最後の敵は式神さん(9)
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三学期制を採用する神ヶ原大学の講義は、基本的に一単位につき十回の授業が行われる。成績は最終的に期末の試験ないしレポートによりA~Cの三段階で評価される。とはいえ、結果だけよければそれでいいというわけではなく、授業態度というのも重要だ。具体的にいうと、七割以上の出席がなければ、そもそも評価してもらえない。端的に言えば、授業を四回休むと単位を落とすということになる。
一年生の不破京介は、一学期必修科目の「情報講義」の授業を既に三回休んでいた。落単にリーチをかけていた。新入生にあるまじき授業態度である。必修科目を落とすとどうなるか。翌年度に一学年下の学生に交じってやり直すしかない。それだけは避けねばならない。
だというのに、その日、京介は授業に出れない緊急事態に陥っていた。やむにやまれず、京介は事情を知る相手に救援要請を出した。
「潤平頼む、代返しておいてくれ」
『きょーすけ、今日も欠席かよぉ』
当然だが、呆れた声が返ってきた。電話の相手は中学二年生以来からの友人である窪谷潤平だ。情報講義の授業の素晴らしい点は、複数の学科が合同で受講するシステムになっていることだ。京介が本来授業を聞いているべき教室に潤平が合法的に入れて、その上大教室だから一人くらい代返しても気づかれない。実際には代返しているのは一人程度では済まないだろうが、まあ気づかれない。教師の方は代返を阻止すべくいろいろと手を打っては来るのだが、その分学生も手を打つので、結局いたちごっこになるのだ。
ともかく、単位を落とすわけにはいかないので、京介は潤平に出席票の偽造を依頼する。
『きょーすけ、そろそろ出ておかないと、期末試験を乗り切れないぜ』
「それは重々承知してるんだが……仕方がないじゃないか。前にも話したと思うけれど、例の妖が、金曜日の十二時十分を狙って出没するんだから」
毎週決まった時間に現れて問題を起こす妖のせいで、その直後に丁度開講される情報講義が尽く犠牲になっている。
『ってことは、また芸術学系棟に上ってんのか』
「エレベーターが点検中だから階段で九階建ての屋上に上ってるよ」
体力はある方なので、階段を駆け上がりながら電話をしても息切れはしない。
神ヶ原大学はキャンパスが無駄に広い。京介が現在駆け上がっている芸術学系棟から、情報講義の授業が行われる教室がある建物までは、軽く十分かかる。全速力で事件を解決しても、まあ間に合わない。情報講義の担当教授は一秒の遅刻すら許さず、定刻を過ぎて入室した学生には絶対に出席票をくれないことで定評がある(その割に代返は意外とできてしまう)。よりによってこの授業とかぶせて問題が起きるとは。
『ああ、もう、解ったよ。こっちは上手くやっとくから、怪我だけはするなよ』
「恩に着る」
協力を取り付けて通話を終了する。と同時に、屋上への扉を八つ当たり気味に乱暴に蹴り開けた。
その激しい音で、柵から身を乗り出し地上を見下ろしていた背中が振り返った。フォーマルスーツを纏った長髪の男が、京介の姿を認めるや、あからさまに苛立った表情を見せた。
「不破の退魔師、また貴様か! いったい何度、私の邪魔をすれば気が済むのだ!」
「そりゃこっちの台詞だ。毎度毎度、こんな時間によからぬことを企てやがって。俺の単位に恨みでもあるのか」
「貴様の単位などどうでもよいわ。私はただ、一途に彼女に想いを伝えたいだけなのだ。それを邪魔する無粋な男は、馬に蹴られてくたばるがよい」
男の名は馬酔木という。馬酔木はとある女学生に懸想している。奥手を通り越して根性なしの疑惑すらある馬酔木は女学生の名前すらまだ知らない。ただ、一週間に一度だけ、すなわち金曜十二時十分ごろ、三限の芸術の授業を受けるために芸術学系棟の教室へ向かってくることだけは知っている。ゆえに、馬酔木は毎週、建物の前にやってくる女学生に向かって屋上から愛を叫ぼうと画策している。
