博愛主義者の選択肢(3)
薄暗い廊下を竜胆は歩いていく。鉄格子越しに、陰鬱そうな顔をした妖たちを眺めながら奥へ進んでいくと、やがて目当ての相手のいる牢の前に辿り着いた。灰色の囚人服を着た少女・恋歌は、鉄格子の向こうで膝を抱えて座っている。
どちらかといえば不景気で不機嫌そうな顔をしている恋歌に、竜胆は嫌味のように晴れやかな笑顔を向けた。
「やあ、起きててくれてよかった。君に話があるんだ、恋歌ちゃん」
白い髪を揺らし、恋歌が竜胆と目を合わせる。
「あなた、誰」
「不破竜胆。君をぶっ飛ばした京介の祖母であり、君をこの豚箱にぶち込んだ張本人だ」
馬鹿正直に暴露すると、恋歌の声の温度が二度ほど下がった。
「つまり、仇敵ってことね。なら、話すことなんかないわ」
「聞いておいた方がいいと思うよ? なにせ、君にとっては朗報だ」
「ここから出してくれるわけ?」
「そうではないけれど。でもこれを聞けば、君は慌てて牢を出る必要がないって解ると思うけれど」
「どういうこと」
そこで竜胆は、困ったような笑みを作ってみせる。
「やられたよ、まさか君に同士がいたとはね」
「何のこと」
「紗雪御前にしてやられたってことさ」
「紗雪ねえさまが……?」
恋歌の表情が変わる。食いついたようだな、と確信しながら、竜胆は続ける。
「彼女はうちの京介を使って、見事に君たちの悲願を達成してしまった。まったく、よくもあの大物を殺してくれたもんだ、おかげで神ヶ原はてんやわんや」
すると、恋歌はぱっと表情を明るくして叫んだ。
「ねえさま、ついに……ついにあの憎き神、戎ノ宮を討ち取ったのね!?」
竜胆はにやりと笑う。
「……戎ノ宮、ね。いやはや、恋歌ちゃん、君は可愛いくらい素直でいい子だ。そういうわけだから、悪いけど今の話は忘れてくれる?」
「え」
竜胆はぱちん、と指を鳴らす。瞬間、恋歌は目を見開き、糸が切れたように気を失って冷たい床に倒れた。目が覚めた時には、自分が口を滑らせたことは綺麗さっぱり忘れていることだろう。
戦闘をしない代わりに暗躍を得意とする竜胆にとって、誘導尋問など朝飯前だ。
敵の目的は解った。
「さて、必要な情報は手に入れた。紗雪御前の標的は戎ノ宮か。これは面白くなってきた……いや、面白がってる場合じゃないんだけど」
竜胆は肩を竦め、来た道を戻っていく。
★★★
クローゼットに入っていたジーンズ、ワイシャツと黒のジャケットを渋々着て、ようやく人心地ついた。
呪符は全部取り上げられているし、魔術を封じる仕掛けのせいで、相変わらず刀を使うことさえもできない。試しに部屋の扉に触れてみるが、取っ手に触った瞬間ばちりと電流が走った。
窓の方にも近づいてみたが、同じようにガラス戸を開けようとすると指先が痺れた。そっと窓の外を覗いてみると、どうやらここが三階にある部屋らしいということまでは解った。窓さえ開いてくれれば飛び降りてもいい高さだが、あまり乗り気はしない、そもそも結界が解ける気配もない。
完全に閉じ込められている。ここから逃がす気はないらしい。拘束されていないだけ扱いは悪くないが、行動の自由が許されないのは面白くない。
幸い、話の通じない相手というわけではない。万全の調子じゃない上に丸腰の状態で強行突破するより、まずは紗雪御前の話を聞いて交渉するべきだ――ふだんならそう考えていたはずだ。
だが、芙蓉のことが心配だ。一刻も早く芙蓉の無事を確認したい。歌子や紅刃のことだって気にかかる。弁天は結局どうなったのだろう。ついでに風間の心配だってしてやってもいい。とにかく、のんびりしている余裕は、京介にはなかった。
「となると、やっぱり……」
「――強行突破、なんて考えないでくださいましね?」
「!」
出し抜けに声を掛けられて京介は思わず仰け反る。気配なく近づいてきていた紗雪が顔を覗き込んでいた。
「急に出てくんな、心臓に悪い」
「あら、それは失礼」
たいして悪いと思っていないふうに、紗雪は無邪気に微笑む。
「改めて申し上げておきますけれど、変な気は起こさないでくださいまし。手荒な真似はしたくありませんの。あなたは大事な戦力ですし」
「戦力、ね。誰を殺したいって?」
「戎ノ宮」
「誰だ、それは」
