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奇妙すぎる平和な日(3)

 課外授業は午前中で終わりであるため、午後からは自由な時間なわけだが、潤平はいったん外に出て昼食を済ませた後はまた学校に戻ってきて勉強するという。

「どうも、俺の部屋には誘惑が多すぎて、勉強が捗らない気がするんだ」

 部屋にテレビや漫画があるとついそちらに手を伸ばしてしまうとか、勉強をやらなければと思うと無性に部屋の掃除がしたくなるとかいうのは、よく聞く話だ。しかし潤平の場合は、

「美波とか美波とか美波とか……」

「やめろ変態シスコン」

 ツッコミを入れながら、二人で昇降口に向かう。

 歩きながら、潤平はさも名案を思いついたというような顔で提案する。

「きょーすけ、一緒に駅まで飯食いに行こうぜ。俺お前の飲み物に毒盛りたい」

「なにさらっと怖い宣言してんだ」

 自称・永遠の復讐者は見境がない。

「っと、そうだ、ちょっと図書室行ってくるから、ここで待ってろ、きょーすけ」

 下駄箱前に来たところで、潤平が思い出したように言った。

「図書室?」

「本返し忘れててよぉ。予約が入ってるから早く返せって図書委員に催促されたんだ。本なんか借りたっけかと思ったら、休み前に借りて教室におきっぱにしてそのまま存在を忘れていたのを、さっき思い出した。かれこれ二週間は延滞してる」

「次の生徒に恨まれてるぞ絶対」

「闇討ちには気をつけとく」

 軽口を叩きながら、潤平は廊下をダッシュしていく。廊下を走るなという常識的なツッコミをする暇もなかった。

 廊下の壁に凭れて、課外授業を終えぞろぞろと帰っていく生徒たちの波をぼんやり眺め、潤平の戻りを待った。図書室は別館三階にある部屋だ。本館一階の昇降口前から、本を取りに二年の教室を経由してから往復する上、おそらく貸出当番の図書委員からたっぷり説教されることも考慮に入れると、十分くらいはみたほうがいいだろう。

 幸い、急ぐ用事は特にない。気長に待とう。


 十分はあっという間に経過した。潤平はなかなか戻ってこない。

 さては図書委員にこっぴどく怒られているな、とその時は思った。

 しかし、二十分たっても戻ってこなかった。いくらなんでも遅すぎる、と京介は不審に思う。

「何やってるんだ」

 呟きながら、京介は図書室に向かった。静寂に満ちた廊下を早足で進み、図書室に辿り着く。中の生徒に配慮してそっと扉を開けると、入って右手が荷物を仕舞うためのロッカーで、左側が貸出カウンターになっている。カウンターの中では図書委員の女子生徒が座っていた。

 おさげ髪の少女は顔を俯けて読書の真っ最中だったが、京介が入ったのに耳聡く気づくと顔を上げた。今日のカウンター当番はクラスメイトの島津茜という女子生徒だった。京介は小声で尋ねる。

「潤平が来なかったか」

 すると、潤平の名前はNGワードだったらしく、島津はまなじりを吊り上げた。

「来てない。もう、困るのよね、窪谷君、二週も延滞してる。信じられない、次予約してるの私なのに。来たら超説教ね」

 図書委員である上に延滞野郎に恨みを募らせる予約者でもあった島津はかんかんであった。京介自身は何も悪いことはしていないのだが、潤平の名前を出したのがまずかったらしい、京介は潤平の仲間ということで敵認定されたようで、島津の視線がぶすぶすと突き刺さってくるのを感じた。逃げるように図書室を後にすると、さて、ということはまだ教室にいるのだろうかと、今度は二年の教室に向かった。

 二年五組の教室を覗きこんで、ようやく潤平を見つけた。本来なら、散々待たせた文句を言ってやろうと思っていたところだが、潤平の姿を見た瞬間、苦情の言葉は全部吹っ飛んだ。

 潤平は自分の席に座り、机に突っ伏し、腕を投げ出し、ぴくりとも動かない。意識があるようには見えない。

 そして、妖を捉えることのできる京介の眼は、他の人間は見えないだろう異質なものを視ていた。

 潤平の体に絡みつく、荊のようなもの。それを見て、一瞬で血の気が引いた。

「潤平!?」

 慌てて駆け寄り、潤平の体を揺り動かす。目を閉じる潤平の表情は穏やかだ。苦痛の色は一片たりとも感じられない。呼吸、脈拍共に正常。どうやら眠っているらしい。だが、ただ眠っているだけ、などという簡単な状況でないことは、彼を拘束するように纏わりつく荊から明らかだった。

「何だ、この荊……」

 何者か、妖が潤平に手を出しているのは間違いない。この荊のせいで、潤平は気を失っているのだろう、と推測する。

 火の術で一気に燃やし尽くしてしまいたい気分だが、そんなことをすれば教室も燃えるし潤平も燃える。火は完全にNGである。

「刈夜叉」

 焼くのが駄目なら斬るしかない。京介は退魔刀を喚び出す。すると、叩き斬られるのを予期したのか、荊が蠢き始めた。

 せいぜいほんの数本絡みついていただけだったはずだが、荊は急激に増殖を始め、意思を持っているかのようにうねり襲いかかり、京介を潤平から引き剥がし弾き飛ばした。

 舌打ち交じりに荊を両断する。だが、斬っても斬っても、荊が増え続ける。キリがない。教室中に広がり、這い回り、退路を塞いでいく。床の壁も天井も荊で覆い尽くされ、取り囲まれ、そこは完全に異界と化していた。

