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博愛主義者の選択肢(1)

「駄目だって言ってんでしょーがッ」

 影の槍が迫り京介を貫こうとした寸前、歌子が京介に飛び掛かり押し飛ばした。間一髪、槍は何もない地面に突き刺さった。

 京介は煩わしげに軽く眉を寄せ体を起こすが、歌子に押さえつけられているせいで立ち上がれなかった。

「離せ」

 低く告げると、歌子はキッと睨みつけて叫んだ。

「今離したら、また暴走して突っ込んでいくでしょ! ちょっと頭を冷やしなさいよ! 無策で勝てる相手じゃないんだから」

 言いながら、歌子はつらそうに顔を顰める。京介が放つ炎が、歌子までも巻き込んで更に膨れ上がろうとしていた。それを捉えた瞬間、京介の思考に冷静さが戻ってきて、次いでそれが焦燥に侵される。

「歌子っ、離れろ、火が回る」

「あー、やっとこ正気になってくれたぁ。もー世話の焼けるぅぅ」

「言ってる場合じゃないって! ああ、くそっ」

 京介は急いで呪符を繰り、大量の水を湧かせる。バケツどころか風呂釜をひっくり返したような水をひっかぶり、強引に鎮火。水を含んだ前髪を掻き上げ、溜息をつく。

 歌子がふるふると体を振って水を飛ばしながらどいてくれる。

「冷静になったなら、撤退戦よ。紅刃もそろそろ限界」

 見ると、歌子が京介の暴走を止める間、弁天の攻撃を紅刃が引き受けてくれていた。息つく間もなく飛来する影の矢羽を赤い短刀で捌きながら、「お嬢~、いい加減無理っぽいよ~」と紅刃が苦笑交じりに叫んでいる。

「俺はまだやれる……芙蓉が……」

 言いながら立ち上がる京介だが、その瞬間、体がびくっと震えた。胸を締め付けられるような感覚。喉の奥から熱いものがせり上がり、ごぽりと血を吐いてしまう。口の中に鉄錆臭さが広がる。脚からすとんと力が抜けてへたり込む。苦痛の広がる胸を押さえ、京介は舌打ちする。

 歌子はやれやれと首を振る。

「どこらへんを指してまだやれるのか教えてほしいのだけれど? あんな暴走状態、体に負担がかかるのは当然よ。制御できない力は、そりゃあ一瞬だけなら格上の相手を圧倒できるかもしれないけれど、最終的には自分が破滅するだけ」

 歌子に言われるまでもなく解っていたはずのことだというのに。怒りで思考が焼けて、抑えが利かなくなった。その代償が、これだ。仲間である歌子でさえも巻き込みかけた。

 自分の未熟さと愚かさに反吐が出そうになる。京介は悔しげに歯噛みする。

「……悪い、歌子」

「解ればいいのよ、んじゃ、とっとと逃げるわ」

「だけど……」

「大丈夫よ、あなたの式神はそんな簡単にやられるような可愛い奴じゃないでしょ」

 解っている。解っているはずなのに。

 それでも、芙蓉を見捨てて逃げることには抵抗がある。

 だが京介がぐずぐず悩んでいる間に、歌子が手を引いて、強引に立ち上がらせる。

「あなたが死んだら元も子も……って、えぇっ!?」

 言いかけた歌子が目を瞠り叫ぶ。何事かと思えば、歌子の脚を拘束するように氷が纏わりついていた。視線を巡らせれば、紅刃も弁天も、そして京介自身も氷によって地面に縫いつけられている。

