奇妙すぎる平和な日(1)
神ヶ原一高生は、夏休みや冬休みほど日数はないくせに宿題の量だけはそこそこ多いことで定評のある春期休業を迎えていた。来年度はいよいよ受験生になるわけだから、課題の多さに文句をつけている場合ではないので、京介は大人しくテーブルの上に課題を広げてペンを走らせていた。
日に日に穏やかになっていく気候に影響されているのか、ここ数日は妖たちの動向も穏やかだ。旧校舎を不法占拠して拉致監禁を企てる妖も、神霊相手に討ち入りを企てる妖もおらず、竜胆からの呼び出し・無茶ぶりもなく、実に平和な日常である。
だが油断はならない。例年、花見シーズンくらいになると、泥酔して奇行に走る花見客よろしく、妖たちもテンションが上がって狂行に走り始める。イレギュラーに備えて、やるべきことはやれるうちにやっておくのが吉である。
休暇中であっても規則正しく六時には起床し、午前中は学生らしく勉強に費やした。昼が近くなり、微かに空腹を感じ始めたところで、ペンを置く。難所だった数学の問題集も残り数ページとなった。悪くないペースだ。
「竜胆ばあさまの無茶ぶりコールに妨害されないと、こんなに捗るのか」
感嘆とともに一人ごちながら伸びをする。そろそろ昼食の支度をしようと立ち上がり、冷蔵庫の中身を確認する。
見事に何もない。
入っているものといえば、豆板醤とバルサミコ酢。なぜか使いどころに困る調味料しか入っていない。というかこの、一人暮らしの食卓ではほとんど出番のないような微妙な調味料はいったいいつ買ったんだっけかと、京介は頭を抱える。
「仕方ない、買い出しに行くか」
財布とケータイとエコバッグ、最低限の荷物だけを手に、玄関に向かう。
と、部屋を出ようとしたところで、扉が外から開かれた。
現れたのは芙蓉だった。軍服みたいな装いがトレードマークのようになっている彼女だが、今日は珍しく春らしい格好で、白いワンピースに灰色のカーディガンを羽織っている。その気になれば女子らしい格好もできるらしいな、と京介は感心する。
珍しいのは服装だけではなかった。芙蓉の持ち物といえば愛用の剣・黒曜剣くらいしか思いつかないのだが、今日に限っては大きく膨らんだビニール袋を腕に引っかけていた。
「どうした、芙蓉」
呼んでも来ないことすらある彼女が、呼んでいない時に来るのも珍しい。血腥い戦闘の気配も、今はないというのに。
怪訝に思っていると、芙蓉は手に持った袋を軽く持ち上げてみせる。
「そろそろ冷蔵庫の中が空になっているころだろうと思ってな。放っておけば不健康な食事しかしなそうだし、たまには私が作ってやる」
「そうか、ありがとう」
芙蓉は靴を脱いで部屋に上がりキッチンに立つ。その後ろ姿を微笑ましい気持ちで見送り、
「――はぁ!?」
一拍遅れて我に返り唖然とした。
京介の驚愕など構わずに手早く調理の準備をしていく芙蓉。京介は泡を食う。
「いやいや待て待てっ、なに血迷ってんだ? なんで彼女になりたてな青春真っ盛り女子高生的な行動に出てるんだ? おかしいおかしい、お前主人に対して手料理振る舞うようなキャラじゃないだろうが!」
芙蓉は心外そうに眉を顰める。
「なんだその言い草は。人が珍しく親切にしてやってもいい気分になっているんだ、水を差すな」
「なあ芙蓉、頭でも打ったか? お前が俺に親切にしたくなるなんて、天変地異の前触れじゃないのか?」
命令違反がスタンダードな問題大アリ上から目線女王様が、料理だと? 本当に頭でも打ったんじゃないかと、京介は本気で心配になり芙蓉の肩を両手で掴む。
「悪いことは言わないから病院に行こうぜ。お前らしくないじゃないか。命令無視常習犯、私の辞書に従順という言葉はありません的なオーラを四六時中放っているような奴が、なんだってこんな」
「酷い言いようだな」
芙蓉は肩を竦める。
「私もいろいろと、思うところがあったのだ。曲がりなりにも式神である以上、命令に従わないのを当たり前のようにするのはどうかと思うし。それに、お前はいつもよくやっている。少しくらいは、お前に優しくしてやってもいいかと思ったのだ」
などと、包丁を握りしめながら語る。
どうやら冗談を言っている風ではないし、言動はしっかりしているから頭を打って気が狂ったわけでもないらしい。これ以上水を差すようなことを言えば、彼女の手にした包丁の降り下ろされる先がまな板から自分の体に変わりそうなので、京介は口を噤む。
突然すぎる、芙蓉の心境の変化だった。