 なんとかこの荊の海から潤平を引きずりださねばならない。しかし、それを阻むように荊の壁が立ち塞がる。

「潤平、起きろ!」

 潤平に近づくこともできないまま叫ぶが、返事はない。

「潤平!」

「――呼んでも無駄よ」

 繰り返し名前を呼んでいると、どこからともなく少女の声が響いた。

 突如、床から幾本もの荊が立ち上る。やがて花が開くように荊が放射状に倒れ広がり、その中に包み隠していた少女の姿を現した。

 真紅のワンピースとヘッドドレスを纏った妖が、妖艶な微笑みを唇に湛えている。

「いくら呼んでも、彼が目覚めることはない。彼は眠り続けるの」

「そいつに何をした」

 低い声で問い詰める。

「眠らせてあげたのよ。彼は今、夢を見ているの。私が作り上げた、幸せな夢の世界に浸っている」

「なぜ潤平に手を出したんだ」

「彼が望んだからよ」

 自分は何一つ間違っていないと言いたげな自信満々の顔で、少女は胸を張る。

「現実はつらい、受験生になりたくない、明日なんか来なければいい……って、彼が言っていたから。私は現実逃避するすべての者の味方なの」

「あんな冗談を真に受けるなよ!」

 少女の発言がふざけているのかただの天然なのか、判断がつきかねる。

「私は夢を司る妖、胡蝶こちょう。合言葉は、ビバ・現実逃避! つらい現実なんかクソ喰らえ! ずっと楽しい夢に浸っていたい、それの何が悪いの!」

「現実から逃げたってしょーがないんだよ、目を逸らしたって明日から受験生なんだから」

 怒り、というよりは呆れながら、京介は諭すように言う。しかし胡蝶は聞く耳を持たない。

「一生目を覚まさなければいいだけの話よ。だいたい、わざわざ苦しいと解っている現実に生きる必要なんてないもの。ずっと眠ってればいいんだもの。私は彼の願いを叶えるだけ。私ったらなんて親切。邪魔するなら容赦しないから!」

 少女・胡蝶が右手を掲げる。と、無数の荊が一斉に襲いかかった。

 その勢いに圧倒され、一旦距離を取ろうとする。だが、一瞬早く、死角から伸びた荊に脚を絡め取られ、逃げを封じられる。動きが遅れたのが命取りになり、撓る荊に刀を弾かれる。

「あなただって現実なんてクソ喰らえって思ってるでしょ。私には解るわよ、あなたの心にある隙間」

「――」

 虚をつかれた。

 胡蝶にはどこまで解っているのだろうか。夢を司り、言葉巧みに人を夢の世界に誘い込む彼女に、どこまで見通されてしまっているのだろう。

 知られてはいけないことを知られてしまったような不安に、ほんの一瞬思考が凍った。その隙をついて、荊が体に絡みついた。全身を戒め、鋭い棘が肌を掠めて、流れた血を吸う。

 直後、急激な眠気に襲われる。

「や、ば……」

 視界がゆらゆらと揺れる。心地よい微睡みに誘われる。このまま眠ってしまえば気持ちよくなれる、と誘惑される。だが、眠りに落ちれば目覚められなくなるかもしれない。

 混濁する意識の中で、京介は右手の契約紋に力を込めた。

「頼む、芙蓉姫……」

 瞼がひどく重い。抗いきれずに目を閉じる。閉じた瞼の向こうで光が溢れるのを感じたが、それを瞳に映すことは叶わなかった。

「京介!」

 芙蓉が名前を呼ぶ声が聞こえた。それを最後に、意識が闇の中に沈んでいった。


★★★


 頭痛と共に意識を失う寸前のことを思い出し、目の前の異常な光景をはっきり異常だと認識した、その瞬間、京介は叫んだ。

「来い、刈夜叉!」

 退魔刀を召喚しながら、目の前に無防備に近づいてきていた芙蓉に頭突きを食らわせる。芙蓉が呻きながら拘束を緩めた。その隙に自由になった手で刀を握りしめ、迷わず刃を横に薙いだ。

 芙蓉姫を、両断する。

 呆然とした表情を浮かべた芙蓉の胴体が真っ二つになる。瞬間、芙蓉の姿がゆらりと揺らめき、蜃気楼のように掻き消えた。

 大きく肩で息をする。跳ね上がった心臓を落ち着ける。危なかった、いろいろな意味で。とりあえず、ぎりぎりで間に合った。幻が幻であることに気づき、叩き斬ったのだ。

「あああ、よかったぁぁぁ」

 心の底から安堵の溜息をつき、京介は胸を撫で下ろす。

「全部夢、これ全部夢だ! 素直に命令をきく芙蓉なんて現実でありえるわけがなかった! こんなの幻想! 夢オチ! あああ、安心したぁぁ」

 やけっぱち気味に叫ぶ。ぐったりと壁に凭れて天井を仰ぎながら、じっとりと額に浮かんだ嫌な汗を手で拭う。

「くそ、心臓に悪い夢見せやがって。幸せな夢だって? どう考えても脚本ミスだろうが」

 おそらく、胡蝶の術のせいで、夢が夢であることを忘れさせられていた。そのせいで非常に肝が冷えた。だが、一度思い出してしまえば安心である。現実ではちゃんと、不甲斐ない主に呆れかえっている芙蓉が待っているはずだ。

「早く目を覚まさないと……いや、その前に」

 ここが胡蝶の作る夢の世界だというなら、京介の夢と潤平の夢がつながっていて、潤平もこの世界に囚われているのかもしれない。

 外から呼んでも起きることのなかった潤平を、夢の世界でなら叩き起こすことができるかもしれない。これが夢であると気づかせ、現実に戻せるかもしれない。

 京介はゆっくりと立ち上がると、刀を握り直し、部屋を飛び出す。

 どこかにいるであろう潤平を探して、夢の世界を駆けた。

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