博愛主義者の選択肢(4)
海に面する沿岸地域、桜城地区。砂浜に打ち上げられた石が仏像のような形をしていたとかで、地元の漁師たちがこぞって崇拝し、水神宮まで作ってしまった。それに応えるべく、戎ノ宮は水を浄め、地を浄め、結果として妖たちは傷つき土地を追われた。力のある妖怪は、低級の妖怪たちを匿い、傷を癒した。
だが、いくら傷を癒したとしても、戎ノ宮が浄化の猛威を振るい続ける以上はただのいたちごっこだ。終止符を打つためには戎ノ宮を排斥する必要がある。それができるのは力のある妖だけ。ゆえに紗雪御前は立ち上がった。
妖たちの安息の場所を守るため――優しい理由で立ち上がった彼女は、しかし妖らしく手段は選ばない。紗雪の選択は決して優しいものではなかった。
敵地へと近づく足を、紗雪は不意に止める。
海を臨む高台に建てられた社がすぐ先に見えていた。鳥居を抜け、石畳を進んだ先、五十メートルほどの場所だ。ここまでは難なく近づくことのできた紗雪だが、ここから先は難しい。結界、というほど明確な境界線が作られているわけではないものの、社の周囲には戎ノ宮の清浄な気が満ちている。これ以上の接近はさしもの紗雪でも厳しかった。
「まったく、憎らしいくらい強い気配ですわね。わたしくしでも近づけない……ですが、近づかずとも破壊できる手立てを用意して参りましたから、問題はありませんけれど」
後ろには魔術師たちを引き連れている。いずれも、紗雪が妖術によって操っている手駒だ。
手駒とした五人の魔術師を操作する。虚ろな目をした男たちがそれぞれの得物を手に社へと進軍を始める。その五つの背を見送りながら、紗雪は苦笑交じりに溜息をつく。
「わたくしの術……『氷華香炉』は完璧のはずなのですが、やはりあなたはそう簡単には堕ちてくれませんのね」
軽く肩を竦めながら振り返る先で、京介が立ち竦んでいる。唇をきつく噛み、熱に浮かされたように潤んだ目で紗雪を必死で睨みつけてくる。うっすらと汗の滲む体を固く強張らせ、一瞬たりとも気を抜こうとしない。油断すれば意思を奪われると解っているのだろう。
「催眠暗示はわたくしの十八番なので、これであなたを屈服させられないのは、ちょっとショックですわ」
通常ならば嫌味の一つでも返ってきそうだが、京介は何も言い返さない。言葉を発する余裕はないようだ。もう少しで堕とせる、と紗雪は笑みを深くし、ゆったりとした足取りで京介に近づく。
吐息がかかるくらい近づいても、京介は金縛りに遭ったように動かない。完全ではないが、術は効いている。逃げる意思はすでに封じられている。
どん、と紗雪の背後では轟音が響く。その爆発音を皮切りに、立て続けに響き始める破壊音。魔術師たちが紗雪の命令に従い社を襲い始めたのだ。
だが、おそらく社には強力な守護障壁が張られている。彼らの力だけでは足りない。やはり京介を駒に加える必要がある。
紗雪は背伸びをして、京介の首に両腕を絡め抱きついた。ふわりと甘い香りで周囲を満たす。思考を凍てつかせ、人形の如くに制御する、惑いの香りだ。
「ん――」
腕の中で、強張った体から次第に力が抜けていくのが解る。
「ふふ、いい子……そのまま楽になっておしまいなさい」
少しずつ神経を蝕み、やがて完全に思考を奪う。抵抗がやんだのを確認すると、紗雪はそっと手を離す。強い意思を湛えていた京介の瞳は、今や虚ろだ。
紗雪は妖艶な微笑みのままに、冷たく命じる。
「――斬り殺しなさい」
京介の唇が薄く開く。
「……刈、夜叉」
掠れた声が右手に退魔の刀を喚び出す。よろよろと、僅かに危なげな足取りで歩き出す。術によって脳に強引に擦り込んだ敵・戎ノ宮の社を見据えている。
「これで……彼の力があれば、きっと神でさえも殺せ……、……?」
