烏の羽は不吉の合図(3)
顎に黒いブーツの爪先を食い込ませ、弁天を蹴り飛ばす。弁天の華奢の体は軽々と吹き飛び、地面を転がって行った。
のしかかる重さも喉を塞ぐ負荷も消え去り、京介は激しく咽ながら体を起こす。くらくらする頭を押さえ見上げると、眼前には濡羽色の髪を揺らす少女が仁王立ちしている。
「随分と無様な格好をしているようだが、それは新手のプレイか、バカ主」
主に対して敬意の欠片もない言葉を落としたのは、芙蓉であった。
「芙蓉、なんでここに」
京介は芙蓉を召喚していない。つまり、芙蓉が自らここへやってきたということだ。呼んでも来てくれないことさえある問題児が、呼ばれてないのに助けに来てくれるなんて、奇跡に近いことだ。
「助けに来てくれたのか」
「馬鹿言え、そんなわけないだろう」
迷いなく否定されて京介はそこはかとなく傷ついた。
「九時からのドラマを見ようと思ってお前のアパートに行ったら留守で入れない。竜胆ばーさんの屋敷に行ったら、竜胆ばーさんは違うチャンネルを見るというじゃないか。仕方がないから録画予約をさせてもらった。お前のせいでリアルタイム視聴をふいにしたではないか」
「この状況でそんなつまんない文句つけに来たのかよ」
「聞けばお前は公園で張り込みだというから、私もそれに便乗してお前を張り倒そうと思って来た」
「便乗ってなんだよ、張り込むのと張り倒すのとじゃだいぶ違うぞ」
「だいたい、竜胆ばーさんには行先を告げ、黒須歌子は加勢しているのに、私だけ何も知らされていないとはどういうことだ」
「だってお前、頼んだって十中八九手伝ってくれないじゃないか」
「はん、そんなこと言ったって、お前は百発百中で最終的に私がいなけりゃどうにもならない弱小魔術師じゃないか、生意気を言うな」
「百発百中はないだろ! ……まあ、十回に九回くらいのもんだろ」
威張れる数字ではない。
京介がよろよろと立ちあがると、それとほぼ同時に、弁天も立ちあがり、芙蓉を見据えにやりと笑った。たいしてダメージを受けているようには見えない。そのタフさに京介は舌を巻く。
「顎先クリーンヒットでなんでぴんぴんしてるんだよ、化け物かっての。普通の奴なら脳震盪起こしてダウンしてるレベルだろ」
「いや、クリーンヒットではない。直撃の寸前に自ら後ろに飛んで威力を殺された。相変わらず無駄に反応がいい奴だ」
相変わらず、という言い方に京介は眉を寄せる。まるで知り合いのようではないか。
「……いきなり蹴りを入れてくるとは、ご挨拶じゃないか」
「竜胆ばーさんからだいたいの話は聞いた。巷で噂の魔術師狩りの正体がお前だったとはな。少し見ない間に馬鹿さ加減に拍車がかかっているようじゃないか、弁天」
「そういうお前は相変わらず、誇りを失くした馬鹿妖怪をやっているようだねえ、おヒメ」
親しげに呼び合う様は、十年来の友人のようだった。
「友達か?」
「違う」
訊いたら即座に否定された。
「ただの腐れ縁だ。奴とは相容れない。さがれ京介、弁天が相手なら、お前には荷が重いだろう。私が引導を渡す」
芙蓉は右手に漆黒の剣・黒曜剣を現し握りしめる。それに応じるように、弁天は背中から生えた影羽々斬を仕舞い、その代わりというように剣を取る――右手からゆらゆらと揺れながら伸びた幾本もの黒い影、それを束ねていき、一振りの剣へと形を変えた。
「影操剣――お前と切り結ぶのは何年ぶりかねえ」
「んなこといちいち覚えていられるか」
興味なさそうに吐き捨て、芙蓉は疾る。
黒い剣同士が激突する。ギンッ、と固く激しい音が響く。双方一歩たりとも譲らない鍔迫り合い。すなわち、二人の力は、互角のように見えた。
「あははは、腕は鈍っていないようだね、おヒメ!!」
「へらへら笑うな、変態!」
笑みを絶やすことのない弁天と、あくまでも冷徹な瞳で敵を見据える芙蓉。対照的に見える二人。だが、京介は感じていた――この二人は、似ている。