「ちょっと、何よこれっ」

「お嬢、気を付けて!」

「気を付けようがないでしょうがっ」

 無茶言うな、と喚く歌子。弁天も、訝しげに眉を寄せている。弁天までも氷の餌食になっているということは、彼女の仕業ではないということだ。

 もしや今まで存在をすっかり忘れていた風間がまさかの伏兵だったのだろうかと思いかけた時、京介たちの目の前に人影が降ってきた。

 メイドのようなエプロンドレスを纏う女で、黒いセミロングの上にカチューシャを載せ、浅葱色の瞳が愉悦を浮かべている。

「誰だ」

 突然の闖入者に真っ先に不愉快そうな声をあげたのは弁天だった。弁天を肩越しに振り返ると、女は軽い嘲笑交じりに言う。

「漁夫の利を狙う、狡い妖ですわ」

 それでもう弁天への興味を失ったようで、女は京介と歌子を交互に見る。そしてふっと微笑み、スカートの裾をつまんで優雅にお辞儀などしてみせる。

「初めまして、わたくしは紗雪御前さゆきごぜん。お互いいい感じに潰しあってくれたようですので、そろそろわたくしが獲物を掻っ攫ってもいいかしらと思って出てまいりましたわ」

 にっこりと笑いながら、紗雪御前と名乗る女の妖は、獲物を見定めるように舌なめずりをする。

 とりあえず敵、と判断したらしく、歌子が月花羅刹を照準する。だが、引き金を引くより早く、紗雪御前がふぅっと息を吹きかけると、銃口がみるみる凍りついた。歌子の表情も凍りつく。これでは撃てない。

「活きのいいお嬢さん。まずはあなたから」

 紗雪が歌子に手を伸ばす。武器を封じられた歌子は目を見開き硬直している。

「焔々現界」

 固まる歌子の代わりに京介が動いた。素早く唱えると、足元に向かって小さな火焔を放つ。熱で氷の拘束を緩めると、京介は歌子の腕を引いて強引に後ろに下がらせ、代わりに自分が前に出る。

「烈火……」

 続けて呪符を放とうとする。しかしそれより早く、紗雪御前は右手に氷のナイフを作り出し、素早く擲った。至近距離から放たれたナイフは呪符を貫き、京介の手から弾き飛ばしていった。

 先刻の暴走のせいで消耗していて、動きが鈍っていた。京介が慌てて次の呪符に手を伸ばす前に、紗雪の拳が鳩尾に捻じ込まれた。

「か、はっ……」

 強い衝撃に一瞬息が止まり、気が遠くなる。がくりと膝をついて蹲る。

「京介君!」

 歌子の叫び声に、なんとか意識を保つ。

「歌子、逃げろ……」

 掠れた声で呻くように絞り出す。直後、紗雪が脚を振り上げ、無理やり黙らせるように、京介の後頭部に踵を落とした。

 ぐんっ、と視界が回り、暗転。

 為す術なく地面に倒され、意識が刈り取られた。


★★★


 たぶんまずいことになっている、と歌子は思う。

 烏丸弁天だけでも厄介だったのに、ここにきてまた新手だなんて冗談じゃない。不意打ちで拘束され、危うくやられそうになったのは不覚だった。それを、京介の機転でなんとか逃れたまではよかった。しかし、その代償のように、京介は紗雪の足元に崩れ落ちている。

