なのか……」
『そうでなければ脱獄なんてしないだろう。お前の前に出てきたということは、奴の方も戦う準備ができたということだろうな。今になって言うのも申し訳ないとは思うけれど、警戒しろよ、京介。奴はお前に復讐しに来るぞ』
受話器を握る手に力が入り、きしり、と軋む。
望むところだ、と思う。
復讐したいのは、こっちだって同じだ。