圧倒的な強さを誇る妖。彼女たちを前にすると、遥かな高みから見下ろされているような気分になる。訓練を積み、それなりの実力をつけてきたはずなのに、自分がひどく、よわっちくてちっぽけな存在だと、まざまざと思い知らされてしまう。
格が違う。芙蓉と弁天の戦いは、手出しできないほどに激しかった。
「私たちじゃ、手が出せないわね」
いつの間にか傍までやってきていた歌子が独り言のようにぼやく。呆れの中にかすかに悔しさを滲ませたような声だった。
「妖って、やっぱり強いわね」
歌子が言うと、傍に控える紅刃が苦笑交じりに断りを入れる。
「いやいやお嬢、あれが妖のスタンダードだと思っちゃ駄目だよ。あの二人は別格過ぎる。俺は平々凡々な妖だから、あの二人の前に立たされたら一瞬で白旗上げるよ」
「一瞬は早すぎるでしょ、ちょっとは踏ん張りなさい」
軽い調子で言う紅刃に歌子は不満げな声を上げていた。
芙蓉と弁天の斬り合いは続いていた。否、力強く刃が交わる様は斬り合いというより、剣を使った殴り合いというほうがしっくりくるような有様だ。戦況は変わらず互角――否、僅かに芙蓉の力が勝っているだろうか。
振り上げた芙蓉の剣が弁天の剣を打ち、弾かれた弁天が僅かによろめく。その隙を逃さず、芙蓉は大きく剣を横に薙ぐ。弁天はかろうじてそれを受け止めるが、抑えきれずに後ろに押される。
純粋な「殴り合い」だけでは押し負けると感じたのか、弁天は影の矢羽を幾つも生み出して、芙蓉に向けて一斉に放った。芙蓉はそれを一振りで叩き落とし、片足で踏み切ると素早い跳躍で弁天の上を取る。両手で握りしめた黒曜剣を振り下ろす。弁天は剣を横に盾のように構え受け止める。
「ぐ、ぅ……」
重い、重すぎる攻撃に、弁天が唸る。弁天の体が地面に僅かに沈む。
重さを乗せた一撃、並みの妖なら押し潰されてしまうだろう。だが弁天は潰れない。苦しそうに、だが決して笑みを絶やすことなく、吠える。
「うおおあああッ!」
雄々しい咆哮を放ちながら、弁天が芙蓉を押し返す。芙蓉は飛び退り、息をついて態勢を立て直した。
「くく……愉しいねえ、おヒメ。こうして遊ぶのは、やっぱり愉しい。雑魚連中はすぐ潰れてしまって面白くない。私と互角に殺り合えるのはお前だけだよ」
「なにが楽しいものか。私はとっとと帰って録画中のサスペンスを追いかけ再生するんだ。お前に付き合ってる暇はない」
「つれないねえ。まあ、もっとも、私もあまりはしゃいでいる場合じゃない。口惜しいが、そろそろ終わらせてやろうかな」
「終わらせる? お前が降参する以外に、すぐ終わらせる方法などありはしないだろうに」
「おヒメ、力任せに暴れるしか能の無いお前と違って、私はちゃあんと、搦め手というのを覚えたんだよ」
弁天が徐に左手を持ち上げ、見えない何かを潰すようにぐっと手を握る。
直後、芙蓉の背後で、地面から黒い「頭」が飛び出した。
それは芙蓉よりも一回りも二回りも大きい巨大な闇色の球体だった。それを京介が頭と認識したのは、その球体がばっくりと大きく口を開けたからだ。
「……!?」
振り返った芙蓉が息を呑む。芙蓉が剣を振るうより早く、開いた口が芙蓉を襲い――ばくんと呑み込んだ。
「芙蓉!?」
正体不明の頭に丸呑みされ、芙蓉の姿は見えなくなる。黒い頭は用が済んだとばかりに地面に沈み込んでいく。あとには何も残らない。
一瞬だった。たった一瞬で、闇が芙蓉を呑み込んだ。一切の抵抗をさせず、悲鳴すらも漏らさせず。
京介は呆然とする。
「芙、蓉」
それからはっと我に返り、右手の契約紋に叫ぶ。
「芙蓉姫! 戻ってこい、芙蓉姫!」
だが、契約紋が反応しない。芙蓉に声が届かない。
光を放つことのない契約紋に見切りをつけて、京介はぎり、と刀を握りしめる。
「て、めえ……何をしたッ。芙蓉をどこへやった!?」
怒りを必死で押さえつけながら叫ぶ京介に、弁天は冷笑を浮かべ告げる。
「見ての通り。喰ってしまったよ」
「ふ、ざ、けるな……!」
頭の中で何かが破裂する。感情を制御していた理性が振り切れて、怒りが暴走する。
