最後の敵は式神さん(6)
苦痛に顔を顰めながら立ち上がろうとすると、床に着いた手が血でずるりと滑った。どうにか体を起こしたところで、手厳しい叱責が飛んできた。
「おいこら、不破京介。しっかりしないか」
苛立ち気味の声に、京介は肩越しに後ろを振り返る。数メートル離れたところでは、仲間たちが固唾を呑んで見守っている――否、一人だけ心配というより不機嫌さを前面に押し出している奴がいた。弁天が低い声で言う。
「こんなところでそんなクズに負けて死ぬようなら殺すぞ」
「……お前は芙蓉みたいな無茶を言うな」
京介は思わず苦笑する。
刀はまともに握れないし、困ったことに呪符は先刻駄目にされたので全部だ。さて、どうしたものか、と思考を巡らせていると、王生は悠然とこちらに向かって歩いてくる。その足取りは差し詰め死神の歩みといったところか。
「万策尽きたかい? なら、これでぐちゃぐちゃにしてやろう」
王生の右手に再び錆色の光が集束し始める。
利き手を潰して、呪符を奪って、体をぼろぼろにして、それでとどめをさせると思っているなら――冗談じゃない。
血で濡れた左手が走る。
京介は苦痛をまとめて笑い飛ばして言い放つ。
「退魔師を舐めんなよ」
この身に流れる血の一滴までもが退魔師の武器だ。そういうふうに、スパルタな師匠に叩きこまれた。
「火焔と灰の王よ、我が血肉を喰らい、狼煙を上げよ」
左手は血をインクにして呪文を書き終えた。床に滴る血が火を放つ。王生の足元まで続いている血は導火線と化す。
「地獄の業火は地を砕き天を穿て――火誅現界!!」
血を媒介に発動した火焔は王生を呑み込むように轟と立ち上る。渦を巻く炎の柱に穿たれ、王生の引き攣れた呻きが聞こえた。
地獄から湧き出したかの如き火柱で吹き飛ばされ、王生の体が床に投げ出される。服はところどころ焼け焦げ、肌は煤けている。仰向けに横たわる王生の動きを、京介は警戒し見守る。
「――く、くっ」
静寂を破る嘲笑。京介は思わず舌打ちする。
王生は立ち上がる。何事もなかったかのように平然と。両の脚でしっかりと立ち、ふらつきもしない。京介の方は刀を支えにやっとのことで立ち上がる。人の渾身の一撃をさらっと流しやがって、と内心で毒づく。
「何度やっても無駄なことだ。君の攻撃なんて、僕には通用しない」
攻撃は当たっているはずだ。それにもかかわらず、王生は疲労も苦痛も感じさせない顔で笑う。治癒の魔術を使っている様子もない。彼の頑丈さは明らかに異常だ。何か仕掛けがあるのだろうけれど、京介にはそれが解らない。
「今度こそとどめ、を……」
その時、不意に王生の表情が変わる。言葉がぎこちなく途切れ、驚愕に目を見開いている。
そして唐突に、がくりと膝をつく。今までのダメージを今更になって思い出したみたいに。
「か、らだが……な、ぜ……」
先程までの強気な態度が掻き消え、狼狽と苛立ちが混じった顔で、王生は唸る。
いったい、何が起きている――?