独りごちる紗雪は、ふと、遠くに立つ人影を見つけた。
紗雪の方に迷いなく近づいてくる、髪の長い女の妖。漆黒の剣を右手に携え、鋭い殺気を放つ女に、紗雪はぶるりと身震いする。
「わたくしが、震えている……? いったい、何者……」
戎ノ宮の強さとは違う、清浄さとはかけ離れた禍々しい妖気を感じさせる女だった。
「お前が紗雪御前とかいう三下妖怪か」
開口一番に失礼な問いを発し、こちらが答える前に女は続けた。
「そいつはお前ではなく私の玩具だ。お前にそいつを弄ぶ権利はない」
「ッ! まさか――」
紗雪ははっとする。傲岸不遜で、どちらが主人でどちらが従者か解らないような規格外の式神の存在を思い出す。不破京介を自分の計画に組み込む段階で、彼女の存在については調べた。ちっとも従順ではないという話であったし、京介を拉致する段階で妨害が入らなかったため、問題ないと判断していたが。
「今更不破の式神が邪魔をしようというんですの――!?」
「芙蓉姫、いざ参る」
びゅん、と弾丸の如く飛び出してきた芙蓉姫。紗雪は忌々しげに舌打ちし、右手を掲げる。
「来なさい、妖刀・白雪姫!」
芙蓉姫とは対照的に純白の剣を喚び出し対峙する。
振り下ろされる黒い剣を、紗雪はぎりぎりのところで受け止める。予想以上に重い一撃に腕が軋み、紗雪は顔を顰める。
「く、ぅ……」
「ふぅん? へし折るつもりだったんだが、意外と頑丈だな。曲がりなりにも妖か」
「舐めないで、くださいます……?」
「まあ、いい。お前は後回しだ」
そう言うと、芙蓉姫はぶつかり合った刀を支点にくるりと回り紗雪の頭上を飛び越える。言葉通り、あっさりと紗雪を素通りする。しまった、と思うが遅い。芙蓉姫は京介の前に回り込んでいる。
紗雪が止める間もなく、
「起きろ、バカ主」
芙蓉姫は京介の頬を容赦なく引っ叩いた。
★★★
ぱぁん、と小気味良い音が響き、右の頬がびりびりと痛んだ。五感のすべてに靄がかかって頭が麻痺していた、そんな中で、明確に、明瞭に響いた音と、鋭い痛みに思考が働き始める。
「え……?」
京介は呆然と目を見開く。唐突な痛みと、聞き慣れた罵倒の声に感情が揺さぶられる。
まさか、と思って視線を巡らせる。
が、目の前にいる相手の姿を捉える前に、今度は左頬を叩かれて視界がぶれる。さらに立て続けに、右、左、右と絶えることなく往復でビンタを食らわせられる。これはそろそろ頬が腫れあがるんじゃなかろうかというくらいの猛攻である。
叩かれすぎて唇が切れて血が出た。そのあたりで京介もキレた。
「……痛ってえええ! 何回ぶてば気が済むんだよいい加減にしろッ!」
それでも容赦なく降ってくる手を、京介は左手で掴んで止めた。そして目の前の相手を真正面から見つめた。
「ようやく目が覚めたか」
「芙蓉……芙蓉、お前!」
思わず刀を放り出し、両手で芙蓉の肩を掴んで揺さぶる。
「無事だったのか、芙蓉!? 怪我は? お前、心配したんだぞ!」
言った瞬間、芙蓉の手刀が思いっきり京介の頭をぶっ叩いた。
しゅうう、と煙が出そうな勢いでチョップを打ち込まれて、京介は悶絶する。
「痛ってぇぇ……なんでだよっ……」
「よくもまあ、真っ先に他人を心配できるものだ。自分の立場は理解できているか? 誰よりもぼろぼろになってた状態で敵に拉致されて心配をかけまくっていたのはお前の方だ、馬鹿が」
「う、それは」
「おまけに何をしているかと思えば、こんなところで討ち入りか」
「え、嘘……あれ……?」
見回すと、そこは水神宮の前。なぜ自分がそんなところにいるのか、よく思い出せない。片手で頭を押さえて記憶を探る。紗雪に拉致された先の屋敷で、魔術師たちと取っ組み合いをして。その後から、記憶が曖昧だった。
