式神さんは働かない(2)
黒いダブルジャケットと同色のスカート、どこかの軍服みたいな装いの女は、外見でいうと二十歳前だ。凛とした強気な瞳のおかげで少々大人びて見えるが、それにしたって妖という実情を考えれば百年単位のサバ読みである。
名前は芙蓉姫。濡羽色の髪と雪のような白い肌、紫苑の瞳を持つ妖だ。底の高いブーツを履いているせいで、身長百七十センチの京介よりも僅かに長身となっている芙蓉は、京介のコンプレックスをちくちく刺激する。
そんな微かな屈辱を二秒で水に流すと、京介は芙蓉に向かって告げる。
「旧校舎に乗り込む。行くぞ、芙蓉」
京介は颯爽と歩き出す。その背中に向かって、芙蓉は言った。
「却下」
「……うえぇ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。振り返れば、芙蓉は召喚位置から一歩たりとも動いていない。やる気ゼロである。
「え、ちょ、あの、芙蓉サン?」
「旧校舎だと? 有象無象の雑魚連中が調子に乗って群れているだけの場所ではないか。なぜ私がそんな僻地まで面倒を見てやらねばならんのだ。お前が一人で勝手に何とかしろ」
「ええええ!?」
とんでもない暴言。また始まったぞ、と京介は呆然とする。
本来、式神とは主人に絶対服従である。主人に対してナメた口をきいたり逆に主人に命令してみたりすることなどふつうはありえないし、まして主人の命令を拒否することなど不可能なはずである。
しかし、この上から目線で生意気で高飛車な女王様は、当たり前のように京介の命令に対する拒否権を行使するし、思ったことは言いたい放題、やりたくないことは断固としてやらないという自由っぷり。式神の契約とはなんだったのかと、京介は毎度頭を抱えている。
「いやいやいやいや、おかしいおかしい! やっぱりどう考えてもおかしい! どうしてお前はいつもいつも人の命令を拒否するんだ? お前、俺の命令をきいた回数より無視した回数の方が絶対多いだろ! だいたい、契約に縛られているはずの式神が主人の命令を拒否できるなんて横紙破り聞いたことないぞ。どうなってんだッ」
すると芙蓉は鼻で笑う。
「お前が無能なだけだろ」
「なっ」
言うに事欠いて京介のせいにして、それだけでは飽き足らず罵倒の文句まで吐く。
「悔しければ、私を服従させられるだけの実力をつけてから出直して来い、低能退魔師」
「こ、の……性悪式神!」
本来立場が下であるはずの式神に完全に虚仮にされ、屈辱と羞恥で頬が紅潮する。悔しい、が、言い返せない。仕方なくレベルの低い罵詈雑言で応戦するが、芙蓉は冷笑するだけである。思わず殴り飛ばしたくなる衝動に駆られるが、深呼吸をして気を鎮める。こんなことで熱くなっていては芙蓉の思う壺だ、落ち着け、大人な対応をしよう。
「と、とにかくだ。旧校舎で何か問題が起きているらしいから処理しろというのが、今回の仕事だ」
「また竜胆ばーさんの下請けか。小間使いをしているうちは成長しそうにないな」
「小間使い言うな。お前も、優秀な式神を自称するなら仕事の選り好みなんかしないで大人しく手伝えよ」
「私の手を借りたいなら、京介、それ相応の口のきき方というのがあるだろう」
「は?」
「『私一人では怖くて仕方がないのでお力をお貸しください』だろう」
「いやおかしいだろッ! なんで俺がそこまで腰を低くしなくちゃならないんだ!?」
「『私は所詮一人では何もできない低能で愚図な童貞です』」
「童貞は関係ねえだろ!」
馬鹿にしたいだけだ。完全に馬鹿にしたいだけだ。
明らかに面白がっているふうな芙蓉の顔を見て、京介はうんざりしてしまう。
「もういいっ。いいか、芙蓉、俺はな、そんなことしてまでお前にご助力を願わなきゃいけないほど、弱くもないし、プライドのない男でもないぞ」
「ほう」
「お前の手は借りない。お前は帰って夕方のドラマの再放送でも見てろッ」
つまらない意地を張ってそう啖呵を切ると、京介は芙蓉のことなどほっぽりだして、一人ですたすたと歩き出した。
グラウンドをぐるりと迂回して、旧校舎の前へ。
校舎の周りの花壇は手入れをされなくなって久しいため、雑草が伸び放題で荒れている。校舎の壁は薄汚れていて、蔦が這いまわっている。好んで近づきたい雰囲気ではない。わざわざこんなボロ校舎に来たがる奴の気持ちは、いまいち理解できなかった。
新聞記事によれば、行方不明になった少年が家を出たのは午後六時だ。肝試しというからには、当然夜中に行ったのだろう。夜は、闇に棲む妖たちが活性化しやすい。
だが、現在時刻は午後四時半を過ぎたぐらいだ。空もまだ昼間のように明るい。この時間では何も起きないかもしれない。しかし、妖たちが活発になる夜中にいきなり踏み込むのは危険だ。今のうちに様子を見ておくくらいがちょうどいいだろう。
「――ふうん? 成程、面白いことになっているな」
と、京介の後ろで呑気なコメントを発したのは芙蓉である。
「……」
京介は眉根を揉む。まだ何も始まっていないはずなのに早速疲労を感じ始めていた。当たり前のようにそこについてきていた芙蓉を振り返り、京介は言う。
「……え? 何しに来たの?」
芙蓉は愉快そうにくすりと笑うと、
「何も。ただの見物だよ。手を出してやる気はない。まあ、私のことは道ばたの石ころだと思って無視していていいぞ」
