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奇妙すぎる平和な日(2)

「疲れているんじゃないか。少し休んだらどうだ」

「……」

「茶でも淹れてやろうか。確かこないだ買った紅茶があったな」

「…………」

「夕飯は何が食べたい」

「――……っだあああ! 集中できねええええ!!」

 一度はテキストと睨めっこを始めた京介だが、十分ごとに芙蓉が何かと気を遣って声をかけてくるのでまるで集中できず、ついに匙を投げる。やけくそ気味にノートもぶん投げる。勢いでテーブルもひっくり返そうかと思ったがさすがにそれはやめた。

 声をかけられること自体は問題ない。それくらいで気が散るような繊細な神経はしていない。これが「なんだそんな問題も解けないのかこの馬鹿め」とか「その調子じゃ落ちるぞ」とかそういう類の発言だったら気にならなかったはずだ。

 今までの芙蓉なら絶対にありえないような、天変地異レベルにおかしな発言が続いているせいで、京介は心を乱されまくっていた。これが、そこまで見越しての遠回しな嫌がらせだとしたらたいしたものだ、効果は絶大である。

 だが、芙蓉の顔を見るに、彼女は心から、真面目に、本気で、京介を気遣っているらしい。そのせいで、京介はひどく落ち着かない気分にさせられている。

 このところ、妖絡みの事件も起きず、高校生らしい日常生活に専念できている。そこに加えて、芙蓉の心変わりらしきもの。血腥い非日常から距離を置き、反抗期だった式神は戦いと縁遠くなり、ただの友達かうっかりしたら恋人みたいな言動ばかり仕掛けてくる。平和以外の何物でもない現実なのだが、いきなり降って来た平穏すぎる日常はかえって恐ろしい。

 絶対裏がある。絶対何かある。疑心暗鬼に囚われ、京介はぐったりと頭を抱える。

「芙蓉……お前は基本的に戦闘にしか参加しないし、下手したら戦闘だって雑魚相手だと手伝ってくれないじゃないか。そんな奴がいきなりそんな、フツーの彼女みたいなことし始めるなんておかしいって」

「彼女ではない、式神だ。恋人というのは対等な関係のことをいうのだろう。私たちの場合は上下関係がはっきりしているから、恋人には当てはまらない」

「いやいやいやいやおかしいって、上下関係だなんて、口が裂けても言わなかったようなことを平然と言うなよ。俺が下でお前が上だって言い始めるなら納得だけど」

「お前は私をいったいどんな非常識だと思っているんだ」

 だって非常識だったじゃん。規格外の奴だったじゃん。言いかけた言葉を、しかし疲れてきたので呑み込んだ。

 これでいいのだろうか。自分が変に頑なになっているだけなのだろうか。京介は自問する。

 芙蓉が本当にこれでいいと思って、変わろうとしているなら、それを受け入れるべきだろうか。京介はいまだに、現実が信じられない。芙蓉が謀ろうとしているんじゃないかと思えてならない。今日はエイプリルフールではなかったはずだが。こんなふうにしか考えられない自分は狭量なのだろうか。

 悶々と考え唸っていると、何を勘違いしたのか、芙蓉が床に正座して面と向かい、何か閃いたようにぽんと手を打った。

「解った。お前が主従をはっきりさせるのが気に入らないらしいのは理解した」

「はあ」

「もともとお前は甘い奴だったからな。私を従者と見るのに抵抗があるというなら、私はそれを汲む」

「解ってくれたか」

「つまりお前は私と対等な関係――恋人同士になりたいわけだな」

「全っ然解ってねえ!! なにをトチ狂ったらそんな答えに行きつくんだ!?」

 真顔で何を言い出すかと思えば、想像の斜め上を行きやがった。それともこれは彼女なりの新手のジョークなのだろうか。そのジョークはちっとも笑えないと解っているのだろうか。芙蓉の真意が解らない。京介は混乱し取り乱す。

 唐突に、芙蓉がぐっと身を乗り出してくる。あんまり不用意に近づかれるものだから、京介は変に緊張してしまう。吐息がかかりそうなくらいのおかしな距離感に戸惑い、思わず身を反らして離れようとする。

「ここのところ妖怪関係の仕事はない。仕事があったとしても、お前一人でどうにかできる案件が多くて、私の出番は日に日に減ってきている。こう平和では、お前の世話を焼くくらいしか私の存在意義がない」

「いや、平和で出番がないなら、いつもみたいに主を主と思っていないような罵倒の嵐でも巻き起こしてればいいじゃないか」

「なんだそのドM発言は。お前いつからMになったんだ」

「Mになった覚えはねえよ。お前こそ、いつからドSを卒業したんだよ」

「私は今も昔も、SでもMでもない、いたって普通の女子だ」

「エイプリルフールでもないのに明らかな嘘つくんじゃねえよ」

 京介の反応が気に入らないのか、芙蓉はムキになったように、じりじりとにじり寄ってくる。なんとなく鬼気迫るものを感じずるずると後退るが、すぐに壁際に追い詰められる。するとお約束のように、どこぞの少女漫画よろしく芙蓉は壁に手をついて京介の退路を塞ぐ。俗に言う壁ドンであるが、性別が逆であるような気がしてならない。

「京介、いい加減にしろ。いったい何が不満だというんだ」

「不満というか……」

「妖と人間の間でトラブルがなくなって、戦うこともなくて、式神は素直に従って、安息の場所を手に入れる。それがお前の望みだっただろう。それが叶っているのに、なんの文句があるんだ」

