烏の羽は不吉の合図(2)
神ヶ原駅を中心とした繁華街からは少し離れたところに公園がある。
大通りから裏道に入り、坂道を上がっていくと住宅は疎らになり、高台には木々が目立ってくる。俯瞰してみると、その森林地帯がぐるりと壁のようにめぐっていることが解るだろう。その緑の壁に囲まれた窪地が神ヶ原城址公園だ。
元は城があった場所だけに、かなり広い公園だ。遊具、展望台、広場、そしてそれらをぐるりと囲むランニングコースと、多彩に整備されている。昼間は子どもから大人まで多くの人が訪れる。
しかし、夜になると表情は一変する。設置された街灯が灯ってはいるものの、その灯りは頼りなく、周りが森なおかげで夏はやぶ蚊がひどい。一月ともなると虫はそういないが、今度は冷え込みが厳しくなる。夜に出歩くような場所ではないということだ。
時刻は午後九時を回ったところ。この時期、五時を過ぎればもう真っ暗で、その時点ですでに、公園に近づく者はそういないだろうとは思われたが、念を入れて、この時間まで待った。
風間隆平は、芝生の広場に一人ぽつりと立ち、街灯に照らし出されている。こんな、見るからに「待ち構えています」といった様子の魔術師の元にちゃんと敵が釣れるのかという京介の疑問に対しては、
「あいつは俺を殺したがっていた。必ず来る」
と風間が自信満々に請け合った。自分を殺しに妖怪が訪れることを請け合うというのも、なかなか複雑な心境になりそうなことだ。
公園のほぼ中央に、そうして待ち構えている風間を、京介は息を殺して見守っていた。公園を囲む木々の合間で闇に紛れて潜んでいる。城址だった名残で、公園の周囲は少し土地が高くなっている。京介の場所から、風間のことはよく見下ろせた。
公園への入り口、すなわち木々の壁が途切れる場所は二か所、北と西にある。敵はおそらくそこから來るだろう。まあ、相手が空を飛べて、律儀に入口を通らず森を飛び越えてくるというならどうしようもないが、敵がわざわざそんな目立つ上に無駄に力を使う方法で来る理由も特にない。そういうわけで、とりあえず北か西のどちらかから、ちゃんとエントランスを通ってやってくると仮定する。京介は、そのどちらの場合でも敵の後ろを取れるように、入り口のちょうど中間、北西のあたりで待ち構えている。
風間は何をするでもなく、ただじっとそこに佇み待っていた。それを京介も、ひたすら見守り続ける。二十分ほど辛抱強くそうしていただろうか、不意に、ざくっと草を踏む足音が近づいてきた。
夜の闇に紛れて近づいてくる人影。銀灰色の長い髪が揺れているのを見て、確信する。来たようだ。
女の声が、歌うように言う。
「今宵も烏が鳴いた」
風間が身を強張らせるのが解った。
「決着をつけに来たぞ、魔術師。その命、今日こそ散らしてやろう」
女の周りで、小さな黒い光が渦を巻く。それが二つ、三つと数を増やしていき、やがて光は無数の羽へと形を変える。
「射抜け、影矢羽」
女が右手を掲げる。同時に、風間は左手で呪符を構えた。防御に集中すると言っていた風間は、その言葉通り、障壁魔術の呪符を拵えてきたのだ。
断罪の合図とでもいうように、女がゆっくりと手を下ろす。直後、黒い矢羽が一斉に風間を襲った。
「障壁展開!」
風間が叫ぶと、風間の前には不可視の壁が作られ、矢羽の嵐を阻んだ。激しい弾幕と轟音。女の意識は完全に風間に向いている。
京介は、刈夜叉を手にしている。機を逃さず、陰から飛び出す。女の背後に躍り出て、音もなく肉薄し、一気に刀を振り下ろす。