★★★
時は僅かに遡る。
姫井栞奈は深い溜息をつく。這う這うの体で、ようやく部屋の入口まで辿り着く。ふと、部屋の中を振り返る。つい数分前までそこにあったはずの水槽、その中の死体の部品の数々、それらは、綺麗さっぱり、跡形もなく消え去っていた。
すべてを焼き尽くすような大爆発も、すべてを押し流すほどの大洪水もない。ただ静かに、不気味すぎるほど静かに、深い闇が呑み込んでいった。有言実行とばかりに、弁天の影が喰い尽くしてしまったのだ。死体という、手加減する必要がないものが相手だと、凶悪さが振り切ってしまうらしい。闇色の手が、部屋の中の形あるものを手当たり次第に黙々と咀嚼していく様は、思い出すと身震いしそうだ。
姫井のことも、弁天は簡単に殺せただろう。だが、彼女はそれをしなかった。人間相手には手加減しないようなことを言っておきながら、彼女はなかなか慈悲深いらしい。弁天の「影骸」は姫井に纏わりつき、姫井の魔力を喰いつくし、散々死の恐怖を与えた上で闇から吐き出して放り出した。……否、全然慈悲深くなんてなかった。
ともかく、そういうわけで姫井は命拾いをした。しかし、命以外の何もかもを失った。苦労して集めた死体の優れたパーツも、研究資料も、失敗作の人形も、全部だ。
しかし、もしかしたら心のどこかでそれを望んでいたのかもしれない。花朱雀を失った瞬間に、もうどうでもよくなってしまったのかもしれない。あるいは、いつの間にか王生以上に暴走し始め、止まりようがなくなっていた自分に不意に気づいて、止めてほしくなったのかもしれない。だから、花朱雀が壊れた後、わざわざ研究室まで逃げ込んだ。弁天が追いかけてくるだろうことを頭のどこかで解っていたはずなのに。
すべて消し去られてしまった以上、止まらざるを得ないだろう。命はあるけれど、命だけを持って進んだところで、望むものはきっと手に入らない。
「もう……潮時、なのかしら」
がらんどうになった部屋を後にして、姫井は廊下に出る。少し前に、爆発でも起きたのかというような轟音が響いていた。建物も尋常でなく揺れた。よもや建物ごと倒壊するのではないかと心配になるほどだった。幸い、そうはならなかったようだが、何が起きたのか流石に気になった。音のしたと思われる方へ、のろのろと歩いていく。
爆音の理由は間もなく察せられた。廊下の一部に巨大な穴が開いている。天井にも同様だ。三階から誰かが馬鹿みたいな力で魔術をぶちかましでもしたらこうなるだろうな、と想像する。そして、その誰かとは、十中八九芙蓉姫だろうな、とも想像する。
芙蓉姫が床をぶち抜くほどの魔術を放ったとしたら、ではこの下にあるのは不破京介の死体だろうか。それとも、芙蓉姫の亡骸か。そんなことを想像しながら穴の縁までやってくる。
眼下に広がっていたのは、どの想像とも違っていた。
不破京介と王生樹雨が戦っていた。ぼろぼろに傷ついた京介と、怒り狂った王生が、魔術の撃ち合いをしている。そして、芙蓉姫は弁天に抱かれ気を失っているようだった。それで、姫井には、自分がぐずぐずしていた間に何が起きたのか、だいたいのことを察した。
「……そう、彼は、芙蓉姫に勝ったのね」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
下には、京介の仲間たちが勢ぞろいしていた。ということは、他の仲間たち――麻生や安達も敗北したのだ。そして、姫井自身も負けて、何もかもを失った。
もうどうしようもないくらい、完敗じゃないか。
「こういうのを、格が違う、っていうのかしら。歪みきった私たちと違って、彼らはとても真っ直ぐ、大切なものを守ろうとしている。きっと、何度やっても結果は同じ。私たちでは、一生かかったって勝てやしないわ」
全部終わりにする時だ。
死者に囚われ、過去にしがみついて、悲劇の主人公ぶって、いつまでも誰かを不幸にしてばかり。そんな、妄執に囚われた物語を、終わらせる時。
それは私の役目だ、と姫井は決意する。
誰にも届かない声で、姫井は唱える。
「『自律人形』――停止しなさい」
★★★