「文句があるわけじゃないけど……」

 歯切れ悪く言うと、芙蓉は痺れを切らしたようで、京介を壁に押しつけ馬乗りになる。体をすり寄せ、顔を覗き込んでくる。ふだんの彼女ならありえないはずの過剰なスキンシップに慌てる。

 いつもはガードの堅そうな軍服じみた服を着ているくせに、こういう時に限って芙蓉はやたらとひらひらした薄っぺらい服を着ている。薄い布越しに肌の熱が伝わってきて、京介の心臓は跳ねる。

 口の悪さと刺すような鋭いまなざしのせいで忘れかけるが、芙蓉はうら若い少女の姿をしている。思いがけず触れさせられた柔らかい体に緊張する。変に意識してしまう。どきどきする。どぎまぎする。恋人だなんておかしなことを芙蓉が言うせいで、勘違いしてしまいそうだ。

「芙蓉、離れろ」

「離れない。言葉で言って解らないなら、体に教えてやる。私がお前のしもべであるということを」

 無理やりにでも芙蓉を押し返そうとしたが、芙蓉は器用にも片手だけで京介の両手を纏め上げ壁に縫い止める。空いた左手に顎を掴まれ強引に前向かされる。このあたりでようやく、緊張より危機感が勝った。なんだか危ないことになっている気がする。

「ふ、芙蓉? な、なにする気だ」

「ここまできて、解らないはずがないだろう」

 解らないわけではない。だが、()()ははたして、相手を逃げられないように力ずくでホールドしてやるようなことだっただろうか。

 おかしい。もう何度目か解らない呟きを心の中で唱える。

「駄目……駄目だ、芙蓉。これは、違う」

 確かに望んでいた――血腥いトラブルがなくなって、戦わなくて済むようになって、芙蓉に戦いを強いることがなくなればいいと。

 戦いを抜きにした平穏な関係でありたいと願ってやまなかった。だが、これは違う。これは芙蓉のやり方ではない。

 相手の意思を無視して強引に唇を塞ごうとするのは、芙蓉が最も忌み嫌うやり方のはずだ。

 目の前の現実はありえない。

 平和で、幸せな光景のはずなのに、()()()()()()()()()()()()()()

「――ッ!」

 そう思い至った瞬間、ずきりと頭が痛んだ。

 何か、大事なことを思い出せそうな気がする。


★★★


「もうすぐ受験生だなんて現実受け入れられねえよ」

 潤平が堂々と現実逃避じみたことをぼやくのを、京介は呆れた気持ちで聞いていた。

「現実から目を背けても、センター試験は着々と近づいてくるぞ」

「やめろ、俺は今、センターという言葉は聞きたくない。野球のセンターもショッピングセンターも忌避してるくらいだ」

 重症だな、と思う。

 なにをそんなに神経質になっているのかと思ったが、カレンダーを見て得心する。今日は三月三十一日。終業式はとっくに終わってはいるものの、一応年度内は二年生という扱いだ。これが、明日になれば始業式前であっても便宜上三年生という扱いになり、すなわり受験生の仲間入りを果たすわけだ。

 センター試験の範囲は一、二年生までの学習内容が六割ほどを占めるという。授業をきっちり聞いて地道に勉強してきたなら、まだそこまで切羽詰まって焦らなければならない時期というわけではないはずだ。もっとも、授業の居眠り率の高い潤平は、いい加減真面目になるべきかもしれないが。

 春休み中でも、神ヶ原第一高校は生徒たちに開放されている。部活に励む生徒、図書室や自習室で課題に励む生徒などが多くいる。

 潤平は課外授業に出てきていた。課外授業は強制ではないが、受験に向けてレベルの高い問題に取り組みたい生徒向けと、一、二年の学習範囲の総ざらいをしたい生徒向けの二つの授業が用意されていて、希望する生徒が受けるようになっている。京介は、そろそろ受験を意識して前者を受けようと思って登校したのだが、潤平とばったり会い、

「なんだ、きょーすけも受けるのか。ちょーどいい、俺がうっかり寝ちまったときのためにノートとってくれ」

 と言われ、予定していたのとは違う方、後者の教室に半ば強引に引っ張り込まれた。通常の教室二つ分の広さがある会議室に生徒が集まり授業は行われた。席はそこそこいっぱいに埋まっていて、やはりこの時期の課外授業は参加率がいいらしいな、と京介は感じた。

 午前中いっぱいの課外授業が終了すると、潤平はあまりの手応えのなさに絶望したらしく、机にぐったりと突っ伏した。そこで現実逃避発言が飛び出したわけだ

「潤平、お前、言うほど現実逃避してないだろ。ちゃんと課外に出てきてるし、今からでも全然巻き返しがきくんだから、そんなに悲壮感漂わせなくたって大丈夫だろ」

「優等生の『大丈夫』ほどあてにならない言葉はねえ」

「俺はそんなに優等生じゃないけどな」

「ああ……明日から受験生」

「もう既に受験生みたいなもんだろ」

「いやいや、やっぱり年度が変わるってのは重大なことだぜ。もう明日からは言い逃れできない、確実に受験生だ。一に勉強、二に勉強、の地獄の日々が始まる。憂鬱で仕方ないぜ。受験生になんてなりたくねえ~~」

 そんな無茶を言うな、と京介は笑い飛ばした。

 しかし、思えばこの潤平の一言が、いわゆる()()()だったわけである。

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