完全に隙はついた。気配は殺した、気づかれることはない。万が一気づいたとしても、もう手遅れ。奇襲は完璧に決まった、はずだった。
しかし京介の刀が女に届く寸前に、突如女が振り返る。街頭の灯りに照らされた女の白い顔を見て、京介は戦慄した。女の表情は、奇襲に気づいて驚いた者のそれではなかった。
女は笑っていた。唇をつりあげ、妖艶に笑っていた。
その直後、女の姿が消え、刀は空を切る。
「っ、どこへ……!」
女の姿を求めて彷徨う京介の目に、しかし映るのは夜の闇と風間の姿だけだった。目の前から掻き消えた女に、風間も京介同様に驚いて――は、いなかった。
冷ややかな嗤い。風間が浮かべているのは、冷笑に違いなかった。
嵌められたのだ、と確信したのは、背後に鋭い殺気を感じた時だった。完全に後ろを取ったはずだったが、しかし、その奇襲の作戦が相手に筒抜けていたとなれば、更に後ろを取られるのも不思議ではない。
「地獄の底まで御機嫌よう」
物騒な囁きが聞こえ、京介は後ろを振り返る。狂気の滲む笑みを浮かべた女の顔がすぐそこにあった。
瞬間、魔力の弾丸が炸裂する。
「うっ……!?」
低くあがる呻き声。
それに重なるように、京介は詰めていた息を吐き出す。呻き声を上げたのは女の方だった。
女が京介に魔術を放つその寸前、横合いから放たれた光弾が女の側頭で炸裂し、女は衝撃で小さく吹き飛んだ。やったのは当然風間ではなく、京介も間に合わなかった、すなわち第三の人物である。
京介は間一髪、ぴったりのタイミングで助太刀を入れてくれた魔術師を振り返る。
「助かったよ。頼んでおいて正解だったみたいだ、歌子」
「――まったく、とんだ狸野郎に捕まったみたいね、京介君」
暗闇の中からやがて姿を現したのは、退魔銃・月花羅刹を構えた少女、黒須歌子だった。
相手が射撃を得意としているらしい、という話から、歌子に協力を仰ぐのがよさそうだと考えた。それに加えて、風間の方から囮作戦を持ちかけられたことが、どうにも胡散臭いように感じられたので、京介はひそかに歌子に連絡を取って協力を取り付けていたのだ。
「命からがら逃げだしてきた人がノリノリで囮作戦を提案してくるなんて、そりゃあ胡散臭いわよねえ。そういう解りやすいトラップは、もっと素直で猜疑心のない人に使うものよ」
「俺が猜疑心だらけのひねくれ者だって言いたいのか?」
「あらやだ、そんなこと言って……るけど」
歌子は正直だった。
退魔の弾丸に撃たれた女だったが、倒れていたのはほんの数秒のことで、やがて何事もなかったかのようにむくりと起き上がる。そして、くつくつと愉快そうな笑い声をあげた。
「成程……上手く嵌めたと思っていたが、全部お見通しだったわけか。作戦は失敗……お前はつくづく使えないな、魔術師」
すると風間が「ひっ」と怯えたような声を漏らす。
「ま、待てよ、俺はちゃんとやるだけやった、だから勘弁してくれ、もう許してくれ!」
「お前は命を助けてもらう代わりに他の生贄を捧げると言ったんだ。約束は果たされなかった。私は予定通り、お前の命を奪うだけだ」
「やめてくれっ……!」
風間は両手で頭を抱えて震えている。
どうやら、風間が命からがら逃げだした、というのも嘘だったらしい。彼は逃げ切れなかったのだ。そこで、風間の方が取引を持ちかけたのか、女に恐喝されてやむを得なかったのかは知らないが、自分を見逃してもらう代わりに別の魔術師――京介を一緒に陥れることになったようだ。
となると解らないのは、生贄として選ばれたのがなぜ京介だったのか、ということだ。
京介は女を睨む。
「なんで俺が狙われたのかよく解らないんだが。俺とお前は初対面だったと思うが?」