恋を応援してやりたいのはやまやまなのだが、馬酔木の妖としての特性か、彼が最初に愛を叫んだ瞬間、当の女学生は勿論のこと、その声を聞いた周囲の人間がもれなく卒倒して、学内はちょっとした騒ぎになった。原因不明の集団昏倒事件をもみ消すのに、不破竜胆がひいひい言っていた。
以来、京介は金曜三限を犠牲に、馬酔木が愛を叫ぶのを阻止している。
「好きになるのは構わないが、告白はもっと、他人に迷惑がかからないようにやれと言っているだけだろうが」
「面と向かって言えと? それができれば苦労しないわ!」
「公衆の面前で絶叫するのがOKで、一対一で告白はNGって、どういう基準だ」
「貴様のような朴念仁に、シャイな男の気持ちは解るまい」
「シャイの意味を調べ直して来い」
こうした具合の応酬で時間を稼ぎ、馬酔木が見ていない隙に問題の女学生に通り過ぎてもらい、計画に失敗した馬酔木が失意のままに帰っていく、というのが今までのテンプレートだったのだが、流石にそう何度も同じ手は通用しないらしい。馬酔木は、今日こそは邪魔をされるまいと、早急に決着をつけようと動く。
「温厚なる私も、そろそろ我慢の限界だ。貴様にはとっとと退場してもらうぞ、不破の退魔師よ」
「こっちが穏便に済ませようとしてるのに、戦ろうっていうのか」
「私にも矜持というものがある。こうも毎週毎週虚仮にされて、大人しく引き下がれようか。それに、よくよく考えれば、不破の退魔師を斃したとなれば箔がつく。愛しの姫君にいっそう相応しい私になれるというもの」
「いや、俺を倒したって別に恋愛上有利になれるわけじゃないからな」
「こう見えても私は数々の恋の障害を力ずくで排除してきた百戦錬磨の猛者であるぞ。貴様のようなひょろっちい男のちんけな妨害などには屈しない」
「そっちがその気なら、少し頭を冷やさせてやるよ」
「笑止! 貴様が炎術以外からっきしなのは知っておるぞ。それでどうやって私の頭を冷やさせるというのだ」
「やかましいわ」
芸術学系棟の屋上に、ひゅうぅ、と風が吹く。お互い慎重に相手の出方を見極めるように、緊張に満ちた嫌な静寂が落ちる。
京介は呪符を掴み、馬酔木はなぜかメガホンを掴む。武器のつもりなのだろうか。とりあえず、あれで叫ばれたら煩いに決まっている。断固阻止すべく、詠唱する。
「焔々現界――」
瞬間、突如上空から隕石の如く落下してきた黒い影が馬酔木を踏み潰した。
轟音と共に馬酔木がコンクリートの屋上に顔面をダイブさせ、京介は唖然として呪符を取り落す。
「邪魔だ、下郎。うじうじしてないで、勝手に告白でもなんでもしてろ」
ぴしゃりと容赦なく言い放った闖入者は、馬酔木の首根っこを引っ掴み、電光石火の早業で屋上から地上へ放り出した。
ちなみに九階建てである。
「……」
早く告白して来いと女学生の前へと背中を押してやったのか、単に邪魔な奴を排除しただけなのか。とりあえず、馬酔木は強制的に退場させられてしまった。
登場するやいきなり規格外の行動を見せつけてくれた彼女は、不敵な笑みを浮かべて仁王立ちする。
「久しいな、京介」
黒い軍服じみた装い、風に揺れる黒髪。全身からは自信と不遜さとカリスマ的オーラが漲っていた。
こんな奴は二人といない。
見紛うことなく、芙蓉姫、そのひとである。
「芙蓉……」
あまりに唐突で、想定外の再会に、京介は呆然とする。別れた時よりもいっそう凛々しく、気高くなったように見え、剛毅さに拍車がかかっているような気がする。
彼女と別れてから、八か月ほどが経つ。その間、まったく連絡はなく、便りのないのは良い便りと思って過ごしていた。それが今日いきなり、何の前触れもなく訪れた突然の再会。驚かないわけにはいかない。
一拍置いて衝撃から覚めると、再会を喜ぶ気持ちが湧いてきて、京介は表情を綻ばせる。
「……久しぶりじゃないか。元気だったか? どうしてまた、こんな突然に」
京介は、久闊を叙するときの標準的な対応をしたつもりだったのだが、なぜか芙蓉は不機嫌そうに顔を顰めると、びしりと京介に向かって人差し指を突きつけた。
「能天気にしていられるのも今のうちだ。私は今日、お前を叩きのめすために来た」
「は?」
「お前に再戦を申し込む。決闘だ、決闘!」