「教えて差し上げますわよ。ですがその前に、ご覧に入れたいものがありますの。ついていらして」
そう言うと、紗雪はベッドの脇に京介の靴を揃える。京介が立ち上がりそれを履くのを確認すると、紗雪は無防備な背中を見せて歩き出す。随分舐められているな、とは思うものの、今の状態では紗雪をどうにもできないのは事実だ。京介は溜息交じりに大人しく紗雪の後についていく。
部屋を出ると、赤い絨毯の敷き詰められた廊下が続いている。試しに右手に力を込めてみるが、やはり刀を呼び出すことはできなかった。
廊下は長く、その両脇には扉が規則的な間隔で並んでいる。紗雪以外にもここには誰かいるのだろうか、部屋数はやたらと多そうだった。
直角に二回ほど廊下を曲がり、辿り着いた先の扉を押し開け、紗雪は京介を中に招き入れる。
中にあったのは、たくさんのベッド。予想していなかった光景に、京介は思わず息を呑んだ。
白いパイプベッドがぎっしりと並んでいて、白衣を着た妖が忙しなく動き回っている。ベッドの上に横たわるのは、いずれも異形の妖たちだ。獣の姿の者、角の生えた者など、さまざまな妖たちがベッドで休んでいて、姿に共通点はない。共通していることといえば、みな一様に顔色が悪いということくらいだ。
「……彼らは?」
「戎ノ宮にやられたんですのよ、みんな」
紗雪は京介に向き直り、言う。
「ねえ、京介さん。あなたの目は、力のない小さな妖の姿も見えるのでしょう? 人と妖をつなぐあなたなら、傷ついている彼らの痛みを解ってあげられるでしょう?」
何があったか、詳しいことは解らない。だが、戎ノ宮によって傷ついた妖がいる、となれば、紗雪御前の目的もだいたい読めてくる。京介は慎重に問う。
「……俺にさせたいのは、復讐の手伝いか?」
「いいえ。彼らのような被害者をこれ以上出さないために。戎ノ宮は粛清されなければなりませんのよ」
「事情を聞かせろ。戎ノ宮ってのは何者だ」
紗雪御前は哀しげな微笑みを浮かべ答える。
「神様」
「エビス、といえば、七福神の一柱であることは有名ですが、エビスというのは寄り神でもありますわ。すなわち、遠く海から来る神ですの。その根底にあるのは海からの漂着物に対する信仰……戎ノ宮も、遥かな海から神ヶ原に流れ着いた漂流物が祀り上げられることで神格化した神です。漂流物は現在、桜城地区の神社に祭られる御神体となっていて、戎ノ宮は土地神として力を振るっていますわ」
傷ついた妖たちにはその名前すら聞かせたくないと、紗雪は再び場所を変えて、三階の一室に京介を案内した。慣れた手つきで紅茶を淹れると、両手でティーカップを包むように持ち、猫舌らしくふうふうと念入りに息を吹きかけて冷ましながら、紗雪は語った。京介はまだ警戒して、紅茶には手を付けていなかった。
「要は、つい最近神として目覚めた新参者の土地神なのですが、あれを祀り上げた人々はよほど信仰心が強かったとみえて、戎ノ宮は強い浄化の力を持ち、土地を浄め始めたのです。それだけ聞けば美談ですけれど、浄めの力は妖にとってはあまり気分のいいものではありませんから。たとえるなら、綺麗すぎる水に魚が棲めないようなものでしょうか。低級の妖怪たちはあのとおりです」
「それで、戎ノ宮を排除しようとしているのか」
「妖怪に対して敵意があるのか、人間の信仰に応えるための完全なる善意なのか、どちらにしても厄介極まりない相手ですわ。古くから棲みついていた妖たちも強い光の力にあてられて次々と住処を追われています。やたらめったらに土地を浄め祓うんですもの。ええ、確かに妖の中には悪さをするものもいますし、そういった輩を懲らしめるのならわたくしだって文句は申しませんわ。ですがあの神は質が悪いんですの。妖を一切近づけないほどの強い浄化の力を使いますわ……ですから、戦力が必要なんですの。妖怪ではなく、魔術師の」
清浄な光を放つ神相手に妖では立ち向かえない。ゆえに、紗雪は人間を利用することを思いついたようだ。
「話はだいたい理解した。だが、殺すというのは行き過ぎだ。なんで一足飛びに話がそこまで過激になる」
「偽善に満ちた馬鹿な神様なんですのよ。馬鹿は死んでも治らないと言いますでしょう」
