奇妙すぎる平和な日(4)
夢の世界は、基本的に現実の世界に準拠している。それは、部屋の様子や、部屋の外の風景を少し眺めてみれば一目瞭然だった。夢を夢と気づかせない、現実そっくりの世界、だが少しだけ、現実と違って、望みが叶っている。
それはたとえば、妖が起こすトラブルがなく平和であることであったり。確かにそれが本当なら幸せな話だ。
そして、芙蓉が命令を無視することなく、京介を主と認め従うようになるということも、京介にとっての悲願であることは確かだ。しかしそれは、何の脈絡もなく、何の努力もなく成しえることではない。
主人だから、式神だからという理由で従ってほしいわけではない。ただ、認めてもらいたい。自分が芙蓉にとっての唯一無二の相棒でありたいのだ。それは簡単なことではない。簡単に叶ってよいことではない。
「こんな調子で敵の罠にまんまとはまってるうちは、とてもじゃないが認められそうにないな……」
自虐的に呟きながら、京介は潤平の家に向かっていた。
受験という現実から逃避しているなら、潤平は自宅に引きこもって、受験の存在を忘れているに違いない。そして永遠に、明日――いよいよ受験生になってしまう四月一日が来ない世界に閉じこもることになるのだろう。そう踏んで、潤平の家を目指した。以前は何度か遊びに行ったことがあるが、最近ではめっきりご無沙汰になってしまった窪谷家は、神ヶ原一高から徒歩圏内にあり、京介のアパートからも近い住宅街に建っていた。
白い壁と深いグリーンの屋根が目印の綺麗な家が見えてきた。潤平と、妹の美波、そして両親の四人家族が住まう家だ。
インターホンを鳴らし、反応を待つ。鬼が出るか蛇が出るか。潤平が出てくれば大当たりだ。だが、先程の芙蓉のように、胡蝶が作り出した幻のキャラクター、NPCのような存在が出てきたら、話がややこしくなる。本物でないなら、まあ、叩き斬ればいいのだが、うっかり通報されるような余計なストーリー展開が始まったら面倒である。
ぱたぱたと足音が響き、扉が開く。はたして、顔を出したのは潤平だった。
潤平は京介を見るや、現実では見せることのない、屈託のない笑みを浮かべた。
「きょーすけ! なんだよ、来るなら連絡くらい寄越せよな! ま、どーせ俺は暇してるからいつでもオールウェルカムだけどさぁ」
「は……?」
予想外の歓迎ムードに、京介は唖然とする。京介の驚愕に気づかず潤平は続ける。
「たぶんもうすぐ美波も帰ってくるぜ。三人でさ、こないだ買ったゲームやろうぜ」
「お、お前、ほんとに潤平か……?」
中学三年のとき、京介が美波をこっぴどく振った(と潤平は思い込んでいる)ため、京介と潤平の関係には亀裂が入った。それ以来、潤平は京介に嫌がらせの限りをつくし、間違っても美波と京介を会わせようとはしなかった。それが、三人で遊ぼうだなんて言っている。どう考えてもおかしい。異常事態だ。
目の前にいる潤平は、夢に囚われた本物なのか、それとも京介が見せられている偽物のNPCなのか。
偽者なら、斬れば消え失せる。さっきの芙蓉がそうだった。しかし、さっきのは確実に芙蓉ではありえないという確信が持てたから迷わず斬れた。今回の潤平は、正直微妙だ。斬ってから、やっぱり本物でした、では困る。
「どーした、きょーすけ、ぼんやりしてよぉ」
「……潤平」
「何だ?」
夢か本物か見極めるために、京介は苦渋の決断を下す。
「ちょっと一発殴らせて」
「は?」
呆然とする潤平の顔面を、有無を言わせず殴り飛ばした。
「ぶへっ」
奇声を上げながら後ろにのめる潤平。これで偽者なら消滅するはずだ。