その時、覚えのある甘ったるい匂いが漂ってくる。途端に、頭の奥がじんと痺れて思考が霞む。
「成程、これが手品のタネか」
京介の意識を現実に引き戻したのは、芙蓉のそんな独り言と、直後に襲った頭部への衝撃だった。
「痛っ……てえええ!」
芙蓉お得意の本気チョップである。
「ぼんやりしていると禿げさせるぞ、京介。また催眠にかかりたくなかったら、呼吸を止めるか激痛で正気を保つかの二択だ」
「選択肢が鬼畜すぎる!」
ようやく思い出してきた。脳を侵す甘い香りと紗雪の浅葱色の瞳に惑わされて、催眠状態に落ちていたのだ。
紗雪の術は危険だが、危なくなった時に遠慮なく殴り飛ばしてくれる式神が隣にいるならば安心だ。刈夜叉を拾い上げ、京介はその切っ先を紗雪に向ける。
「くっ……制圧なさい!」
紗雪が命じると、未だ紗雪の催眠下にある魔術師たちが、標的を京介と芙蓉に変え、動き出す。
直後、ぱん、ぱんっ、と銃声が響く。と、男たちの周りを呪言の円環が巡り、動きを封じる。見覚えのある、拘束魔術だ。
振り仰ぐと、参道の脇に立つ木の上で、月花羅刹を構える歌子がいる。歌子は悪戯っぽくウィンクしてみせると、
「紅刃、やっちゃって!」
いつものように命じる。すると、召喚された紅刃が硬直する魔術師たちに素早く手刀を入れ、流れ作業で昏倒させていった。
あっという間に手駒を失ってしまった紗雪は、悔しそうに歯噛みする。
「わたくしを邪魔するんですの? あなたなら、わたくしの気持ちを、行動を、理解してくださると思っていましたのに」
紗雪の言葉に、京介の脳裏には傷ついた妖たちの姿が思い返された。それを噛みしめながら、しかし京介はきっぱりと口にする。
「お前のやり方には賛同できない。だから協力はできない。だが、俺だって現状を変えたい。別の方法を一緒に探してくれるなら、俺たちは敵同士じゃないはずだ」
「優しいんですのね。わたくしに、あなたのような優しさがひとかけらでもあれば、きっとあなたの手を取っていたでしょうけれど」
「お前だって十分優しいじゃないか。他の妖怪のために戦おうとしているだろう」
「――なんだ、お前も弁天と同じ、似非博愛主義者か」
隣で芙蓉がぼそりと呟いた。
「仲間想いのくせに、やたらと野蛮な手段を使いたがる。慈悲のすべては仲間にだけ向けられて、その他のことには頓着しない」
「解ったような口を利くではありませんか」
紗雪が不機嫌そうに低い声を上げるが、対する芙蓉は冷ややかに笑いながら紗雪を責め立てる。
「視野が狭いな、紗雪御前。私は戦いが好きだが、無用な殺生は好まない。戦いよりも簡単な方法があるなら、そして平和的に解決することに意義があるなら、私はそちらを選ぶ」
「言葉があるなら話し合いで解決しましょうって? 子どもの喧嘩じゃありませんのよ」
「気に入らないことがあるから殴って解決しようというほうが、よほど子どもじみた思考のように思えるがな」
「京介さんにも申し上げましたけれど、それでは駄目なんですのよ。百年先も千年先も平和でいるためには、敵を殺すしかありませんわ」
「言葉で獲得した束の間の平和に意味はない、か。笑わせてくれるな」
「何ですって」
芙蓉の嘲笑に、紗雪は気色ばむ。芙蓉は構わずまくしたてる。
「確かに、今は仮初の平和を手に入れても、神は再び荒ぶるかもしれない。京介だって間違いなく百年後には生きていないだろうし、その先のことまでは面倒見切れない。だがそれは、そうなったその時、また誰かが戦えばいいだけの話だ。なあ、紗雪御前、お前が守りたい仲間たちは、お前がそこまで面倒をみてやらなければならないほど弱いのか? 外敵を駆除し尽くして庇護しなければならないほど弱いままなのか? 強くなろうとせず、お前の優しさと甘さに寄りかかるばかりでは、妖たちはいずれ腐敗するぞ」