刈夜叉を右手に、弁天の懐へ飛びこみ、ただ力任せに刀を振り下ろした。だが、妖怪相手に「力ずく」は通用しない。妖と魔術師――芙蓉と互角に戦う弁天と、芙蓉に勝てたことのない京介とでは、地力の差は明らかだった。にもかかわらず、何の策もなしに飛び込むのは無謀としか言えなかった。
案の定、刀は弁天の剣に受け止められる。
「馬鹿な人間だ、ただの道具が壊れたところで、お前たち人間は痛くも痒くもあるまい?」
「焔々現界!」
弁天の明らかな挑発を無視して、京介は術を放つ。京介の体から焔が迸り、刃を伝って弁天を焼く。
「ちっ……」
不愉快そうに舌打ちをして眉を寄せ、弁天は京介の刀を弾き後退る。だが、退いた分だけ京介は進む。
「劫火現界ッ」
京介を中心にぶわりと焔が渦を巻き燃え広がり、地面を舐めながら弁天を呑み込む。その焔は、いつものような明るく鮮やかな赤ではなく、マグマのようなどす黒い色を孕んでいた。
弁天は煩わしげに顔を顰め、剣の代わりに背中から四対の影の刃を作りだし、それを大きく薙ぐことで炎をかき消そうとする。だが、炎は燃え続ける、広がり続ける。京介がその身から、絶やすことなく劫火を放ち続けている。
「京介君!」
歌子が切羽詰まった声を上げていた。
「駄目よ、そんな戦い方をしたら! あなたの体がもたないわ!」
そんなことを喚いている。だが、彼女の声はひどく遠くに聞こえ、京介の頭には入ってこなかった。
目の前の敵を潰す、それだけしか考えられない。
左手を無造作に伸ばす。避け損ねた弁天の肩に触れる。そのまま肩を鷲掴めば、そこから炎が伝い、弁天は炎にまかれていく。頑丈で、魔術に対してある程度耐性があるはずの弁天が、しかし灼熱の炎に焼かれつつあった。
「調子に乗るな、人間!」
京介の手が振り払われる。そして、弁天の八本の影の刃が蠢く。初めは刀で弾いていた京介だが、やがてそれが間に合わなくなると、両腕を盾に防御する。腕と、そしてそれで防ぎきれなかったために下腹に、黒い影刃が突き刺さる。
決して浅くない傷のはずだった。しかし京介は呻き声一つ上げず、表情も変えない。ただ、冷たく鋭い瞳で弁天を睨め上げる。
びしゃりと返り血が弁天に跳ねる。その瞬間、京介は呪詛を吐く。
「火焔と灰の王よ、我が血肉を喰らい、狼煙を上げよ」
強力な呪いにより、京介は自分の血すらも得物とする――弁天の体を濡らす京介の返り血が発火した。
肌に纏わりつく血液、そして火焔は容易くは振り払えない。一方、自分の体の傷口から流れる血液も例外なく燃え上がり、傷を焼いて強引に塞いでいた。
怯んだ弁天に京介は刃を振るう。
冷ややかな笑いを張り付かせていた弁天が余裕のない顔で影羽々斬を振り回し、京介を力任せに弾き飛ばす。その時影の刃は京介の脚を浅く抉った。そのせいで、京介は満足に受け身も取れないまま地面を転がった。
「玩具を取り上げられたくらいで、何を怒り狂っているのだか」
蔑むように呟く弁天。一拍遅れて、弁天の肩口から血飛沫が舞う。京介の刃が、ぎりぎりで届いて彼女の右肩を斬り裂いていたのだ。傷口を一瞥すると、弁天はいっそう冷たい目を京介に向けた。
「お前にとって式神なんて、ただの替えの利く道具のくせに。お前たち魔術師の卑しい性根を、私はよく知っているよ」
その挑発に、京介は応えない。憤怒を象徴するかのような業焔にまかれながら、京介はゆっくりと立ち上がる。その身に纏う焔とは対照的に、瞳は氷のような怜悧さを灯す。
弁天の言葉も、遠くで誰かが叫んでいる声も届かなくなりつつあった。考えているのは、弁天を殺せるかどうか。
攻撃は通じている。刈夜叉を握る手に力がこもる。
殺せる――そう確信、してしまう。
それを読み取ったように、弁天は無表情に告げる。
「私を殺せると思っている顔だな。だがそれは慢心だ、人間」
その瞬間、黒い影の槍が上空に浮かんだ。
それが京介を貫こうとまっすぐに落下してくるのに、京介は気づかなかった――




