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波乱を呼ぶ春の邂逅(3)

 ベッドの上で布団を引きかぶって、愛する妹・美波は膝を抱えて泣いていた。潤平の覚えている限り、美波は小学校に上がって以降、一度も涙を見せたことのない強者だ。転んでも泣かない、ガキ大将にいじめられても泣かないどころか相手を張り倒す、という猛者である妹が、その日はさめざめと泣いていた。

 潤平は中学三年生、美波は中学一年生の、冬のことだった。

「おい……どうしたんだよ、美波。何があった」

 美波が泣いている。よほどのことがあったに違いない。潤平は気色ばむ。

「なにがあったんだよ。誰かにいじめられたのか? なあ、美波」

 しかしそう言いつつも、小学四年の時に学業優秀な美波に嫉妬したクラスメイトが集団でいじめてきたときですら嬉々として復讐していた美波が、今更いじめに悩んで泣くはずはないだろうな、と潤平は思っていた。

 だとすれば、なぜ美波は泣いているのだろう。潤平は考える。

 そして、今日という日が美波にとって大切な日であったことを思い出した。

『今日は京介さんと会ってきます。兄さん、絶対に邪魔しないでくださいね』

 美波は今日、そう言ってでかけたのだ。潤平の友達、というつながりで美波と京介は出会った。ゆえに、美波が京介と顔を合わせるのは、いつも潤平が一緒の時だった。それが、今日に限って、潤平には「絶対に来るな」と告げて出て行った。美波が京介と二人きりで会ってなにをしようとしていたかは、少し考えれば解った。

 美波が京介に対していつからか「兄の友達」以上の感情を向けていたことに気づかないほど、潤平は鈍くない。たいていの男なら「妹に相応しくない」と切り捨てるところだが、京介ならば、と潤平は思っていた。だが、泣いているところを見ると、結果はおのずと知れよう。

「京介にふられたのか」

 美波は力なく頷いた。

 その瞬間、潤平は頭に血が上った。

 美波のなにが不満だというのだ。なにも泣かせることはないだろう!

「でも、兄さん……」

 その後美波が何か言いかけるのを聞かず、潤平は部屋を飛び出した。

 全力疾走で向かった先は京介のアパートだ。呼び鈴があるのを無視して近所迷惑になるほど部屋のドアをがんがん叩いた。しかし京介は出てこない。冷静に考えれば、こんなに乱暴にドアを叩かれて大人しく出てくる奴がいるわけない。

 だが、その時京介が出てこなかったのは、まだ部屋に戻っていなかったからだった。舌打ち交じりに潤平が帰ろうとしたところで、怪訝そうな顔をして外階段を上がってきた京介とばったり鉢合わせた。

「潤平……?」

 京介が呼ぶのを無視し、顔を合わせた瞬間、潤平は有無を言わせず京介を殴り飛ばした。突然のことだったため、京介は受け身も取れずに廊下に倒れた。やがてよろよろと起き上がる京介に、潤平は怒鳴りつけた。

「てめえ! よくも美波を泣かせやがったな!!」

「……」

 京介は僅かに目を見開き、それから後ろめたそうに目を逸らした。美波を傷つけた自覚があるらしい態度に、潤平の怒りは更にヒートアップした。

「美波はなぁ、滅多なことじゃ泣いたりしない強い奴なんだ。それが、あんなに泣き腫らして……お前が美波を傷つけたんだ! いったい美波にどんな酷いことを……お前のことはいい奴だと思ってたのに、幻滅したぜ!」

「……ごめん、潤平」

「俺に謝ったってどうにもならねえ! 俺はお前を赦さないぞ、京介! お前とは絶交だ、金輪際俺に話しかけるんじゃねえ、美波にも近づくな!!」

 怒りを余すことなくぶつけ、潤平は走り去った。


 家に戻ってそのことを美波に話すと、美波は怒り狂って潤平を蹴り飛ばした。

「はぁ!? どうしてそう余計なことをしてくれるんですか兄さんはッ!」

 兄への怒りで涙は吹っ飛んだらしい。美波はすぐさま泣き止んだ。妹の涙を止めるのに一役買えたというなら蹴り飛ばされるくらい問題ない。しかし、なぜ美波が怒っているのか理解できない潤平は首を傾げる。

「兄さん、私の話を聞かずに出て行くから……私は確かに京介さんに告白して玉砕してきましたけれど、別にそれがつらくて泣いたわけじゃありません。京介さんは悪くありません」

「えええっ!? じゃなんで泣いたんだよ」

「それは……自分に腹が立ったからです」

 滅多に自分の心情を吐露することなどないはずの妹が、その日は溜息交じりに話してくれた。おそらく、話が大事になってしまったせいで、言わざるを得ないと思ったのだろう。

「私のことを傷つけないように必死で言葉を選んで、優しく微笑んでくれたんですよ、京介さん。けれど、その時の痛々しい表情を見てたら、解ってしまったんですよ。本当は京介さん、他人に気を遣う余裕なんかないくらい、自分が傷ついているって」