「腐敗……」
予想していなかった言葉に衝撃を受けたように、紗雪は呆然と呟く。
「望むもののためには戦い続けなければならない。戦い方は、それぞれだがな。お前は束の間の平和だと馬鹿にするが、今はそれでいいのではないか? 短い平穏が過ぎ去った後にまた嵐が来るならば、その頃には、お前以外にも立ち上がれる奴が増えているだろう」
「……わたくし一人が、永遠を謳うのは傲慢だというのですか」
「お前一人で背負う必要がないということだ」
それから芙蓉はふっと小さく笑うと、紗雪の後ろを指さした。
「まあ、くどくどと言いはしたがな。話はそう難しいことではないだろうと、私は思うがな」
見ると、社の扉が半開きになり、中から小さな影がひっそりとこちらを窺っている。
巫女服姿の、どう見ても小学生くらいにしか見えない少女が、おっかなびっくり声をかけてくる。
「あっ、あのっ、いったい何の騒ぎなんですかっ?」
騒ぎの原因、戎ノ宮であった。
「――えっ、えっ、わ、私のせいで妖たちが? ご、ごめんなさいっ! 私、きれいな方がみんな棲みやすいかと思って、ごめんなさいっ……ふえぇぇ」
「……」
新参者の土地神様は、事情を説明したら泣き出してしまった。弱い者いじめをしているようで気分がよくない。京介は溜息をつく。ちらりと見遣ると、紗雪御前が唖然としている。そりゃあそうだろう、仇敵として命を狙っていた土地神が、まさかこんな弱気なちんちくりんだったなんて。
「ははぁん、初めてではりきりすぎちゃったパターンだねこりゃ」
などと紅刃がしたり顔でうなずいている。
「紅刃、なんかもう私たちの出る幕なさそうだし、そろそろ帰りましょうよ」
歌子は呆れ顔でぼやく。
「はいはい、解決解決。もう帰るぞ、私はそろそろ昨日録画したサスペンスを見たい」
投げやりに芙蓉が言う。
「まったく、最初っから話をつけてりゃ、こんな面倒なことにならなかったっていうのに。似非博愛主義者は盲目的でこれだから困る。――おい、京介、いつまでぼやっとしている! 帰るぞ、バカ主!」
どっちが主だか解らない暴言を吐きながら、芙蓉が京介を引きずり始める。泣きじゃくる土地神と、それを必死で宥める困惑顔の紗雪御前。つい数分前まで命を狙う側と狙われる側だったようにはとても思えない。
「……まあ、いいか」
とりあえず大丈夫そうだな、と判断すると、京介は紗雪たちに背を向けた。
すたすたと歩いていく芙蓉に、問う。
「弁天と同じだって言ってたな。彼女はどうした。あのあと、どうなった?」
「弁天なら姿をくらました。もう奴が問題を起こすことはあるまい。魔術師狩りの一件は片が付いた」
「そうか」
「……随分とあっさり納得したものだな」
「お前がそう言うなら、問題ないだろう。お前、あいつと腐れ縁なんだろ?」
「まあな」
「なら大丈夫だ」
芙蓉が弁天を信じるというなら、京介もまた芙蓉を信じよう。芙蓉の言葉以上の根拠など必要ない。
「……お前には迷惑をかけたな」
「どうした、急に」
予想外の言葉に、京介は目を瞠る。今回の件は、確実に京介が足を引っ張って暴走をして心配をかけてといった具合で、確実に京介の方が話をややこしくしていた。芙蓉に謝罪されるいわれはないはずだった。
「弁天がお前を狙ったのは、私が原因だ。あいつは……私が面倒な主人に捕まっていると思っていたらしい。だから、主人を殺して私を解放しようとしていた」
「……そう、か」
京介は芙蓉を責めたりなどしない。代わりに微笑んで告げる。
「そこは謝るんじゃなくて、自分にはこんなに優しい友達がいるんだって自慢するところだぜ」
すると芙蓉は、悔しそうな、拗ねたような、照れたような顔で唇を尖らせた。
「……友達じゃない、腐れ縁だ」