 満足そうに微笑む紗雪が、今度は歌子に目を合わせる。次こそお前が標的だと言わんばかりに。

 その時、がしゃん、と氷が砕ける激しい音が響き、歌子と紗雪が同時に振り返った。

 紅刃が赤い刃を己の足元に向けて放ち、氷の足枷を破壊していた。

「お嬢から離れろッ」

 敵意に満ちた表情で、紅刃は跳躍する。紗雪の頭上に向けて、無数の赤い刃を放つ。

「ふふ、血の気の多いこと」

 対する紗雪は優雅に微笑みながら、氷の刃を宙に浮かべ、迎撃する。赤の刃と銀の刃がぶつかり合い、互いに砕け散る。

 舌打ち交じりに着地すると、紅刃は次なる刃を構えた。それを見据えて、紗雪は肩を竦める。

「活きのいいお嬢さんも欲しいところですが、そちらの用心棒が面倒そうですわね」

 口惜しそうに一人ごち、小さく頷くと、

「仕方がありませんわ。贅沢を言っている余裕はなさそうですし、この子だけ、貰っていきますわ。あしからず」

 そう結論付けると、紗雪は京介をひょいと担ぎ上げてしまう。完全に意識がないらしく、京介はぴくりとも反応しない。代わりに焦ったのは歌子である。

「か、勝手なこと言ってんじゃないわよ!」

 このままみすみす連れて行かせてたまるものか。歌子は反射的に銃を紗雪に向ける。が、銃口は凍ったままだった。

「ちょっと、嘘っ!」

 手をこまねいている歌子を鼻で笑い、紗雪は去っていく。みるみる遠ざかる背中に、焦燥だけが募る。

「待ちなさい!」

 当然紗雪は待たない。既に、声すら届かない場所まで遠ざかっていた。武器を奪われたままで、しかしなんとか追い縋ろうとする歌子だったが、

「お嬢!!」

 紅刃の切羽詰まった金切り声にはっとする。

 歌子が京介の方に意識を取られている間に、弁天は影の矢羽で足を戒める氷を打ち砕き自由になっていたのだ。余計な闖入者のせいで面倒なことになっていたが、最初の敵、弁天を忘れるわけにはいかない。弁天は紗雪にはかまわず、そして彼女に連れ去られた京介に早々に見切りをつけると、歌子を次の標的にしていた。紅刃の脇をすり抜け、弁天が歌子に襲いかかろうとする。

「くそっ!」

 紅刃が毒づきながら全力で駆けてくる。どうにか一歩早く歌子の元に駆け付けると、歌子を庇うように前に立ち、弁天が振るう影羽々斬を受け止めた。

 紅刃の能力により、弁天の影の刃は一瞬動きを止め、それを察した弁天によって自滅させられる。だが、それがただのいたちごっこにしかならないことは解っていた。

 歌子と紅刃、そして弁天が睨みあい、間合いをはかる。次にどう動くべきか慎重に考えていた。

 紅刃の緊張した背中に、歌子は小さく問いかける。

「どうする、紅刃? 私たち二人で弁天から逃げて京介君を追いかけて? だいぶハードじゃないの」

「かなりハードだ、無茶ぶりだ」

 紅刃は困ったように笑った。

 その時。

 地面からどろりと黒い闇が零れだした。

「何?」

 闇は膨れ上がり、蠢く。それを見て、弁天が目を瞠った。

影牢カゲロウが……?」

 やがて巨大な球体となった黒いそれは、芙蓉を呑み込んだ頭と同じもののように見えた。

 直後、闇の中から黒い剣が飛び出し、刃はぐるりと回転し、内側から球体を斬り裂いた。

 闇色の頭が弾け飛び、中から姿を現したのは、黒曜剣を握りしめる芙蓉だった。

「芙蓉さん!」

「……おヒメ」

 歌子が希望に満ちた声で、弁天が悔しげな声で芙蓉を呼ぶ。芙蓉は無表情にぐるりとまわりを見回すと、不愉快そうに眉を寄せた。

「……京介」

 京介がいないことには即座に気づいたようだった。歌子が告げる。

「芙蓉さん、京介君が、紗雪御前とかいう妖に連れていかれたの!」

 聞いた瞬間、芙蓉が舌打ちした。

 芙蓉は弁天を睨みつけると、

「お前のお遊びに付き合わされたおかげでこのザマだ。茶番は終いにするぞ、弁天」

「茶番? 私は真剣だよ、おヒメ。今すぐお前を楽にしてやれる」

 弁天はまだ続けるつもりだ。歌子は月花羅刹を握りしめ――相変わらず銃口が凍ったままで使えないのだが――警戒する。それを、芙蓉が制した。

「弁天と戦っている暇はない。その理由も、特にない」

「おヒメ」

「お前の目的は京介だったのだろう? ならば、ここにはもうお前の敵はいない。もっとも、京介ですらお前の敵ではなかったはずだが」

「敵だよ。私にとってはみんな敵。そこのお嬢さんもね」

 弁天が歌子を見て笑う。紅刃が牽制するように弁天を睨むが、彼女はちっとも気にしていないふうだ。

「結局、何が目的なわけ。なんで京介君を狙うのよ」

 歌子の問いに答えたのは、芙蓉だった。

「弁天は似非博愛主義者さ。こいつが愛するのは、今も昔も、妖だけだがな」

「その通りさ。私は仲間を愛する博愛主義者。だから、妖を式神として貶める魔術師が大嫌いなのさ」

 弁天は肩を竦めそう言う。

「そこの魔術師が、自分の式神に何をしていたか知っている?」

 突然槍玉に挙げられたのは風間だった。歌子でさえなかば存在を忘れかけていた魔術師・風間は、弁天との乱闘の間、ずっと地面に無様に座り込んだままいた。唐突に水を向けられた風間は面白いくらい大袈裟にびくりと肩を震わせた。