紗雪の瞳に昏い光が宿る。
傷ついた妖のために戦おうとしている。その心根は優しいのだろう。だが、妖の性なのか、解決のための手段が褒められたものではない。
「話の通じない相手というわけじゃないんだろう。そういう事情なら俺が妖の側に立つ。戎ノ宮と話をつける」
「さすがは不破の魔術師様。お優しいですこと。けれど、優しいだけでは何も解決しませんの」
紗雪は微笑みながら、しかし棘のある言葉を吐く。
「ええ、確かに、あなたがわたくしたちの味方をして交渉してくれれば、戎ノ宮は大人しくなるかもしれませんわ。ですが、その安寧はいつまで続くんですの? 五年? 十年? わたくしたち妖は、あなたが死んだその何百年あとまで生きながらえるんですもの、たかだか十年の安寧を勝ち取った程度、何の意味もありませんの。永久の安寧のためには敵を殺すしかない……弱肉強食、本当にほしいものは戦わなければ手に入りはしない、それが妖のさだめ」
カップを置き、紗雪が立ち上がる。
交渉は決裂らしい。不穏な空気を感じ、京介も立ち上がり、紗雪と距離を置く。
紗雪は溜息をつき、ぱちんと指を鳴らす。それを合図に部屋の扉が開き、五人の男が中に入ってきた。統率のとれた動き、というよりどこか機械じみた動きで、男たちは素早く京介を取り囲む。紗雪の仲間の妖かと思って振り返るが、違った。京介の目は人間と妖を見分ける。立っていたのは人間だった。
「魔術師か」
「あなた以外にもわたくしに協力してくれる賛同者はいますのよ」
「賛同者? その割には」
男たちをぐるりと見回し、京介は焦燥を滲ませながら強がるように笑う。
「全員、目が虚ろだぜ」
「みなさん、わたくしの虜なんですのよ?」
魔術師たちは、どう見ても正気ではなかった。
「捕まえてくださいな」
紗雪が命じると同時に、男たちが飛び掛かってくる。悪いとは思いつつも、京介はまず一人を殴りつけ怯ませた隙に、向かってくるもう一人の男の方へ放り投げて倒す。
すると、背後に忍び寄る気配。振り返る暇もなく後ろから羽交い絞めにされる。背に当たる体の感触で、相手が頑丈らしいことが窺えた。力ずくでは振りほどけそうにないとみるや、京介は反動をつけて相手の顔面に後頭部で頭突きを食らわせ、すかさず足の甲に踵を落とす。
「ぐぅっ」
呻き声と共に拘束が緩むと、腕を振りほどき、体を捻り裏拳で男の頬を殴り飛ばす。最後に、前方から同時にやってきた男二人は、顎先を蹴り飛ばして沈める。
ここまで十秒。
「あらまあ」
紗雪が目を丸くする。
「退魔師は体術も勉強なさるのね」
「うちの師匠がスパルタなんでな」
「素晴らしいですわ。ですが、結局のところ、魔術が使えないのではわたくしの敵ではありませんわ」
ぱちん、と再び指を鳴らす。すると、倒れていた男たちが一斉に起き上がる。ダメージなど存在しなかったかのように、あっさりと復活する魔術師たち。
「あなたはとても優しい方……彼らが操られているだけの可哀想な人間だと解って、無意識のうちに手を抜いて差し上げたのでしょう。ですが、手加減して倒せる相手ではありませんの。わたくしのしもべである彼らは、わたくしの力で加護を受けていますの。とてもタフなんですのよ」
両脇に男が立ち、腕を押さえられる。そして、大きな掌で頭を押さえられ、無理やり跪かせられる。
大の男によってたかって組み付かれ、おまけに相手は妖力による加護つきで、こっちは魔術は封じられているときた。どうしろっていうんだ、と京介は内心で毒づく。
強引に下を向かされた視界に、紗雪の足元が入る。紗雪は目の前でしゃがみこみ京介に視線を合わせる。白い指先が京介の頬にそっと触れた。
瞬間、鼻先を甘い香りが掠める。
「……?」
絡みつくような甘ったるい匂いが体に纏わりつく。途端に体から力が抜け、思考が霞み出した。
頭の端で、まずい、と思うが、遅い。
「京介さん、わたくしの目を見て」
言われるがままに、紗雪と目を合わせる。妖しい光を宿す浅葱色の瞳に魅入られる。目を逸らせない。
甘い微睡みに誘われて瞼が下りていく。
駄目だ、と脳裏で警告が発せられる。しかし、いっそう濃く深くなっていく甘い匂いが警鐘をかき消し、京介の意識を呑み込んだ。