「ああ、会うのは初めてさ。だが、お前は妖の中では有名だ、噂はよく聞いているよ、不破の退魔師」
「なら、俺が妖怪と人間の仲介役だってことも知ってるだろ。俺が揉め事を解決するのが気に食わないっていうのか」
「否。妖怪と人間の世の安寧は私も望むところだ」
「それならなぜ」
「お前の役目は評価する。だが、それを考慮に入れても、私にはお前を赦せない理由がある」
「その理由は?」
「そこまで教える義理はない。私がお前を殺すことはもはや決定事項」
「話し合いの余地はないってか。なら、俺もお前を力ずくで黙らせる」
「ふ……面白い、やれるものならやってみろ」
女の周りに再び、無数の黒い矢羽が浮かぶ。
それはまるで、烏の羽のよう。
「――烏丸弁天、いざ参る」
直後、羽の刃が降り注いだ。
羽のような形をしながらも、その威力は羽ほど軽くないことは、先刻の風間への攻撃で解っている。風間とはグルだったわけだから、先程の攻撃は手を抜いていた可能性すらある。だとすれば、その攻撃力は侮れない。
高速で飛来する黒い羽の刃に、京介は炎をぶつける。
「焔弾現界、掃討せよ!」
炎の弾丸を連射し、烏丸弁天の攻撃を相殺する。ぶつかり合うと同時に爆音が響き、白煙が立ち上り視界を曇らせる。
敵の視界を遮っている間にと、京介は次なる魔術を繰り出そうとする。だが、弁天が大きく腕を振るうと、白煙は吹き払われる。そして弁天はちらりと視線を巡らせ、左手を持ち上げる。その掌の中に、横合いから放たれた魔法弾が着弾し、しかし同時に握り潰された。
歌子が弁天の死角に回り込み、不意をついて放った攻撃だった。しかし、弁天はそれを見切り、苦も無く防いでしまったのだ。歌子が悔しげに舌打ちをしている。
「影を纏いて、刃と為す――『影羽々斬』」
弁天が小さく唱えると、彼女の背から四対の、細い影が伸びる。陽炎のように揺らめき立ち上るそれは、しなやかなリボンのようにも、蜘蛛の肢のようにも、烏の羽のようにも見える。
ひゅう、と不意に冷たい風が吹き、地面に散っていた枯葉を巻き上げる。風に乗って踊る葉が、弁天の黒い影の翼に触れる。と、葉は音もなくはらりと切断される。
見た目以上に凶悪な切れ味を持っているらしい影の刀が、ゆらゆらと揺れる。
弁天が地を蹴り、京介に迫る。同時に闇色の刃が伸びる。八本の刃がそれぞれ別の動きをし、その切っ先は京介の逃げ道を封じる檻のように八方から襲いかかった。檻が閉ざされる前に京介は飛び退き攻撃を避ける。羽々斬は地面を抉る。しかしそれだけでは止まらず、刃は地面を跳ね、京介を追尾する。
京介は刈夜叉を振るい、攻撃を受ける。できることなら切断してしまいたかったが、それは叶わなかった。滑らかな動きをする影の刃は、しかし頑丈で、刃で受け止めるとキン、と硬質な金属音が響いた。
更に京介を追いかけようとする弁天だが、不意に立ち止まり上を仰ぐ。彼女の頭上に、白い光が瞬いていた。
「注げ、闇夜を射抜く光の雨!」
歌子の魔術が発動する。白い光は幾つもの弾丸に別れ、流星の如くに降り注ぐ。
弁天は攻撃に回していた影の刃を戻し、自分の周りを囲ませる。強力な刃は、強固な盾として作用する。
だが、歌子が狙っていたのはまさにそれ――動き回る黒の刃を一カ所に集めさせることだった。
「――やっちゃって、紅刃!」
闇の中に光が溢れ、その中から姿を現す、歌子の式神・紅刃。赤い短刀を持つ紅刃は一気に弁天に肉薄し、影の刃を斬りつけた。
きぃん、と耳障りな音が響く。紅刃の攻撃では、弁天の得物を刃毀れさせることもできない。だが、今の一撃だけで、彼が能力を発動させるには充分だった。