「役立たずだって散々罵るんだ。式神が陰で泣いているのも知らない。そのくせ、自分のほうがもっと何もできない役立たずだ。私が影牢で式神を閉じ込めてやったら、従者をあっさり見捨てて無様に逃げ出した」

「その式神、結局どうした?」

「解放してやったけど、その後契約は解消。その方がお互いのためだろう? どんなに尽くしても、最後にはあっさり使い捨てされるって解ったら式神だって絶望しかないだろうし。妖ってのは、自由が似合う生き物だ。そして魔術師なんて一皮剥けばみんな同じ下衆野郎。妖が魔術師なんかに使われるのは馬鹿らしい」

「そうやって不憫な妖を解放して自己満足か、弁天?」

「自己満足なものか!」

 弁天は心外そうに叫ぶが、芙蓉は淡々と続けた。

「結果として自由になれた妖もいるかもしれないが、その調子でお前の考えを押しつけるのは危険なことだ。魔術師なんてみんな同じで、式神はみんな可哀相か? 京介や私がそう見えたなら、お前の目は腐ったな」

「なぜだ、おヒメ。私が噂を知らないとでも? 私が一番救いたかったのはお前だ。お前は主人に……」

「弁天、それは昔の話だ。私のことはもう放っておけ」

 弁天の言葉を遮り、芙蓉は言い放つ。弁天が傷ついたような顔をした。

 芙蓉はそれから、少し考えるような間をおいて、告げる。

「……だが、礼を言う。私を救おうだなんて世迷言を口にしてくれるような腐れ縁はお前くらいだ」

 すると、弁天の強張っていた表情が穏やかになる。

「そうか、お前は変わったんだな、おヒメ」

 そう言い残すと、弁天は踵を返す。芙蓉ももう用が済んだらしく、弁天にあっさり背を向けて歩き出す。

 先刻までの戦いが嘘みたいな、驚くほどあっさりとした幕引き。あっけにとられていると、

「竜胆ばーさんのところへ行く」

 短く告げてすたすたと歩いて行ってしまう芙蓉。歌子と紅刃は慌てて追いかけた。

「ふ、芙蓉さん」

「弁天の件は片付いた」

「片付いたって、いいの、ほうっておいて」

「問題ない」

「風間のことは」

「放置」

 随分無責任なことを言ってくれるな、と歌子はひっそりと思うが、まあ退いてくれた敵や三下魔術師にかまっている暇がないのは事実だ。

「残る問題は京介のことだが、わざわざ連れ去ったからには殺しはしないだろう。連れ戻すには情報が足りない。竜胆ばーさんに訊く」

「確かにそうするのが一番よさそうだけど……ねえ、弁天のこと、片付いたっていうけど、私には何が何だか……」

 早足で歩く芙蓉に歩調を合わせながら問うと、芙蓉は速度を緩めることなく説明する。

「さっきも言った通り、奴は主人に虐げられる式神を解放するために動いていた。妖の味方気取りの、必要悪のつもりだろう。京介を狙ったのは……その昔、私が主人と上手くいっていなかったのを聞いて、それを覚えていたんだろう」

 歌子はその言葉に疑問を抱く。京介と芙蓉は、まあ、命令をちっとも聞かない現状を上手くいっていると言っていいのかという問題はあるが、少なくとも、そう険悪な関係ではない。風間が自分の式神に行っていたようなことはしていない。

 昔は違ったというのだろうか。

 しかし今は芙蓉の過去を探っている場合ではない。歌子は浮かんだ疑問を頭の隅に押し込み、芙蓉についていった。

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