いつのまに彼女の辞書に従順という項目が新設されたのか。辞書の改訂でもあったのか。京介の頭の中には驚愕と疑問がぐるぐると渦巻く。
芙蓉の京介に対する態度が、百八十度変わってしまった。従順だったのが急に反抗的になったのを憂うというならまあ解るが、その逆である以上、本来ならば素直に喜べばいいのかもしれない。だが、なにぶん急すぎることなので、どう応じるべきか困ってしまう。なにか芙蓉に、心機一転のきっかけでもあったのだろうか。少し考えるが、これといったものは思い当たらない。
強いてあげるとするなら、一月にあった弁天との悶着だろうか。あの時彼女は、自分が発端で京介が危険に巻き込まれたと気にしていた。少し前の話にはなるものの、二か月ほど芙蓉なりに考えた結果こうなった、というのは、そんなに飛躍した考え方ではない――いや、やっぱりない、これはさすがに飛躍しすぎだろう。途中まで考えて、いやいやと京介は首を振って考え直す。自責や罪悪感からころりと態度を変えるような殊勝な性格を、芙蓉はしていないはずだ。
京介がいつまでも怪訝な視線を向けているのを感じたのか、芙蓉がいったん手を止めて振り返る。
「なんだ、私が素直なのは気に食わないのか?」
「いや、気に食わないわけじゃないけどさ、驚くに決まってるだろ、こんなの」
「たまにはそれなりに、お前に主人としての敬意を払ってやってもいいかと思っただけだ」
そんな上から目線に敬意を払う奴があるか、とツッコむべきところだったかもしれないが、混乱しきっていた京介は呆然と立ち尽くすほかなかった。
「待たせたな」
やがて芙蓉がテーブルに皿を運んでくる。
テーブルの上に並べられた二つのオムライス。予想以上に出来栄えのいいそれに、京介はもう何度目か解らない驚愕を抱く。
「普通に、美味しそう、だと……?」
芙蓉が自分のために料理をしてくれるなんて何かの間違いとしか思えなかった京介は、きっと期待させておいてダークマターみたいな品を出すようなトラップを仕掛けてくるに違いないと決めつけてかかっていた。しかし、実際に出てきたものは普通の料理である。おかしい。
京介の失礼な感想に、芙蓉は眉を寄せる。
「お前は私を何だと思っているんだ」
「いやいや、だってさ、こんなウルトラ超絶珍事、そろそろ落とし穴があると思って警戒して然るべきだろ」
「あまり無礼なことを言っていると強制的に口にぶち込むぞ」
じろりと睨まれ急かされるので、素直にいただく。
「お、美味しい……!?」
「なぜそんなに心外そうな顔で言うんだ」
信じられない気持ちで開いた口が塞がらない。見た目はきれいだが中身はクソマズというベタなトラップも仕掛けられていなかった。正真正銘普通に美味しいオムライスだなんて、信じがたい。
「あ、あれか、芙蓉、無味無臭の毒が盛られて」
「いるわけないだろうが! お前は私を何だと思ってる!」
このバカ主め、と芙蓉は拗ねたようにそっぽを向く。
「おおかた、私を戦うしか能の無い破壊魔だと思っていたのだろうが、私はだいたいのことはそつなくこなす。一言で言うと天才だ」
「なにその迷いのない自画自賛」
「今のうちに言っておくが、これからは、私がお前に従うことにいちいち驚いていたらキリがないぞ」
「え」
「もうお前と契約を結んで二年以上経つ。ずっとお前のことを傍で見ていた。お前のことは理解したつもりだ。そろそろお前を主として認めるべきだと、考えている」
「それって……」
まさかの反抗期終了宣言?
何の前触れもなく唐突に告げられた忠誠に、京介はどう応じるべきか解らなかった。
本来なら喜ぶべきところかもしれないが、なまじ反抗期期間が長すぎたせいで、何かの罠だと警戒する気持ちが勝り素直に喜ぶのが難しい。上から目線な女王様気質が芙蓉のスタンダードで、アイデンティティみたいなものだと思っていたゆえに、それをあっさり手離そうとする芙蓉の真意を測りあぐねる。
「私をただのひねくれた天邪鬼とでも思っていたのか? 私はなにも、理由なく反抗していたわけではない。この二年間はお前を見定めるために必要な時間だった。そして答えは出た。そういうことだ。解ったら、いつまでも呆けた顔をしていないで現実を受け入れろ」
「受け入れろって……」
「私はお前の忠実な式神だ。何も驚くことはない。本来あるべき姿になるというだけの話だ」
芙蓉は力強く教え諭す。
京介はしばらく――少なくとも、食べかけたオムライスが完全に冷めきるまでは、目を白黒させて呆然としていた。




