烏の羽は不吉の合図(1)
魔術師・風間隆平は夜の街を走っていた。息を切らしながら、ひたすらに、前だけを見て。止まることはできなかった。少しでも走る速度を緩めれば、追いつかれる。追いつかれたら――殺される。
あいつは駄目だ。あいつは格が違う。戦うことはできない。逃げるしかない。風間はひたすら、闇の中を逃げ惑った。
ぜえぜえと、荒く吐きだす息が白い。もう息が苦しい。止まりたい、だが止まったら、もっと苦しい。死に物狂いで、走る、走る。
だが、それを嘲笑うかのように、その死神の如き女は、風間の目の前に舞い降りた。
「ひ、ひぃいっ!?」
無様な悲鳴を上げながら、風間は慌てて立ち止まる。足が縺れて尻餅をつく。じりじりと後退るが、女は固い足音を響かせながら、無情に距離を詰めてくる。
汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔をする風間を、女は冷たい笑みを浮かべて見下ろしていた。
「今宵も烏が鳴いた……愚かな人間に死が訪れる」
黒い袴に花柄の着物。灰色の羽織を肩にひっかけた装いで、女は美しい装束とは裏腹に邪悪さを醸し出している。頭の上で結われた長い髪は銀灰色、瞳は琥珀だ。
女は桜色の唇に酷薄な笑みを湛えて言う。
「罪深い人間よ。その命で罪を贖え」
「お、俺が何したって言うんだ!」
風間は唾を飛ばしながら叫ぶ。女はいっそ憐れむような目で見る。
「無様だな……式神がいなければ、泣き叫ぶしかできないのか」
「俺は……お前に殺されるようなことは、何もしていないだろう!」
「弱くて、愚かで、自分勝手な人間。もはや存在自体が罪深い」
女が右手を挙げる。まるで審判を下すように、ゆっくりとその手を下ろす。
断罪のギロチンが下ろされる――
★★★
「竜胆ばあさま、知ってるとは思うけれど、俺のアパートは高校生が慎ましく暮らすのに適した月四万の1Kだ。三十過ぎたおっさんを置いておくスペースはない」
一月になり、新学期が始まった。初日の日程は始業式だけで、午前中いっぱいで放課となった。昼を少し過ぎたくらいにアパートに帰り着き、さて昼食の用意をしよう、冷蔵庫には何が残っていただろうか、などと考えていた京介。だが困ったことに、部屋の前に見知らぬ男が立っていたことで、昼飯にはありつけなくなってしまった。
セールスか宗教勧誘か。どちらにしても歓迎すべき客ではない。京介は早々に追っ払おうとしたのだが、すると慌てた男が、自分は不破竜胆からここへ来るよう指示されたのだ、などと言う。さらによくよく聞いてみると、なぜかその見知らぬ男は今日から京介の部屋に寝泊まりするような話になっている。
そんな話は聞いていないぞ、ということで、京介は部屋に入るなり竜胆に苦情の電話をかけることになった。
受話器の向こうで、竜胆は他人事だと思ってけらけら笑っている。
『お前は細いから大丈夫、少々小太りのおっさんが入ってきても、部屋のスペースに余裕はあるだろう』
「だいたい、スペースの問題以上に、他人を部屋に上げるなんて」
『見られて困るエロ本でもあるのか?』
「エロ本なんかない」
『京介、思春期の男子として、それはどうかと思うぞ』
なんだか本気で心配するような声で言われてしまった。
「俺の思春期事情なんかどうでもいい。とにかく事情を説明してくれ」
『説明したら了承してくれるのかな』
「そうは言わない。ただ、何も解らないのに厄介者を引き受けることだけはありえない、という話だ」
『はぁ……いつもは何も聞かず、大人しく指令を聞いてくれるのに。おっ、もしや、ついに反抗期か?』
少し楽しそうに竜胆は言う。
「別に反抗期ではない。今回はいつもの仕事とは全然違うじゃないか」
『ふふ……まあ、勿論説明はちゃんとする気だったよ』
「その割には唐突に降って湧いてきたけれど」
『驚かせてみたかったのさ』
残念ながら驚きより呆れと苛立ちの方が勝っていた。
『説明するとだね、そいつの名前は風間隆平。正体不明の妖に狙われている可哀相な男だ』
「狙われている?」
京介は男――風間隆平を振り返る。胡散臭さを全開にしていたので、竜胆にきっちり確認を取るまでは、と風間のことは玄関から先へ上げていない。風間は右腕を三角巾で吊っている。命を狙われた結果の負傷なのだろうか。
『昨夜、突然女の妖が現れ、襲いかかってきたのだと。お前は罪深い人間だとか、命で罪を贖えとか、そんなことを言いながらね』
「心あたりはあるのか」
『何もないとさ。まあ、人間なんて生きてるだけでだいたい罪深いから、動機について考えるのは不毛じゃないかな?』
「そんな極論は聞いてない」
『従えていた式神もあっさりやられてしまったそうでね。為す術もなく、命からがら逃げてきて、私に助けを求めてきたのさ。私が風間をお前の元にやった理由は解っただろう? そいつを守ってやれ』
「俺を護衛に、ってことか」
『風間の話を受けて私も調査したが、ここ最近、魔術師が同様に襲われるケースが多発していることが解った。話を聞くに、他の魔術師たちを襲ったのは、風間を襲ったのと同一の妖のようだ。幸い、魔術師たちも無能じゃない、今のところ死人は出ていない。面倒なことになる前に、片をつけたいところだよ』
「すでに面倒なことにはなっている気がするが……」
それから京介は少し声を潜め、
「風間には、用心棒をつけて守ってやる、なんて言ったんだろうが、要は風間を囮に敵を釣り上げようとしているな?」