「痛ってええ! きょーすけ、いきなり何すんだよ! こないだおまえんちのプリン勝手に食ったの怒ってんのか?」
「そんなことで怒るほど狭量じゃないし、そもそもお前にプリンを食わせた覚えはない」
律儀にツッコミを入れながら、京介はじっと潤平を凝視する。消える気配はない。彼は本物だ。
ということは、だ。潤平は本気で、京介を歓迎している。復讐のことなんか、思いもよらないという様子だ。
それが、潤平の見る夢なのか。彼が望む幸せな夢なのか。
今、潤平の中では、二年前の決裂がなかったことになっている。
「俺だって……」
「きょーすけ?」
「……俺だって、もしそうならどんなにいいかって思う。だけど」
一瞬で、様々な葛藤が胸の中に去来した。
思った以上に力が入ってしまっていたらしく、潤平の頬は腫れ、唇は切れて血が流れていた。怪訝そうな顔で血を拭う潤平を真正面から見つめ、刀を放り出して両手で肩をがっしりと掴んだ。
「潤平、俺もお前と、なんの蟠りもなく笑いあえればどんなに幸せかって思う。それくらい、俺にとってお前は大事な友達だ」
「な、なんだよ急に……」
「だけど現実は違う。二年前に俺はお前とお前の妹に酷いことをした。そのせいで俺はお前に負い目ができて、お前は俺を恨んだ。俺たちの仲にはヒビが入った。哀しいことだけど、本当の現実では、お前は俺に、そんなふうに笑ってはくれないんだ。二年前に俺がしてしまったことは、なかったことにはならない」
「きょーすけ……?」
「こんなこと言いたくないけどさ、目を覚ますしかないんだ。それで、明日から受験勉強と俺への復讐を続けろよ。過去を歪めて時間を止めた夢の世界なんて、クソ喰らえだ」
「……」
潤平が無表情に京介を見つめ返す。何を言っているのかと、訝しく思ったことだろう。
だが、潤平は不意にふっと微笑みを漏らすと、
「解ってるって……こんなの、デキの悪い夢だろ」
「え」
潤平は腕を伸ばして大きく伸びをする。
「さっきまで、俺の部屋にお前がいたんだぜ、きょーすけ」
「俺が?」
「そうそう。悩みもなんもないような顔して、俺と一緒に遊んでた。だって、俺たちまだ高校生だぜ。何も考えずに馬鹿やってたっていい歳じゃん。だけど、現実のお前は大変なことばっかりだし、俺とお前はビミョーな仲だし。ありえない……けど、ありえてもいいはずだった、俺の夢見た楽しい時間。短かったけど、そこそこ満喫できたぜ。こんなの長くは続かない、いつかはさめる夢だと思ってたら……今度は本物のお前が迎えに来た。もう起きる時間だってことだな」
潤平は徐にポケットに手を入れる。素早く中から取り出し京介の首筋に突きつけたのは、カッターナイフだった。不敵な笑みを浮かべて潤平は言う。
「お前の言うとおり。現実じゃ、俺は必死こいて受験勉強して、気分転換するみたいにお前に嫌がらせをするんだ。それがほんとの俺だ。過去につらいことがあったり、未来にもつらいことばっかりだけど、それでもいつか、つらいこと以上に幸せなことがあるって信じながら生きてく。いつまでも現実逃避してらんねーぜ」
だから覚悟してろよ、と潤平は刃をちらつかせた。
「またお前の命を狙いに行くぜ」
★★★
小さく呻き声を上げながら、瞼をこじ開けると、埃っぽい床とたくさんの机と椅子が目に入る。教室の床に倒れていたらしいと解る。頭がずきずきと痛むのを押さえ、ゆっくりと起き上がる。
「ん……ここは、教室……ってことは……」
「ようやくお目覚めか、バカ主」
聞き慣れた罵言に顔を上げると、机の上に行儀悪く座って脚を組む芙蓉が、微かに苛立たしげな目で見下ろしていた。