驚異的な耐久力と朽爛の魔術で京介を翻弄していた王生の動きが突如停止した。何が起きているか解らないというような顔で、王生は膝をついている。何とか立ち上がろうとしているようだが、その動きは壊れた機械のようにぎこちない。
やがて、王生は怨嗟に満ちた形相で上を仰ぐ。その視線を追うと、天井に開いた穴の縁に姫井栞奈が立っていた。
「栞奈! なぜ術を解除した!」
激昂する王生に対して、姫井は淡々とした調子で告げる。
「他人の術の補助が無ければ満足に動くこともできない死にぞこないが、偉そうな口を利かないことね」
「何だと……!」
それから姫井は不意に京介に視線を向ける。
「見ての通りよ。三年間の昏睡から目覚めたばかりの彼は、私の人形術の補助で戦っていた。魔術が切れれば這い蹲るしかない」
「なっ……」
姫井の言葉に、京介は二重に驚愕する。王生を動かしていたのが姫井の魔術だったということ、そして姫井がそれを今になって明かしたことに。だが確かに、言われてみれば納得できる部分もある。瀕死の重傷を負って昏睡状態だった人間が、起きて間もなく満足に戦えるのは、確かに奇妙だとは思っていた。その疑問の答えは、こういうことだったのだ。
「栞奈、今更僕を裏切るつもりか? お前にそんな権利があるとでも思っているのか!」
「これこそが私の義務よ。あなたがおかしくなってしまったことに、責任は感じている。だけど私は、責任の取り方を間違えた。確かに今更だわ。だけど、今更だとしても、正しくやり直すべきよ。……まあ、それ以上に、暴走するあなたの言いなりに付き合い続けるのに疲れ果ててしまったのだけれど」
「栞奈……ッ!」
王生は忌々しげに歯噛みし、拳をぎりぎりと握りしめる。
「くそっ、勝手にしろ! お前の力がなくとも、僕はやれる。忌まわしい敵を斃し、僕の所有物を取り戻す」
血走った目で睨みつけながら、王生が立ち上がる。酷く緩慢な動きではあるが、まだ立ち上がってくる。戦意を失ってはいない。
相手がやるというのなら、京介の方も折れるつもりは毛頭ない。
しかし、精神的なことはともかく、現実的な問題として、体の方が悲鳴を上げていた。今が好機、今こそとどめを刺せと頭の中で声がして、無茶言うな、と冷静な部分が訴える。
止まるな、動け、と心が叫ぶ。しかし、苦痛のせいで思考が乱れ、迷いや躊躇いや、余計な感情が気を散らす。腕も脚もぼろぼろで、立つのもやっとで、たったの一閃すら、刀を振るう力など湧きようもない。諦めに似た感情が体を戒めようとしていた。
そんな時だった。
「――……て」
声が、聞こえた。
俯けていた顔をはっと上げる。耳を澄ませる。余計な雑音をシャットアウトして、その声だけを拾い上げる。
「……か、て…………勝て、京介……」
掠れて、弱弱しい声。けれど、確かに届いた。
弁天の腕に抱かれ目を閉じる芙蓉の唇が、微かに動いていた。
たった一言は、まるで最強の魔法のようで。
傷だらけの体に、どこからか力が溢れ、漲る。
京介はぼろぼろで使い物にならなくなりつつあるシャツの袖を破って、右手と刀とに巻きつけまとめ、口を使ってきつく縛り上げた。もう刀は落とさない。どれだけ傷つき、刀を握る力さえなくなったとしても、それでも最後までこの刀で戦い抜く。敵を断ち斬ってみせる。
脚が動く。手が動く。余計な雑念が一切消えて、勝利のイメージだけが頭に残った。
大丈夫――後ろには、最強の味方がついていてくれる。
「我が盟約の剣よ、浄化の炎を纏いて魔を祓え――紅焔纏装!」
鮮やかな炎が沸き上がり、刀身を包む。一切の闇を焼き尽くす浄化の炎を纏った退魔刀・狩修羅。ありったけの力を焔に変えて、銀の刃を研ぎ澄ませる。
きっと芙蓉の声は王生にも届いていた。契約に縛られ、傷つき、意思を捻じ曲げられ――それでも芙蓉が、ぼろぼろになりながらも選んだ主の名は――。
王生ははっきりと絶望の表情を浮かべていた。自分の手の中にあると思っていたものが、決して手に入れることのできないものだったと思い知った顔だ。
「契約で縛ったって、邪魔な俺を消したって、芙蓉はお前のものにはならない」
呆然と立ち尽くす王生へ肉薄する。
京介は焔の太刀を一閃、歪んだ妄執ごと、王生を斬り裂いた。