「京介が?」

「何かあったんだと思います。私たちが知らないところで、京介さんはきっとつらい思いをしたんです。けれど、それを隠して、取り繕って……そんな時に私は告白したんですよ。馬鹿な女だと思いませんか? なんにも気づかないで、自分のことばかり考えて浮かれてて、どの口が好きだなんて言うのか……そう思ったら、自分があんまり情けなくて、悔しくて、腹が立って、泣けてきました。私はあの人を好きになる資格なんてない、最低の女なんです」

「それは言い過ぎじゃないか、美波」

「言い過ぎなのは兄さんです」

 慰めようとしたら刺された。

「どうして勝手に勘違いしてとんでもないことを言ってしまったんですか。今なら間に合いますから、早く謝ってきてください」

「えっ、いや、美波、それはちょっと。あんな超怒鳴りつけて殴って来ちまったのに、その舌の根も乾かないうちに、さっきのは俺の誤解でしたって土下座するのか? それはいくらなんでもかっこがつかないっていうか」

「兄さんのかっこなんかどーでもいいんです。どうして京介さんがつらいときに、友達の兄さんが支えるどころか突き放してとどめさしてきてしまうんですか。ええ、元はといえば私が原因なのは認めますが、兄さんには私ではなく京介さんの味方をしてほしかったです。『こんなときに告白なんかするな』って私を詰って、『俺のダメ妹が迷惑かけたな』って京介さんに言ってあげるべきだったんです」

「いや、無茶言うなよ美波、俺はお前が一番大事、妹至上主義のシスコンなんだ」

「自分で言わないでください、気色悪いです」

 容赦ない糾弾。結局潤平は、妹の気迫に呑まれ家を追い出された。仲直りするまで家には入れませんとまで言われた。

 潤平は悩んだ。美波が言うことが本当なら、京介がつらいときに更に苦しめることになってしまった。泣きっ面に蜂、最低だ。だが、さっきのが潤平の誤解だったと謝罪すれば、美波の考えていることも包み隠さず話す必要が出てくる。秘密主義で自分の気持ちなど滅多に言わない妹が意を決して話した内容を京介に話すのは躊躇われる。

 だいたい、盛大に殴りつけた後に、実は誤解でしたなんて言えない。

「これじゃ俺がただの馬鹿みたいじゃないか」

 事実である。

「けど……このままじゃ、ほんとに絶交になっちまう」

 自分から言い出したことだが、このまま縁を切ったら、間違いなく修復不能である。

 友達がつらいときに傍で支えてやれないどころか縁を切ってしまうなんて、そんなことがあっていいわけがない。

「かくなる上は……」

 潤平は一計を案じる。

 みっともない謝罪をせず、美波の恥を晒すことなく、京介との縁を切らずに済む方法。

 復讐鬼としてつきまとうことだ。

 かくして、潤平の執念深い復讐の日々が始まった。


★★★


「兄さん、あなたは馬鹿なんですか?」

 自信満々に語った潤平に、美波の容赦ない叱責が飛んだ。

「私には、ちゃんと仲直りしたなんて嘘をついておきながら、三年間そんなねちねちねちねち嫌がらせをしていたんですか? 最低です」

「待て美波、これは俺なりの友情の形だ。京介はそれに随分助けられたはずだ、なあ?」

 同意を求められた京介は十秒間悩んだ末に、

「……まあ」

「ほら兄さん、京介さんが困っているじゃありませんか! 全然助けられてなんかいないけれどそう言ったら妹の前で兄が恥をかくことになる上にただの馬鹿の烙印を押されることは間違いないから曖昧に言葉を濁して面目を潰さないでおこうという気遣いに溢れた台詞じゃないですか!」

「たった二文字からどれだけ深い意味を汲んでるんだ!?」

 美波は頬を膨らませて憤然とする。

「私、あの時は不覚にも京介さんの前で泣いてしまって……そのせいで京介さんに誤解されているんじゃないかと気にしていたんです。けれど兄さんが、気まずくなるだろうからしばらく会わない方がいいなんて言うからなかなか話ができず……兄さんの口車に乗せられてまんまと騙されていたなんて情けなくて仕方がありません。まさか私の知らないところで兄さんがそんな凶行に走っているなんて」

