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最後の敵は式神さん(8)

 病院の屋上には、夕方になってようやく、涼しい風が吹き始めていた。病室からここまで歩いてくるだけで息が上がって肌は汗ばんでいたので、爽やかな風が心地よかった。

 ぎらついているわけではないけれど、優しく穏やかというほどでもない、中途半端な陽光に目を眇めながら歩いていく。向かう先には、欄干に凭れる後ろ姿が見えた。

 気が遠くなるほどの時間をかけて近づいていくと、黒い髪を靡かせて芙蓉が振り返った。憂鬱そうな色もなければ攻撃的な気配もない、ただ穏やかな表情をする芙蓉に、京介は笑いながら声をかける。

「各地で退魔師たちの度肝を抜いて来たらしいな」

「耳が早いな」

「高峰蓮実が心底不機嫌そうに報告してくれたよ」

「あんな連中の管理する檻なんぞに入れられてたまるか」

 無論、芙蓉のことだ、ただ単に高峰蓮実が気に入らなくて困らせようとしたわけではないだろう。

「私が捕えられたら、お前、気にするだろ」

 ここまできて結局芙蓉が自由になれないとなったら、まあ確かに、ちょっとへこむ。

「穏便に済ませられれば一番よかったんだけどな。もっと早く、いい方法が見つかればよかったんだけど」

「だが、結果論だが、私はこれでよかったと思っている……こんな言い方をすると、怪我をさせてしまったお前には悪いと思うが」

「俺も全力でぶった斬りにいったから、イーブンだろ」

 とはいえ京介と違って芙蓉の方は、各地の強敵共を三分で片づけられるほどに回復しているようだが。

「……王生樹雨と会ってきた」

 躊躇いがちに芙蓉が切り出した言葉に、京介は驚いて振り返る。

 王生樹雨は現在、中央会に身柄を拘束されている。式神への非道な仕打ち、そして式神を使って行っていた死体の蒐集、禁忌の蘇生実験等々、彼が犯した問題の数々はすべて明るみに出た。その「真実」は芙蓉のことをも傷つけることになる諸刃の剣であったが、芙蓉も京介も覚悟を決めて全部を明らかにした。実刑は免れないだろうというのが竜胆の見立てだ。現在は厳重に拘禁されていて、面会も難しいと竜胆は言っていた。

「無理を言ってな。目が覚めたら、私の手から契約紋は消えていた。だが、それで終わりにするわけにもいくまい。けじめをつけておきたかったんだ」

「けじめ、か……」

「ああ。あの男は、最初からおかしかったわけではないんだ。私が出会った時は、普通の退魔師だった。人と妖を守る、そんな理想を持つ退魔師だったんだ。私はそれに協力したいと思った」

 そして契約を結んだ。だが、その直後だった。王生樹雨の両親が死亡した。心中だった。それから王生はしばらく塞ぎ込んでいた。出会って間もなかった芙蓉には、彼にかける言葉が見つからなかった。

 半月ほどして、少しは気持ちが落ち着いて来たのか、王生はぎこちなくも笑みを浮かべるようになり、退魔師としての仕事を再開した。芙蓉は王生を支え、見守りながら、彼と共に戦った。それが自分にできる一番のことだと芙蓉は思っていた。けれど、その時にはすでに、王生は裏で恐ろしい計画を立てていた。芙蓉はそれに、気づかなかったのだ。

「気づいた時には、もう取り返しのつかないくらいまで、王生樹雨はどうしようもない過ちを犯していた。私では止められなかった。もっと早く気づくべきだったんだ。隣にいたのに気づけなかった、私は愚かだったんだ」

 それを謝って来たんだ、と芙蓉は告げた。己が深く傷つきながらも、芙蓉は後悔していた。主人の過ちを式神として正すべきだったのだと、それができなかった自分にも罪があるのだと、思い悩んでいたのだ。

 それから芙蓉は、困ったように笑う。

「そうしたら、あの男はこう言ったよ――」


★★★


 両者の間は、透明なガラスで隔てられていた。ガラスの向こうで、王生は両手に手錠をかけられていた。その奥には見張りの魔術師が二人。無理を言って面会までこぎつけたが、話をできる時間は五分だけだと厳しく言われた。ゆっくり話している時間はない。芙蓉は言うべきこと、謝るべきことを告げた。

 それを聞き終えるや、王生は嘲笑うように言った。

『式神の分際で主人に逆らおうなんて、思い上がりだ』

 ただ、その嘲笑は、どこか無理をしているようなぎこちなさがあった。

『主人が暴走したら、式神にそれを止める術などない。絶対的な主従関係とはそういうものだ。そんな生意気なことを考えるお前は、式神としては欠陥品だよ』

 やがて冷笑は自嘲的な表情へ変わる。

『そして僕も、自分の式神を裏切り、騙し、利用し、傷つけ、穢した。式神の言葉をすべて無視し、人形同然に扱い、そのくせ解放してやることもせず、自由を許さなかった。非道の限りを尽くした。主人としては欠陥品だ。あの男の言うとおり……僕は、お前の主人に相応しくなかった。よく解ったよ』