『あはは、当たり前じゃないか。それくらいさせてもらわないと、タダで護衛なんてできないよ』
悪びれることなく竜胆はぶちまけた。京介は呆れて溜息をついた。
「まったく……」
『そんなに酷いことではないだろう? 子どもならまだしも、大の大人、それも曲がりなりにも魔術師だ。自分の身くらい自分で守るべき立場の人間が、情けなくも他人に助けを乞うてきている、利用くらいさせてもらわないと割に合わない』
一番割に合わないのは京介に違いない。
それじゃあよろしく、と竜胆はさっさと電話を切ってしまう。京介はまだ了承していないというのに。
残念ながら拒否権はないらしいな、と京介は肩を竦める。
振り返ると、風間は玄関扉に凭れて仏頂面をしている。待ちくたびれた、といった様子だ。いつまでも断たせておくわけにもいかないので、京介は躊躇いながらも声をかける。
「えーと……じゃあ、中へどうぞ」
「ったく、やっと話が通ったか」
疲れたような声を上げ、風間は靴を脱ぎ散らし、部屋の中へ入ってきた。
不躾な視線で部屋を見回し、
「へえ、片付いてんな」
と評したが、京介の部屋は片付いているというより、単に物が少ないだけである。
座布団をクローゼットの奥から引っ張り出し、風間に勧める。風間はどっかり胡坐をかくと、
「竜胆様からどこまで聞いてるんだ?」
と問うた。卓袱台を挟んで風間の向かいに腰を下ろすと、京介は電話で聞いた内容を反芻し、ざっくりと要約する。
「あんたが命を狙われているから護衛をするように、とだけ」
さすがにその後の、竜胆の打算に満ちた目論見については話せないな、と思っていたのだが、そんな京介の躊躇いを見通すように、風間は自虐的な笑みを浮かべた。
「竜胆様は無条件で優しくしてくれる方ではないのは解っている。大方、俺を囮に敵を誘き寄せろとでも言っていたんだろう」
「……まあ、だいたいそんな感じだけど」
竜胆の悪評はけっこう広まっているらしい。
「それについては、文句はない」
「……へぇ」
意外な発言に、京介は目を瞬かせる。
「竜胆様は、安全が保障されるまでここに寝泊まりしていいなんて言っていたけど、何日もそんなことになるのは、お互い嫌だろ。俺はさっさと自由になりたいし、お前はとっとと俺を追い出したい」
「追い出したいとは言っていないが」
しかし、かといって風間を大歓迎してはいないし、いつまでもいていいですよ、という気持ちではないのは確かだ。
「気を遣わなくていいさ。要するに、俺たちの利害は一致しているってわけだ。囮作戦、俺はおおいに賛成だ」
囮自らそう言ってくれるなら、京介としてはやりやすい。
「相手は、ここ最近、何人もの魔術師を襲っている妖だって話だが。なんであんたが狙われたんだ」
「こっちが聞きてえよ」
風間はうんざりといった調子で吐き捨てる。
「いきなり現れて、罪深いだとか、一方的に訳の分からないことを捲し立てて、襲ってきた。こっちの話なんか聞きやしねえ、話の通じない、イカれた妖怪だ」
「他の襲われた魔術師との共通点とかは?」
「俺は他に誰が襲われたかすら知らねえよ。ただ単に、魔術師が気に食わねえだけの妖怪なんじゃねえか? まったく厄介な奴に目をつけられちまったぜ」
「あんたの式神はそいつにやられたって聞いたが……相手は強いのか」
「ああ……敵は遠距離から大量の魔力の弾丸を連射する。まるでマシンガンだ」
その時のことを思い出したのか、風間は身震いをした。
話からすると、敵は中長距離からの射撃で相手を圧倒する戦い方をするらしい。どちらかと言えば近接での戦闘を得意とする京介は、まずは相手の懐まで潜り込まなければならない。魔術で遠くの相手に攻撃することもできるが、おそらく強大な妖力を持っているだろう妖怪、しかも射撃を得意としているのであろう妖怪を相手に魔術の撃ち合いをしても、勝ち目があるとは思えない。
「射撃、か……」
「だがよ、不破。俺を上手く使ってくれれば、お前ならあいつを倒せるだろ?」
風間が妙に自信たっぷりに言う。
「あいつは俺を狙ってる。俺に集中してる隙に、お前が不意打ちで倒すんだ。どうだ?」
「あんたはそれでいいのか? 囮作戦に賛成だとは言っていたが、一番危険な役回りだ。もしも相手が釣られてくれたとしたら、それは一度取り逃がした相手を何としてでも討ち取ろうと躍起になってるってことだ。本腰を入れてかかってくるだろうさ。加えてあんたは手負いじゃないか」
「昨日は、下手に応戦しようとしたり、やっぱり逃げたりと、方針がぶれたのがまずかった。囮となれば、俺は防御に集中する。まあ、お前が敵の後ろを取るまでの時間くらいは稼ぐさ。俺も一応魔術師の端くれだ、危険は承知、あいつをぶっ飛ばすためならそれくらいやってやるさ。協力してくれるな、不破?」
とんとん拍子で方針が決まると、謎の女妖怪を仕留めるための囮作戦について、詳細を詰め始める。一度は敗走した割にやけに自信ありげな調子で、風間は作戦を話す。
魔術師を襲う危険な妖怪に対処することについては、異論はない。だが、その計画を一緒に担うのがこの男で大丈夫なのだろうか、と京介は一抹の不安を覚える。まあ、そもそも風間を囮にすることは竜胆だって言っていたことだから、現在立てている計画はさほど問題はない、はずなのだが。
どうにも厄介なことになりそうだな、と京介は嘆息する。そんな京介の心境を知ってか知らずか、風間はやけにやる気満々に拳を固めていた。