「『それ』が何だかは知らないけど、俺が『刃』だと認識すれば、支配できるんだな、これが」
「……」
影刃がバグを起こしたように一瞬震え、ぎこちなく動く。そして次の瞬間には完全に赤いウィルスに感染している。四対の影刃に、赤い幾何学模様が這い回ると、切っ先が一斉に弁天自身に向いた。
弁天の判断は早かった。ぱちん、と指を弾く、すると、八本の刃にヒビが入り、一斉に砕け散った。
「わお、マジか」
呆れたように一人ごちる紅刃に向かって、弁天は拳を振るう。紅刃は間一髪で飛び退き避ける。
「一撃も浴びせられないとはね。けど……」
弁天は紅刃の妖術を初見で対処して自滅を免れた。しかしその代償は大きい、弁天は武器も盾も失ったのだ。その一瞬を逃さず、京介は一気に間合いを詰め、刈夜叉を振るった。
逆袈裟に斬り上げる刃は、弁天が逃げるより早くその左肩を浅く裂いた。
一太刀浴びせた、だが弁天は苦痛の表情を見せるどころか笑みを深くした。
「人間にしてはいい動きだ」
その言葉と同時に、ぎらりと黒い刃が煌いた。
砕けたはずの四対の羽が復活したのだ。
「なっ……!」
影の刃が一斉に襲いかかる。太刀を盾代わりに構え受け止めるが、衝撃で押し飛ばされる。更に追撃してくる刃を一本ずつ弾いていくが、俊敏な動きに追いつけず、隙をついた刃は京介の脇腹を浅く抉った。
そこで歌子の援護射撃が放たれる。京介が態勢を立て直すための時間を稼いでくれるつもりだったのだろう。だが、弁天は、今度は見向きもしない。立ち止まることはなく、羽のうちの一本を動かし片手間に射撃を処理しながら、あくまでも京介に狙いを定めて追い縋ってきた。
「焔刃現界、溶断せよ!」
焔で形作られた刀を抜き放ち、弁天の漆黒の刃にぶつけてどうにか切っ先を逸らす。だが弁天は怯まない。手を伸ばし、京介の首を掴んだ。そのまま力任せに京介を押し倒し馬乗りになり、動きを封じてくる。
刀を握る京介の手を押さえつけ、もう片方の手も膝の下敷きにして封じ、弁天は唇を吊り上げ笑う。
「紅刃!」
歌子が名を呼び命じ、紅刃が飛び出した。赤い短刀で、背後から再び弁天の刃を斬りつける。直後、黒い刃に赤い模様が這い回るが、紅刃の支配が及ぶ前に刃は砕け散り、そしてその直後にまた黒い羽が生え、紅刃を吹き飛ばした。
「面白い術を使うようだ、私の羽々斬を操ろうとする……だが、私の刃は付け替えが利くんでね。毒された羽は千切り捨て、新たな羽を生やすだけだ。もっとも、仮に羽が全てもがれたとしても、お前を殺すにはこの手があれば充分だが……」
言いながら、弁天は手に力を込め、喉を締めてくる。
歌子が絶えず弾丸を放つ。しかし、それらはすべて弁天の影羽々斬に薙ぎ払われてしまう。痺れを切らしたように歌子が弁天に接近する。
「京介君から離れなさいよッ!」
「大人しくしていろ、女。お前の順番は後回しだ」
影の刃が大きく振り回され、間合いには入った歌子を吹き飛ばす。
「く、うぅッ!」
苦しげに呻き地面に転がる歌子を目線で追うと、
「人の心配をしている場合か?」
弁天の手に更に力が込められる。
「が、ぁ……っ」
息ができない。悲鳴すらも満足にあげられない。
せめて声が出れば――名前を呼ぶことができれば。
京介の考えを読んだのか、弁天は笑みを深くする。
「式神は呼ばせないよ。独りで死に逝け、魔術師」
弁天が冷たく言い放った、まさにその瞬間だった。
「――逝くのはお前だろう」
一陣の風が吹き抜け、凛とした声を運んできた。