「こんな人の神経逆撫でしまくりの石があるかッ」
いちいち人をイライラさせる芙蓉に小さく舌打ちをしてから、今の聞き捨てならない台詞について追究する。
「面白いことって言ったな。旧校舎に何が起きているか、お前には解るのか?」
「ふむ」
芙蓉は嘲笑を引っ込めると、少し真面目そうな顔をして言う。
「手は出さんが、口くらいは出してやろうか。以前は雑魚しかいなかったようだが、今は、少しは手ごたえのありそうな奴がいるようだ。と言っても、私には及ばないという点では、雑魚と変わらないがな」
「余計なコメントは要らない」
ぴしゃりとぶった切って、京介は改めて旧校舎を見上げる。
じっと目を凝らす。ふだんは抑えている視力――魔力や妖気といった、見えないものを視る力の制限を、少し緩める。そうすると、旧校舎は少しだけ、歪んで視えた。
何かの力がこの場所を歪めている。
「人を呑みこむ、という噂は、本当なのか……?」
ここに棲みついていた連中は、害のあるような妖ではなかった。別の妖怪が、紛れ込んでいるのかもしれない。
旧校舎の正面玄関のガラス戸は施錠されている。しかし、老朽化に伴い扉のガラスの一部が割れていて、そこから手を突っ込めば鍵を開けることができる、というのは生徒間では割と有名な話だった。
割れたガラスの先端に気を付けながら中に手を差し入れ、京介は鍵を回し開ける。錆びついたロックは軋みを上げながらも、かちりと音を立てて解錠された。重い戸を押し開け、慎重に中の気配を探りながら踏み出そうとする。
その時、背後から芙蓉が言った。
「そうそう、京介、気を付けろよ。その扉の先は、『異界』になっているから」
「は……?」
訊き返そうと振り向いた時には、既に京介は中に踏み入れてしまっている。
その瞬間、景色が闇色に染まった。
京介が言いたいのは、一つだけだ。
「――そーいう大事なことはもっと早く言えよ!!」
しかし、切実な苦情に応える声はない。扉は閉ざされていて、押してもびくともしない。ガラスの向こうに広がる景色は、絵の具で塗りつぶしたかのような、完全なる黒。外の様子を窺うことはできない。どうやらこの旧校舎は完全に外界から隔離されているようだ。芙蓉が言っていた「異界」とは、そういう意味だろう。
入ることはできても出ることはできない。迂闊だった、と京介は小さく舌打ちする。
外に出ることができないなら、中を調べるしかない。改めて旧校舎の中に視線を巡らせる。真っ黒な闇に閉ざされた校舎の中は、不思議と仄明るく、視界は比較的はっきりしていた。暗闇を手探りで移動するような事態にはならなそうだ。
視界の端で、不意に何かが動いた。その正体を見極める前に、声が聞こえた。
「京の字ぃ~」
ぴょこん、ぴょこん、と床を跳ねながら近づいてくる影。見るとそれは、白い毛並みを持ち、狐のような姿をしている。
「……周防か」
「京の字、助けてくれよぉ」
情けない声を出しながら近づいてきたのは、周防という名の妖で、古くからこの旧校舎に棲みつき、訪れる人間を驚かせることを唯一の娯楽として生きる道楽妖怪である。この場所を根城とする多くの妖たちのリーダー的な存在を自称している。
かの「旧校舎取り壊し反対運動事件」が起きた際、交渉の場に出てきたのもこの妖狐だった。京介は旧校舎存続のために尽力する代わりに、度の過ぎた事件を金輪際起こさないことを周防に約束させた。周防は、まあ話のわかる妖怪なのだ。少なくとも、どこぞの命令違反常習犯の某式神よりはよっぽど物わかりがいい。
京介は身を屈めて周防と視線を合わせる。
「周防、ここで何が起きている?」
「それがよぉ、二週間くらい前に外から妖怪が来て、ここに棲みついちまったんだ。『肝試しに来たリア充を驚かせる連合』の頭領である俺様を無視して好き勝手なことをし始めた」
初めて聞く、壊滅的ネーミングセンスの団体名にツッコミをいれるべきか悩んでいるうちに、周防は話を続ける。
「俺たちがいたって平和的な集団だってことは、京の字もよく知ってるだろう? ここに来たリア充を怪奇現象で脅かして、様子を観察するんだ。吊り橋効果で二人がくっつくもよし、男がチビって醜態をさらして破局に至るもよし。あらゆるリアクションを生温かく見守るのが醍醐味ってもんよ」
それもそれで傍迷惑だな、という言葉は呑み込む。
周防は不満を全開にした顔で言い募る。
「それなのに、あの新参者はここに入ってきた人間を閉じ込めて、よからぬことを企んでるみたいだ。俺たちは京の字に伝えようとしたんだが、結界で外と遮断されて、出るに出られない」
「ああ……俺もこっちの異変に気付けなくて悪かった」
「奴は実力者だぜ。まぁ、俺様には敵わないだろうけどな!」
「見栄は張らなくていいぞ」
「……人間をとっ捕まえて奴が何をしてるのかは俺たちも解らない。俺たちはなるべく奴に近づかないようにしてるからな」
「そいつは、どこに?」
「三階のどこかに陣取ってるらしいってことしか解らない。だが気を付けろ、京の字。奴は獲物を求めて目を光らせてやがる……!」
――噂をすれば影がさす。
悍ましい気配を感じ、京介は身を強張らせる。危険を感じて立ち上がり、神経を研ぎ澄ませる。何かがものすごいスピードで近づいてくる。
「周防、」
逃げろ、と叫ぶ前に、それは襲いかかった。