最後の敵は式神さん(7)
世界は裏切りと絶望に溢れている。それを悟った瞬間、歯車は狂ってしまったのだろう。
最初に裏切ったのは父だ。父は母を裏切り、子を裏切った。母を愛していたはずなのに、いつしか母を蔑ろにし、別の人間を一番に愛し始めた。
そして母も王生を裏切った。母は父に、裏切りの代償を払わせることにしたようだった。王生を一人置き去りにして、母は父を道連れにこの世を去った。
なんと馬鹿げた愛憎だろう。なんと滑稽な死だろう。王生が退魔師として、たくさんの命を守り、たくさんの平和を守っている間に、一番大切な命は勝手にあっさりと消えてしまい、一番身近な家庭の平和はあっけなく崩壊した。
残ったのは、世界を壊した元凶である女と、従者である妖。
姫井栞奈は、一応罪悪感というものを感じていたようだった。自身のつまらないエゴのために、一人の人間から両親を奪うことになった事実を重く受け止めていた。ゆえに、姫井は王生の言うことを何でも聞いた。どんな命令にも従った。契約を結んでいるわけでも、魔術で強制されているわけでもないのに、まるで式神のように従順だった。
それとは対照的に、従順であるべき式神の方は、王生の所業を知るや、王生を止めようとした。必死で抗った。お前は間違っていると言い続けた。
その瞬間、王生は三度目の裏切りを味わい、三度目の絶望に落ちた。式神である彼女は、いつでも、どんなときでも味方だと思っていた。最後に残った唯一の味方だと思っていたのに。
お前まで裏切るつもりなのか。そんなことは赦さない。反抗するな。ちゃんと従え。離れるなんて認めない。
芙蓉姫だけは、この手から零してなるものか。
――そう思っていたのに。
結局、零れ落ちていく。手をすり抜けていく。
王生の手の中には、もう何も残っていない。
王生は、自分が裏切られたことばかり嘆いて、暴走を始めた。
けれど、その時、裏切られたと嘆き悲しんだのは王生だけではない。芙蓉も同じだけ傷ついていた。それなのに、王生は自分だけが悲劇の主人公であるかのように振る舞い、芙蓉の哀しみには気づかなかった。芙蓉もまた心を持つ一人の存在であることを無視して、蔑ろにして、モノのように扱った。どうしようもないくらい利己的だ。
王生は自分以外が見えていなかった。自分にとって都合のいいことしか見ようとしなかった。見えていれば、三年前、芙蓉と姫井のどちらが、本当に王生のための言葉を紡いでいたか解ったはずなのに。
そうすれば、もっと違った結果になっていただろうに。
★★★
一刀のもとに王生は崩れ落ちていく。疲れ切って、諦めて、泣いているような顔に見えた。
王生が力なく倒れるのを見届け、ようやく戦いは終結する。深く息をつき、京介は刀を仕舞う。もう武器は必要ない。
たんっ、と軽い跳躍の音。上から姫井栞奈が飛び降りてきた。傷を負っているためか少々よろめきつつも、王生の傍らに辿り着き、姫井は溜息交じりに告げる。
「私たちは間違えた。最初に私が間違えて、あなたまで間違えさせてしまった。ごめんなさい」
姫井は苦しげに顔を歪ませる王生を抱き起す。そして徐に懐から小さなナイフを取り出した。それは、手練れの魔術師たちを屠るには全く足りない玩具のような凶器だが、疲れ果て身動きもままならない男の命一つを刈り取るには十分すぎる得物だった。
「お前、何を」
「案ずることはないわ、不破の退魔師。今更抵抗なんて、無駄なことはしない。ただ、自分たちの罪を自分たちで清算するだけ。主が死ねば契約は自動的に消える。あなたたちが手を汚さずとも、元々汚れた私の手が更に汚れるだけで、彼女は解放される。それでお終いよ」
何の迷いもなさそうに淡々と告げると、姫井は王生の喉元にナイフを突きつける。姫井は性急に決着をつけようとする。
と、それを王生が手で制した。かろうじて意識があるらしい王生は、視線だけ動かして京介を見上げる。
「主が死ねば契約は消え去る……だが、それは往生際悪く敗北を認めず逃げることと同義だ。僕はそんな醜いことはしない」
王生は乾いた笑みを浮かべながら詠う。
「誓約の儀は無に還れ。契りの証は塵と成れ。繋がれし御魂は別離の道へ解き放たれよ」
死によって、強制的に契約を断ち切られるのではなく、自分の意思で契約を破棄すること。それが王生の選んだ、敗けの認め方だった。
「君の……君たちの望み通り認めよう。僕は相応しくなかった」