「聞け、美波。こう見えて俺と京介の絆はヤバいぞ。なにせ俺は京介の命を救い、京介は俺の命を救った。昵懇の仲だ。世に言うマブダチという奴だ!」

「潤平、恥ずかしいからちょっと黙って」

 おそらく口で言っても黙ってくれないだろうと思って、京介はテーブルの上のおしぼりを潤平の口に突っ込んで強制的に黙らせた。

「もがもがっ」

「兄さん、煩いからしばらくそうしていてください」

 美波は容赦なくそう言って、京介に向き直る。

「京介さん、私たち恋人にはなれませんでしたし兄さんはこんなザマですけど、また前みたいに友達として会ってくださいますか?」

 こちらの問いには迷いなく答えられた。

「うん。ありがとう、美波ちゃん」

 美波は顔をほころばせる。

 その綺麗な笑顔を見つめながら、この天使のような微笑みを浮かべる少女と兄に対して苛烈な振る舞いをする少女が同一人物とは、俄には信じがたいな、と京介はひっそりと思った。




「いいか、京介、俺は美波に言われたから渋々復讐をやめるわけじゃないし、今までの俺の付き合い方が間違っていたとも思ってないぞ。ただ、今回一矢報いて俺の完全勝利で終わったからもういいかなーって思っただけだぞ」

 闇討終了宣言の言い訳を、潤平はそんなふうにした。

「なにが完全勝利だ」

「ははぁん、さてはお前、俺は全然本気じゃなかったんだー、なんてベッタベタな負け惜しみを言うつもりじゃないだろうな」

「……」

 言うつもりだったので、京介は口を噤む。実際、本気なんか全然出していない。もっとも、普通の高校生相手に本気を出す(=魔術を使う)のはいくらなんでも大人げないので、実際に彼に対して本気を出すことなどあり得ないのだが。

「兄さん、あなたは素直になることができないんですか。ああ、できないんでしたね、馬鹿ですから」

 美波は容赦なく兄を詰る。しかし潤平は、厳しい言葉をかけられても傷つくどころか嬉しそうにすら見える。筋金入りのシスコンだ。もしかしたらこれが、この兄妹の愛情表現なのかもしれない。

 三人並んで帰途につく。三年ぶりのことだった。

 中学三年の時、とある事件に巻き込まれ、美波が気づいたところの「つらい思い」をした京介は、追い打ちをかけるように潤平から絶交宣言をされ、かなり沈んでいた。その時には、まさかまたこうして三人並んで笑いあえる日が来るとは思わなかった。

 あの時の「傷」を、乗り越えることができたのだろうか。京介は自問する。

 ――その問いに答えるかのように、

「……」

 ふと、視線を上げた。視線の先に、人影。

 車通りの多い片側二車線の国道を挟んで向かい側の歩道に、誰かが立っている。その人影に目が吸い寄せられ、京介は立ち止まり、絶句した。

「京介、どうした?」

「京介さん?」

 急に立ち止まった京介を振り返り、潤平と美波が怪訝そうにしている。

 だが、二人に応えることはできず、京介は離れた場所に立つその男を、呆然と凝視していた。

 呼吸が乱れる。心臓が跳ねる。忌まわしい記憶を呼び起こす、見覚えのある男。

 思わず歩道のガードレールに手を掛け、何も考えずに乗り越えようとした。潤平が慌てた様子で京介の肩を掴む。

「おいっ、何やってんだ、危ねえだろ! 車来てるぞ!」

 喉がカラカラに乾いていた。知らず、拳を握りしめている。

 道の向かいで、その男は笑っていた。男は京介に気づいていた。気づいて、姿をさらしていたのだ。

 年の頃は三十代前半。中肉中背。白いワイシャツにカーキのモッズコートを羽織り、ジーンズのポケットに両手を突っ込んでいる。目は三白眼、にやりと笑って見せる前歯は一本欠けている。

「なんで……なんでてめえが……!!」

 怒りと動揺がないまぜになった叫びを上げ、届かないと知りつつも手を伸ばした瞬間、左右から走ってくる自動車に視界を遮られ、それが通り過ぎた時には、もう男の姿は消えていた。

「おい、京介、いったいどうしたってんだよ。お前、汗びっしょりだぜ」

 潤平の声。傍に潤平と美波がいるのを思い出し、京介は荒ぶった神経をなんとか鎮めようとする。

「……悪い、知ってる奴がいて……取り乱した」

 汗で湿った前髪を掻き上げ、京介は頭を軽く振る。

 潤平たちはとうていそれでは納得できないようだったが、それ以上は何も告げなかった。


 二人には申し訳ないことをした、と京介は後から思う。せっかくまた三人で笑っていたのに、潤平と美波には余計な気を遣わせてしまった。

 部屋に帰り着くなり、京介は鞄を投げ出し、制服を脱ぎ散らかして、汗にまみれた体にシャワーをあてた。鏡に映った自分は、酷い顔をしている。

 怒りと悲しみと憎しみ、そして自責。ぐちゃぐちゃになった感情が、胸を締め付けた。

「どうして、あの男が……」

 こんなところに、いるはずがないのに。


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