波乱を呼ぶ春の邂逅(1)
入学式の日は晴天に恵まれ、穏やかな陽気に包まれていた。例年、春先は肌寒く感じるものだったのだが、今年は驚くほど暖かい。ついつい、学生服のボタンは全開にして、それでも暑くてワイシャツのボタンを一つ目まで開ける。鞄を肩に担いで、ふと視線を上げて立ち止まると、満開の桜が目に入る。
神ヶ原第一高校入学式。京介は桜の美しさを十分に目に焼き付けると、人の流れに沿って歩みを再開する。
もっとも、京介は入学式の主役ではない。むしろ今年度卒業を控える高校三年生に、昨日の始業式をもって進級したところである。学業に退魔師稼業にと二足の草鞋状態だが、学業の方は祖母、退魔師稼業の方は口の悪い式神によるスパルタ教育のおかげで、きっちり両方こなしている。留年はしなかった。
入学式の今日、三年の京介に登校義務はない。にもかかわらず京介がわざわざ登校してきたのは、クラスメイトに懇願されたためである。
クラスメイトであり新入生歓迎会実行委員である男子生徒は、明日の放課後の新入生オリエンテーションで配布する、部活動や委員会を紹介した冊子の作成を担当していた。その冊子は、余裕を持ったスケジュールで作成され、春休みのうちに完成していた。
ところが、それを保管していた校舎別館二階・国語科準備室で問題が起きた。国語科準備室というと、十人中八人くらいは「国語って準備するものなんかあるの?」と聞きそうなイメージがあることから想像できるように、この部屋の使用頻度は低い。明らかに国語と関係のない物品を置くために使われているのだから筋金入りだ。それをいいことに、この部屋で悪さをする輩がいた。
誰も来ないだろうと思って、数人の生徒が隠れて煙草を吸っていたのだ。そして起こってしまった小火騒ぎ。煙草の火が保管していた冊子に燃え移った。更に、煙を感知したスプリンクラーが部屋に水をばら撒き、近くの部屋で部活動中だった生徒が迅速な判断で消火器を噴射。煙草を吸った生徒は退学処分で、実行委員の苦労の結晶である冊子は廃棄処分となった。
かくして、入学式前日に起こった冊子全滅事件。式の翌日には使用する予定の冊子しめて三百五十部をどうにか作り直すため、ホチキス要員として京介は駆り出されることになった。
実行委員は昨夜、半泣きになりながら京介のケータイに電話をかけてきた。
『頼むよ、他の実行委員連中は入学式休みだからって、明日はみんな彼女とデートなんだよ。俺しかいないんだよ、そして俺は利用できる奴がお前しかいないんだよ。なあ、きょーすけ、お前は俺に借りがあるよな、誠意を見せるべきだよな。俺を助けろ、きょーすけ』
まあ、その実行委員とは窪谷潤平なのだが。
「別に過去のことを盾に脅迫しなくっても、ホチキスくらいいくらでも手伝ってやるけどさ」
別館二階、国語科講義室。国語の授業で特別教室を使う必要性が特にないため、もっぱら漫画研究部の部室としてしか使われていないこの教室の素晴らしいところは、作業のしやすい長テーブルとキャスター付きの椅子があることくらいだ。
テーブルの上にはページ順に並べた大量の紙。先ほど、職員室脇の印刷室で、授業に使うプリントを印刷しようとしていた教師を押しのけて輪転機をフル稼働させ刷り上げたものである。それをキャスター付きの椅子を滑らせながら右から左に一枚ずつ取って、綺麗に揃えて二カ所をホチキスでとめる。これの繰り返し。長テーブルの両サイドで、京介と潤平は黙々と流れ作業を続けている。
否、黙々と、というのは違った。潤平は口も動かしている。「喋ってないで手を動かせ」と言いたいところだが、手も動いているから文句の言いようもない。
「勘違いするなよきょーすけ、俺は他に頼れる奴がいないからお前を呼んだわけじゃないぞ。お前の貴重な休みを潰すという嫌がらせをしているだけなんだ」
「はいはい」
重度のシスコンをこじらせた潤平は、執念深く京介に復讐しようとする。最近では、復讐のレベルが暗殺からただの嫌がらせに落ち着いてきている。一時期は刃物やらスタンガンを振り回すという凶行に走っていた潤平だが、現在ではこうして雑用を押しつけて休日を潰してくるくらいが関の山である。
最近大人しいんじゃないか、という京介の質問に対して、潤平は答える。
「いいか、きょーすけ、勘違いするなよ、これは嵐の前の静けさって奴だぜ」
「はあ」