王生の右手の契約紋が光を放つ。花弁の紋様は少しずつ小さな光の粒になって、ゆっくりと宙に溶けていく。芙蓉はずっと解放を求めていた。そして今、王生もそれを望んだ。二人を繋いでいた鎖は消滅する。
白い光が塵になって消える。それを見届けると、姫井がふっと溜息をついた。
「最後ばかり物わかりがいいみたいに潔くいい子ぶって。あなたは本当に厭な人ね」
口ではそう言いながらも、さして厭とは思っていないような表情で、姫井は持ち上げていたナイフを投げ捨てた。
全部終わった、と竜胆に連絡を入れると、それからは慌ただしかった。竜胆がゴーサインを出した瞬間、蓮実率いる中央会の退魔師たちが乗り込んできた。「障子張りはもう終わりです! 全員ひっ捕らえなさい!」と、なぜかフラストレーション爆発みたいな調子で蓮実が号令をかけて、王生をはじめとする魔術師たちは捕縛された。
ばたばたしているうちに、蓮実と、疲労困憊気味の弁天の目が合った。弁天は自分がお尋ね者であることを思い出したようで、どさくさに紛れて逃亡する方向で舵を切った。
「じゃあね、不破京介。生きていたらまた会おう」
早口に別れを告げる弁天の背中にかろうじて礼を言う。神出鬼没の妖怪は嵐のように過ぎ去った。蓮実が疲れ切った顔で「見なかったことにしておきましょう」と呟いていた。
魔術師たちの捕縛と屋敷の捜索とで慌ただしく動き回る退魔師たちを、京介は離れたところで眺めていた。散々踏み荒らされた庭園の花壇の縁に腰を下ろしてぼんやりしていると、竜胆がゆったりとした足取りで近づいてきた。
「お疲れさん、京介。ようやく、全部終わったという感じだね」
「ああ。……皆は?」
「歌子ちゃんは病院送りで、妖たちは中央会直轄の治療施設送り。お前もまもなく病院に叩きこむからそのつもりで」
こちらの後始末が終わるまで見届けようと思って現場に居残っているが、本来真っ先に病院送りにされるべきは京介だろう。体中痛くて仕方がない。
「まあ、ざっと見た限り、傷が深かったのは紅刃君と紗雪ちゃんだけど、彼らの治癒能力は高いし、冗談を言う元気はあったらしいから大丈夫だろう」
「そうか」
「それより何が一番面白いってね。お前たちのパーティーの中で一番非力なはずの一般人・窪谷兄妹がほぼ無傷であることだよ。魔術師だらけの戦場に乗り込んで、五体満足なだけだってすごいのに、ノーダメージで悠々帰還するってさ、あの二人はちょっとヤバいね」
本気で感心した風に言われて、京介は小さく吹き出した。二人が無事であるのは勿論喜ばしいことだ。だが、確かにあの二人は、いろいろヤバい。
それから京介は躊躇いがちに問う。
「芙蓉は……」
彼女がこれからどうなるのかが一番の問題だ。同時に、一番訊くのが怖いことでもあった。
「怪我の方は問題ないよ。お前が気になるのは芙蓉ちゃんの処遇の方だろう」
「お咎めなしというわけにはいかないだろうな」
「そうだね。主人への殺人未遂と、禁忌の二重契約、そしてこれだけの騒ぎだ。事情が事情だから、厳しいことにはならないだろうけど」
式神は主人に逆らえない故、主人に命じられて犯した罪は主人の罪だ。だが、芙蓉の場合は自分の意思で犯したことのほうがいろいろと問題がある。
「芙蓉ちゃんも、手当てのために治療施設に運ばれて、そこでの治療が済んだらたぶん拘束される。長くはならないと思うけど」
「契約がなくなっても、芙蓉が自由になれなきゃ、ここまでやった意味がない」
「解ってるよ。できるだけ彼女の不利にならないように掛け合ってみる。それくらいしか、私にはできないからね。そうそう、それはともかく、人の心配ばかりしている場合じゃないよ。二重契約っていったらお互いに禁忌なんだから、お前だって責任を問われるぞ」
「ああ、まあ、そうだろうな」
バレたらそうなることは解っていたから仕方がない。
「あと、忘れられちゃ困るけど、刈夜叉壊した責任。三千万」
「げっ」
それは本気で忘れてた。京介は顔を引きつらせる。
「と、とりあえず全部落ち着いてからにしないか金の話は」
「ダメダメ。うっかり収監されでもしたら、出てくるころには債権が時効消滅なんてのもありえるし」
「シャレにならないことを言わないでくれ」
「慌ただしくなる前に耳を揃えて払っておきなさい、三千万ベトナムドン」
「…………ベトナムドン?」
聞き慣れない単位に眉を寄せる。竜胆は悪戯が成功した子供みたいににやにや笑ってる。
「私は一言も『三千万円』なんて言ってないよ」
「……ちなみに、円に直すといくらなんだ」