 ゆえに自らの意思で契約紋を手放したのだと、王生は投げやりに言う。

『お前は式神失格、僕は主人失格。お互いに出来損ないの不良品だ。こんな契約は破棄してしまうのが正解だよ』

 お互いにそれを望んだ。ゆえに、契約紋は消えた。

『これでいい。もう僕たちは、何のつながりもない、他人だ。二度と僕の前に現れるなよ』

『ああ……これで、お終いだ』

 謝って、納得して、その上で、お互いに突き放した。

 欠陥だらけの過去と失敗ばかりの契約とは決別した。

 

★★★


 やるべきことを終えてきたという芙蓉は、疲れたような、同時にどこか満足したような表情で言う。

「お前のおかげだよ、京介。お前が私を今まで守ってくれて、そして最後に、私と、あの男に全力でぶつかってくれたから。私は過去と決別できた。三年前に失敗した別れを、ちゃんとやり直せた。あの男を殺して終わりにしていたら、私はずっと後悔に縛られていただろう。だから、これでよかったんだと思う」

 犯した過ちと向き合って、別れを告げて、罪を清算して、そうして自由を手に入れることにこそ意味がある。三年かかってしまったけれど、ようやくそこに辿り着けた。芙蓉の物語は、ここで一つのピリオドを迎えた。

 不意に芙蓉は屋上のフェンスから心持ち身を乗り出す。彼女の目には何が映っているのだろうかと、京介はつられて視線を追う。芙蓉はただ地上を見下ろしていた。眼下にはだだっ広い病院の駐車場が広がっているだけで、変わったことは何もない。その先へ視線をやれば、疎らに建つ民家と畑と森が見えるくらい。

 何ら特別なことなどない、ただの平穏な風景の一コマ。けれど、その平和な風景を享受できることこそが、芙蓉にとっては数年ぶりの特別なことかもしれない。今、芙蓉の体には契約紋は刻まれていない。過去から追いかけてくる魔手に怯えなくていい。平和な光景の裏に潜む暗い陰を疑わなくていい。消え去った契約紋の代わりに、何者にも脅かされることのない自由が、芙蓉の手にはある。

 芙蓉はけじめをつけてきた。ならば、今度は京介の番だろう。

「……最初に交わした約束を覚えているか」

「お前より記憶力はいい」

 芙蓉が向き直る。京介も彼女の紫苑の瞳を見つめ返し、手探りするみたいに言葉を選んでいく。

「お前の自由を取り戻す。そのために契約した」

「ああ。お前は約束を果たしてくれた」

 京介は小さく頷く。お互いにもう解っている。かつて交わした約束の終着地点はここだ。

 約束は果たされ、二人を繋ぐ仮初の契約は消えた。共にいる理由はなくなった。

 京介は迷っていた。

 さあ、お前はもう自由だと、芙蓉の背中を押して送り出し、別れを告げるべきか。

 理由なんかなくても、一緒にいてほしい、隣にいてほしいと願うべきか。

 これからどうするのが一番正しいか、迷っていたのだ。

 終点を過ぎてからどうするべきかは、最初から考えていたことだ。そして、この屋上に辿り着いてからも、答えを出しあぐねていた。けれど、芙蓉の言葉を聞いて、ようやく心が決まった。

 京介は右手を差し出して、努めて笑顔で言う。

「今までありがとう、芙蓉」

 三年前、京介は芙蓉を助けたくて、彼女に手を伸べた。その手を、芙蓉が握り返してくれたときから、すべてが始まった。そして、終わる時もまた、京介から手を伸ばす。これは、別れの握手だ。

「お前にとってはつらい時間が長かっただろう。だからこういうふうに言うのは変かもしれないけれど。仮初の契約だとしても、お前が隣にいてくれた時間は楽しかった」

 口にすることが許されるのだとしたら、幸せだったと言ってもいい。

 三年前、苦しくて仕方がなかったときに出会った彼女の存在は、京介の支えだった。

 彼女がいてくれて、一人ではできないことがたくさんできた。少しずつ心を開いてくれるのが嬉しかった。隣にいてくれることが、心強かった。

 助けたいと思って、けれどそれ以上に助けられていたのは京介の方だった。

 芙蓉は小さく首を振り、優しい微笑みを浮かべる。

「つらい時間は、たいして長くはなかったよ。私も楽しかった。あの時、出会えた相手がお前でよかったと思っている」

 そんな風に言われてしまえば、決心が揺らぎそうになる。けれど、決めたことだ。胸が苦しくなりそうなのを堪えて、京介は言葉を紡ぐ。

 芙蓉と出会ってからの時間は、京介にとって幸福だった。次は芙蓉の番だ。ようやく自由になれた芙蓉は、これから幸福にならなければいけない。

 そのために、枷は要らない。

 強くて、気高くて、凛々しい彼女の足枷になってはいけない。

 京介はもう一度繰り返す。

「今までありがとう。ずっと、お前の幸福を祈っている」

 それが、京介が出した答えだった。

「そう、か……」

 芙蓉はそっと目を閉じる。京介の答えを受け止めるように、静かに目を閉じている。

 自分の中で考えて出した「別れ」という答えを、どう言葉にするか、京介は散々迷った。できることなら、芙蓉が傷つくことなく、何の重荷も感じることなく、旅立っていけるようにと願って、選んだ言葉のつもりだった。冷たく聞こえないように、それでいて未練を感じさせないような、そんな声で出したつもりだった。