「驚異的な力を持つお前に対抗するため、俺は今牙を研いでいる最中なんだ。だから一時的に、こういう地味ぃな嫌がらせしかできていないがな、今に見ていろ、お前を圧倒する暗殺手段を用意するからな」
「明言してる時点で暗殺じゃないだろ」
積み重なっていく冊子の山。時刻は午前九時半。まだ紙束は大量に残っている。先は長い。しかしまあ、二人がかりなら余裕だろう。
肩が凝ったのか、潤平が大きく伸びをした。ぐるぐる肩を回しながら、潤平はぼやく。
「あー、まぁ、なんとか終わりそうっちゃ終わりそうだけど。もっと人手がいればなぁ。だいたい、実行委員は各クラス一人ずつ出してんのに、なんで俺だけがこんなことやってんだよ」
「そりゃ、非リアだからだろ」
「言うなよ」
確かに、せめてあと一人くらいいれば、とは京介も思う。思っていたので、一応頼んでみた、芙蓉に。
『却下。寝言は寝て言え、バカ主』
案の定断られた。本来ならありえないはずなのだが、芙蓉は相変わらず命令を無視する。まあ、こんなしょーもない命令、従ってくれなくていいのだが。
ぱちん、ぱちん。しばらく、ホチキスの音だけが響いた。
潤平は少し休むと、すぐに仕事を再開していた。今度こそ、黙々と作業する。
会話がなくなると、京介はこの奇妙な関係について考えてしまう。
潤平に退魔師稼業のことを知られたのは去年の十月。もう半年前のことだ。
半年前に告げられた言葉を思い出す。
『いいか、京介。俺はな、これくらいでお前から離れてなんかやらないぞ。俺はお前に復讐をすると決めたんだ。それを果たすまで、何があろうと、俺とお前の縁は切れやしないんだ。忘れるんじゃねえぞ!』
楽しいだけの普通の友達同士、そんな関係にヒビが入ったのは二年前……否、もう三年前になる。中学三年の時に、壊れたと思っていた。それなのに、なぜか顔をつきあわせてパンフレット作りに精を出している。
ヒビが塞がったわけではない。割れたところをセロテープで貼りつけたような歪な関係だと思う。どうしてこうなっているのか、京介にもよく解らない。
半年前、退魔師であるという異常性を見られた。だが、テープはまだ剥がれていない。それが京介には不思議だった。
不思議な関係について思いを馳せると、昔、幼少時に祖母・竜胆が言った言葉を思い出す。
『いずれお前を理解してくれる人間が現れるだろうさ。友達なんか大勢いなくたっていいのさ。一人いればいい。ただ一人の理解者と、長く付き合っていければいい』
そしてその言葉に引きずられるように思い出される、もう一つの言葉がある。
『優しい奴には優しい友達ができるんだぜ? 京介の周りにはきっと、優しい人が集まるんだと思う』
そう言ってくれた少年の笑顔を思い出す。
「……朧」
「ん? なんか言ったか?」
思いがけず口に出してしまった。京介は軽く首を振って、
「いや、なんでもない」
その名前を心の奥底に封じ込めた。
午前十一時。窪谷潤平が歓声を上げた。
「ひゃっほい! やぁっと終わったぜぃ! さすが俺、仕事が早い、デキる男!」
言った瞬間、ばたんとテーブルに突っ伏した。ぶっ続けでひたすら製本作業。さすがに疲れたらしい。
「お疲れさん」
「おー、お疲れぇ」
「何か飲み物買ってくるよ。潤平、何飲む?」
「お、さんきゅー。俺、ほろにがリッチ濃厚ココアホット」
「何その可愛いチョイス」
苦笑しながら、京介は財布を片手に教室を出る。
購買部がまだ営業を開始していないため、飲み物を買うには外に出て体育館脇にある自動販売機まで行くしかない。教室を出て廊下を進み、突き当りの扉から出て非常階段を下り、屋根つきの外通路を行けば、すぐそこが体育館だ。
自動販売機に小銭を入れていると、体育館からぞろぞろと生徒たちが溢れ出てきた。丁度、入学式が終わったところのようだ。そしてそれと同時に、どこかで待機していたらしい上級生たちが体育館から校舎までの通路に陣取り、部活勧誘のビラをこぞって配り始めた。ちょっとしたお祭り騒ぎになりつつある現場を見ながら、とりあえずあれに巻き込まれないように戻ろう、と京介は思う。新入生を取り合う部活勧誘合戦はかなり戦々恐々としていた。
そちらに気を取られていたせいで、うっかりボタンを二回押してしまった。ココアが二本出てきてしまった。
「……まあ、いいか」
ココアを二本持って歩き出そうとする。
と、後ろから声を掛けられた。
「京介君?」
振り返ると、予想外の人物が立っていた。