「十五万円くらい?」
たぶん貯金で足りる。
★★★
竜胆の宣言通り病院送りにされ、すっかり顔なじみになった主治医から「こないだ追い出したところじゃないか!」と激怒され、即入院する羽目になってから、三日が経った。
絶対安静での療養を余儀なくされていた京介の元に、病室前に掲示された「面会謝絶」の札を華麗に無視して見舞客がやってきた。上機嫌そうな竜胆と、不機嫌そうな蓮実の二人組だった。
まだ起き上がるのがつらいので、京介はベッドに横たわったまま、一応言っておく。
「面会謝絶になってなかったか」
「最近、老眼が進行していてね」
竜胆はしゃあしゃあと言ってのける。還暦越えの竜胆は百歩譲ってそれでいいとして、まだ三十代の蓮実は同じ言い訳でいいのだろうか。
「別に、意識不明の重体ってわけじゃないからいいだろ。今回の面会謝絶なんて、お前が脱走常習犯の上に退院してもすぐさま懲りずに戻ってくる常習犯なせいじゃないか」
「脱走は半分くらい竜胆ばあさまのせいだろ」
ついムキになって言い返すと、その拍子に胸に激痛が走って悶絶する羽目になった。意識不明の重体ではないけれど、肋骨骨折は普通につらい。
「……で、用件は」
さっさと本題に入れと促すつもりで問うたが、蓮実が一緒に来ている時点でだいたい察しがついていた。
「いろいろやらかしたことについての処分のことなんだけどさ」
竜胆が視線をやると、蓮実が不機嫌そうな顔のまま、不愉快そうな声で沙汰を告げた。
「五十パーセント」
「は?」
「六か月間、中央会から貴殿へ支払われる労働報酬を、五十パーセントカット」
「……減給で済むのか?」
まさかと思って訊き返すと、蓮実はますます苛立たしげに眉を寄せてしまう。何か地雷を踏んだだろうか。
「次に何か問題を起こしたら容赦なく牢獄に放り込むのでそのつもりで」
思いのほか温情ある処分に驚いていると、竜胆が種明かしとばかりに笑う。
「情状酌量って奴だよ。今回は色々と、イレギュラーな要素が多かったというか、拠所ない事情があったというか。決して、私の屋敷をめちゃくちゃにしたことや、敵の嘘にまんまと乗せられてお前を拉致したことを盾に脅迫したわけではないよ」
脅迫したらしい。
蓮実の不機嫌の理由は、成程そういうことかと、京介は得心した。
「それで、芙蓉は?」
京介にとってはそちらの方が重要だ。急くように問うと、困ったことに蓮実が更に不機嫌そうになった。彼女の不機嫌は天井知らずである。
「本来であれば、彼女が起こした問題はそう簡単に許されるものではありません。主人の殺害未遂、二重契約などと、見本市みたいに尽く禁忌を犯していますから。ただ、事情が事情なので、情状酌量すべきという声も大きかったのは事実です。しかしそれでも、少なくとも三年の懲役は免れないところでした。……それを本人に言ったら、なんと答えたと思われますか」
「なんて言ったんだ」
「『妖にとっては、三年も三日もさして変わらん。三年分働いてやるから三日で終わりにしろ』」
予想の斜め上を行く解答に京介は唖然とする。成程、蓮実の機嫌が悪くなるわけだ。
「そんなふざけた話、普通ならまかり通るはずもありませんが、彼女は有言実行、即座に三年分の労働をこなしてしまいました」
「あまり聞きたくないけれど、何をしたんだ」
「各地で問題を起こしている妖怪、魔術師の制圧です。中央会には全国から協力要請が寄せられていましたが、人手不足のため、なかなか全てには手を回せていませんでした。が、彼女は派遣されるや否や、現地の退魔師たちが苦労するレベルの強敵を、流れ作業のごとく一件三分のペースで片づけました」
各地の強敵たちが可哀相になってきた。
「まあ、そんな感じで中央会に尽くして反省の態度を示したことと、あとは私がちょっと口添えしたことで、穏便に済ませてもらえることになったわけだよ」
竜胆が後を引き取ってまとめた。とりあえず、竜胆の言う「口添え」は間違いなく「恐喝」だったに違いない。
「今後しばらく、多少の監視はつくかもしれないけれど、身柄を拘束されることはないみたいだよ。めでたしめでたし」
めでたいのはあなたがたの頭だけです、と蓮実がキレ気味に呟いていたが、聞かなかったことにした。
「そういうわけで、芙蓉ちゃん、早速自由になったから病院に来てるよ。起きる元気があれば会いに行けば?」
そういうことであれば、起きないわけにはいかない。
竜胆に教えられて、京介は芙蓉が待つ屋上へと向かった。