どうやら、目が覚めたらしい。間違いなく本物と解る芙蓉の罵倒が何よりの証拠だ。本来なら主人に向かってありえない口のきき方なのだが、やはりそれが彼女らしくて安心する。
「芙蓉……俺はどれくらい寝ていた」
「一時間ほどだ。まったく、おかしな場面で呼び出されたせいで、昼飯を食べはぐってしまっている。私はさっさと駅前のカフェでフレンチトーストが食べたい」
「悪かったな。全部片付いたら連れてってやるよ」
「ふん、お前が呑気に寝こけている間に、だいたいのことは片付いている」
芙蓉が指し示す。振り返ると、教室中に巡らされていた荊は綺麗さっぱりなくなっていて、元凶である妖・胡蝶は教壇の上で正座させられている。
「うぅぅ……あのぅ、もうそろそろ勘弁してもらえない? 脚が、脚が痺れて」
「黙って反省していろ。また頭頂部に踵を入れてほしいのか、禿げたいのか」
「禿げたくないですっ!」
「人間の現実逃避発言は九割九分本気でない。そんなの常識だぞ、いちいち真に受けて夢の世界にご招待していたら全世界が眠りにつく」
「以後気を付けますぅぅ」
どうやら、京介が寝ている間に芙蓉の踵落としが炸裂したらしい。圧倒的暴力で胡蝶をねじ伏せ、今は反省会の真っ最中のようだ。
胡蝶には訊きたいことがあった。先ほど――否、もう一時間前になってしまうわけだが、京介に向かって彼女が告げた言葉は、本当なのか、ただのはったりなのか。
だが、どう見ても訊ける雰囲気じゃない。まあ、しっかり反省している様子だし、この調子なら、仮に胡蝶が「心にある隙間」とやらを本当に知っているのだとしても、変に利用されることはないだろう。そう判断し、京介は溜息と共に、懸念を心から追い払った。
ふわぁぁ、と呑気な欠伸が聞こえた。机に突っ伏していた潤平が大きく背伸びしながら起き上がった。
「んぁぁ……やっべ、つい居眠りしちまってたぜ」
潤平の緊張感のない能天気な発言に芙蓉が青筋を浮かべるのが見えたので、京介は慌ててフォローに入る。
「潤平、やっと起きたか。心配したぞ」
「ん? おう、きょーすけ、待たせたな。心配って何が?」
「何が起きたのか解ってないのか?」
夢の世界の彼は、自分が見せられている夢を自覚していたようだったが、目覚めた潤平は不思議そうに首を傾げる。
「何がって、何が。本取りに教室に来たら、連日の勉強疲れのせいかうとうとしちまってよ。ちょっと休憩のつもりで……って、うおおっ、もう一時!? そんなに寝てたのかー」
どうやら、うっかり寝過ごした程度の認識しかないらしい。
まあ、夢は目が覚めると忘れてしまうものだから、仕方がない。明らかにおかしな脚本の出来の悪い夢など、覚えている必要はない。
それから潤平は、ようやく胡蝶の存在に気づいて眉を寄せる。
「誰だ、あの、派手ななりからして十中八九妖怪であろう女は」
「察しがいいな、まさしく妖怪だ」
「なんで正座?」
「気にしなくていい」
「はいはい、解散解散! まったく、春は馬鹿な妖が調子に乗り出すからタチが悪い」
うんざりといったふうに芙蓉が嘆きながら立ち上がる。目線で急かしてくるので、京介は潤平の腕を引いて慌てて芙蓉についていく。
いつものように芙蓉に罵られながら、潤平に嫌がらせされながら、少し遅めの昼食と洒落込もう。
ちなみに、転寝したことで結局本の返却を忘れた潤平は、後日図書委員からこってりしぼられ、「お前のせいだぞきょーすけ!」と八つ当たり気味にカッターナイフを投げつけてきたのだが、それはまた別の話である。