 閉じた瞼の向こうで、紫苑の瞳は何を想っただろうか。不安になるくらいの時間を、芙蓉はじっと黙っていた。

 やがて芙蓉は目を開く。その瞳は、唇は、微笑んでいた。

 ゆっくりと持ち上げられた右手が、京介の手を握り返す。

「ありがとう、京介」

 芙蓉がこんな風に素直な言葉で礼を言うなんて、もしかしたら初めてではないだろうか。こんなときだというのに、京介はついそれが可笑しくて、ふっと息を漏らす。その意味を正確に理解したのか、芙蓉は握った手を解くと、少し拗ねたように唇を尖らせて目を逸らす。

「私は行くよ。色々と、一人でやりたいこともある。お前との時間は楽しかった。それは本当だ。だけど、今の私はきっと、ここではない別の場所に行く理由がある。私は……」

 微かな声で芙蓉が何かを呟いた。けれど、それは不意に吹いた風で掻き消え、彼女の表情は靡いた髪に隠されて見そびれてしまった。

 また会えるだろうか。そう問おうとして、しかし京介は、結局言えなかった。なんだか引き留めるように聞こえてしまいそうで、怖くなって、やめた。

「……さよなら、芙蓉」

「ああ、またな、京介」

 また、と。

 自分が言えなかった言葉を芙蓉の方から言われて、京介ははっと息を呑んだ。けれど、それ以上の言葉を継ぐ前に、屋上に突風が吹き抜け、京介は思わず目を閉じる。

 次に目を開けた時、そこに芙蓉の姿はなかった。

 どこかに姿がないだろうかと探して、屋上の柵から身を乗り出して景色を眺めてみたけれど、そこにはやはり誰もいない。

 京介はしばらく、呆然として、フェンスに凭れていた。



 いったいどれだけの時間、ぼんやりと過ごしていただろうか。空が薄暗くなりかけた頃、屋上に一つの足音が響いた。近づいてくる足音は、芙蓉のものでないことは間違いなかった。

「ここにいたのか、きょーすけ」

 潤平が呆れを滲ませた声で言う。京介が振り返らずいると、潤平は隣に並んでフェンスに凭れた。

「姐御は、行っちまったのか」

「ああ」

「きょーすけが、送り出したのか」

「ああ」

 潤平が小さく溜息をついた。

「きょーすけは、そうするんじゃないかと思ってたよ」

 ようやく京介は顔を上げて潤平を見た。潤平は苦笑を浮かべて続ける。

「姐御にとって一番のことをする……自分の我儘はきっと言わないだろうと思ってたよ。きっとそれが正しい。きょーすけらしいよ。とはいえ、ちょっとくらい我儘言っても、間違いじゃなかったとは思うけどな」

 まだ傍にいたいなんて贅沢な我儘は言えなかった。

 これでいい。これが正しい。そう解っている。けれど。

「強がってるだけなのかもしれない」

 京介は空を仰いで、片手で顔を覆う。

「ちゃんと送り出すって決めたのに、いざ本当に、芙蓉がいなくなったら、苦しくなった」

 口では別れを言いながら、心のどこかで、もしかしたらと期待していたのかもしれない。芙蓉が去り、呆然としながらそんな情けない未練に気づいた。あんまり情けなくて、普段だったら絶対に言わないような泣き言を潤平に漏らしてしまっている。

「それくらい、許されるだろ」

 じめじめした泣き言に、文句ひとつ言わずに、潤平は慰めるように付き合ってくれる。

「出会い方がどんなだって、ずっと一緒にいた人がいなくなったら寂しいに決まってる。出会った時から、いつか別れなきゃいけないって決めてたって、いざその時になったら『もう少しだけ』って思いたいに決まってる。そういうもんだろ」

「そういうものかな」

「俺が言うんだから間違いないっての!」

 力強く断言すると、潤平はフェンスから体を離して踵を返す。

「そろそろ戻るぞ。病室にお前がいないって、先生がお冠だった」

 潤平が先に歩いていく。

 きっと潤平には見られていない。右手で覆い隠した下で一筋だけ流れたものを勢いよく拭い去ってから、京介は潤平の後に続いて溜息交じりに言う。

「……それをもっと早く言えよ」


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