「は!?」
言われている意味が解らなかった。本気で意味不明だった。再戦って何だ。決闘って何だ。
「この半年、私は修行に明け暮れていた。もっと強くなるために」
「いやだから、お前これ以上強くなってどうするんだよ」
「無論、お前に勝つのだ」
芙蓉は真面目くさった顔で続ける。
「去年の九月、私はお前に敗北を喫した」
「あれは……」
九月の戦いは、お互いに不本意なものであった。しかしまあ、結果だけをいうなら、確かに京介が勝って、芙蓉が負けた。
「お前のような低能貧弱矮小魔術師に敗北を喫するなど、屈辱の極みだ。負けっぱなしなど許せるはずがない。ゆえに私は、お前と再戦し、お前を完膚なきまでにぶちのめす。お前の勝利が単なるまぐれであり、金輪際起こることのない奇跡であり、天文学的確率のミラクルであったことを証明する」
「子供かッ!」
今まで彼女が敗北するところを見たことがなかったために知らなかったが、一度負けるとこの通り、超がつくほどの負けず嫌いらしい。
「まさかとは思うが、『一人でやりたいこと』ってのは」
「修行のことだ」
当然というように芙蓉は大きく頷く。まさか九月の時点で既にこんな馬鹿げたことを考えていたというのか。
「解ったら、とっとと刀を抜け」
「ちょっと落ち着け、この戦闘バカ。久しぶりに顔見せたと思ったら、いきなり何言ってんだ」
「無論、タダでとは言わない。お前に何のメリットもない勝負では面白くないだろうからな、それなりのものを賭けるつもりできた」
「いったい何を賭けるって?」
正直、何を賭けようが決闘なんて受ける気がなかったのだが、芙蓉が無駄にやる気に燃えているものだから、一応義理で聞いてやる。
「万が一にもお前が私に勝つようなことがあれば、何でもいうことを聞いてやる。お前が私より強いと認めてやるし、主人として認めてやってもいい。お前が望むなら式神にでも何でもなってやろうじゃないか」
「それは……」
敗けたら服従するつもりなのか。あれほど渇望していた自由を手にしたというのに。敗けるなど万に一つもないという自信なのか。それにしても、随分と高すぎるベットじゃないか。
「勿論、私が勝ったら、私のいうことを聞いてもらうがな。どうだ?」
「……ちなみに、勝ったら何を要求するつもりだ」
尋ねれば、芙蓉は得意げな顔をする。
「私の主人になれ」
「――――え」
一拍置いてからその言葉の意味が理解できた。理解して、あまりに予想外のことだったので瞠若する。何かの間違いではないかと思った。
「ええと、それは、つまり」
上擦る声でしどろもどろに問うと、芙蓉は晴れやかに告げる。
「他に選択肢がないからじゃない。弱みに付け込まれたからじゃない。動転してるわけでも絶望してるわけでもない。打算も陰謀も何も関係ない。私は私の意思で、仮初ではない契約を望むのだ。
さあ、京介。この勝負、乗るか?」
芙蓉が右手を差し伸べる。この手を取るのか、と問うている。
初めて出会った時は京介から手を伸べた。そして今、二度目の出会いは、芙蓉から手を伸べてくれた。
ありえないくら上から目線な言葉だけれど、いつも通りであるがゆえに、それが彼女の本心からの言葉なのだと思えて安心できる。
九月に別れてから今まで芙蓉が何を考えていたのか。今この瞬間、芙蓉が何を思ってその言葉を告げたのか。
芙蓉がかつて背負いようやく肩から降ろした荷と、これから背負うと決めたものの重さ。
芙蓉の決意の固さと、重要さ。
そんなことを想ったら、胸が苦しくなって、なんだか泣いてしまいそうになった。それを誤魔化すように、京介は笑う。
「……素直に、『契約しよう』って言えないのかよ」
芙蓉は照れ隠しのように唇を尖らせ目を逸らす。それから急かすように問う。
「それで、答えは?」
迷うことなど何もありはしない。
「――喜んで」
京介は伸ばされた手を握り返す。芙蓉は綺麗な笑みを浮かべて宣言する。
「リベンジマッチだ。次こそは私が勝つから覚悟しろよ」
覚悟なら――隣で生きる覚悟なら、とっくにできている。
本当の主従コンビは、ここからスタートする。
完結しました。活動報告で反省会します。




