最後の敵は式神さん(1)
姫井栞奈はがくりと跪き、闇が跡形もなく消えて行くのを呆然と見ていた。
「あの子を……花朱雀を生み出すのに、私が、どれだけ……」
絶望しきった姫井の顔を見て、弁天は溜飲を下げる。姫井が花朱雀を生み出すのにどれだけ苦労し、どれだけ愛情を注いでいたか知らないが、所詮は死体で、人形だ。弁天にとっては生きている仲間の方が大事だし、仲間を傷つけられたことの方が大問題だ。
姫井は戦意を喪失しているように見える。放置しておいてとりあえずは大丈夫だろうと判断すると、弁天は紗雪に駆け寄る。ぐったりと横たわる紗雪の傍らに膝をつき、傷の具合を診る。かろうじて急所は外れているようだが、ワンピースはぐっしょりと血で濡れている。元々白い肌だとは思っていたが、いつにもまして血の気の失せた青白い顔をしている。
「紗雪御前」
呼びかけると、紗雪は力ない笑みを浮かべて言う。
「弁天さん……わたくし、なんだか変ですのよ。体がどんどん冷えていって……とても寒いですわ」
やはり血を流しすぎたのだろうか。氷を扱い冷気に耐性のあるはずの妖が寒いなど、ただ事ではない。
「最初で最後のお願いですわ、暖めてくださいませんか……できれば、服を脱いでいただいて、肌と肌を触れ合わせてですね」
「……お前、実は元気だね?」
「あん、ばれてしまいました?」
紗雪は悪戯っぽく笑う。一瞬本気で心配してしまったではないか、と弁天は軽く紗雪を睨む。
「傷口を凍結させましたの。応急処置ですが、とりあえず失血死は免れましたわ」
「成程。道理で、私も思った以上に動けたわけだ」
紗雪は同じ術を弁天にも施してくれていたらしい。腹をぶち抜かれた割には思い切り戦えたと思ったら、そういう理由だ。
「人の方にばかり気を回して、自分が不意を打たれたのでは世話がない」
「わたくし、こう見えて仲間第一主義ですのよ」
とりあえず、紗雪の怪我が命に別条があるようなものではないと解り、弁天は安堵の吐息を漏らす。
その時、視界の端で姫井がふらふらと立ち上がったのが解り、弁天ははっと顔を上げる。焦点の合っていないような虚ろな目で、姫井は何事かをぶつぶつと呟いている。
「もう一度……今度こそ、完璧に……私は、彼女を……」
そして姫井は弾かれたように走り去っていく。
それを横目に、紗雪が言う。
「弁天さん、敵が逃げましたわよ。何とかしてくださいな」
さらりと無茶な注文を付ける紗雪に、弁天は呆れかえる。
「怪我人を扱き使うのか。仲間第一主義はどうした」
「仲間のことは理解しているつもりですの。弁天さん、まだまだ戦えますでしょう」
「……ま、いいけどね」
弁天は肩を竦め立ち上がる。おそらく紗雪は、平気そうな顔をしてはいてもかなりつらい状態なのだろう。今すぐ死ぬような傷ではないといっても、元気に飛び回れるような状態でもないわけだ。
「お前はここで大人しくしてろ。お前よりは私の方がまだ余力がある。あの女を一発殴ったら迎えに来てやるよ」
「お願いしますわ」
にっこりと微笑む紗雪に見送られ、弁天は姫井を追いかけた。
姫井を追うのは簡単だった。彼女は脇腹と肩に手傷を負っている。そこから滴る血液が道標とばかりに床に残っている。それを辿るだけでよかった。無論、後を辿られることは姫井も解っているだろうから、逃げ切れるなどとは考えないはずだ。応戦覚悟で待ち構えていることだろう。
ほんの数分ほど進むと、血の痕は白い扉の前で途切れていた。弁天は右手の剣で扉を斬り破る。
扉の奥に広がっていたのは、薄暗い中で青白いライトが点々と灯る不気味な部屋だった。部屋の中央に、姫井の白い背中が見える。
そして、その周りを取り囲むようにして立ち並ぶ無数の――
「何だ、これは……」
弁天は想像していなかった光景に呆然とする。
置かれていたのは、円筒状の水槽だった。部屋中にずらりと立ち並ぶ、無数の巨大な水槽。中には青色の溶液が満たされており、その中に浮かんでいるのは、人体のパーツだった。
ある水槽には眼球、またある水槽には右腕、その隣は腎臓といった具合。
「お前の屍体人形の材料か」
問いかけると、姫井はゆっくりと振り返り、先程よりも幾分か理性を取り戻した目で弁天を睨み据える。
「ええ、そうよ。材料が揃えば、私はまた人形を作れる。今度はもっと、完璧な人形を」
「死者を冒涜してそんなに面白いか」
「冒涜、ね。確かに、死体をバラバラに分解して、良し悪しを吟味して、都合のいいところだけ奪い取るなんて、酷いことだわ。こんな作業、嫌気がさすわね。……ねえ、誰がこれを集めたか、解る?」
いっそ憐れむかのような調子で、姫井は告げる。
「芙蓉姫よ」
★★★
階段を上がりきり三階につくと、左右には赤い絨毯が敷かれた廊下が伸び、正面には大きく重厚な両開きの扉が構えている。灰色の廊下と無機質な扉が並んでいた二階とは一転して、品の良い洋館じみた内装だ。
しかし、扉を目の前にして、京介の肌はひしひしと感じていた――美しい意匠には明らかにそぐわない、品の良いとは言い難い強いな妖気が滲み出しているのを。
どす黒くて禍々しい。敵を圧倒する激烈な妖力の塊。しかし京介は臆することはない。今まで誰よりも近くで感じていた気配だ。
「ここで間違いない……この凶悪な気配」
思わず一人ごちた、直後。
扉が内側から吹き飛ばされてきた。
なんの前触れもなく壊れ吹き飛んでくる扉を間一髪で避けられたのは、日ごろの修行の賜物に他ならない。ぎりぎりのところで横合いに跳んでどうにか躱す。振り返ると、弾き飛ばされた大きな扉はそのまま背後の階段の下り口に引っかかり、ひしゃげて止まった。予想外の退路の塞がれ方である。
京介が開けるまでもなく開放された部屋の奥に、芙蓉姫がいた。
芙蓉は「自分がやりました」というのを隠す気もない。拳を振り抜いた態勢で待っていた。捕えられて大人しくなっているかと思えば、とんでもない。いつになく絶好調ではないか。
なんで壊したわけ? 京介が部屋の中に足を踏み入れ呆れた視線で問うと、芙蓉は不機嫌そうにのたまう。
「失礼な言葉が聞こえた気がして、つい」
「地獄耳か」
言ってから、それにしてもなんと間の抜けた再会だろうかと、京介は嘆息する。無理矢理に引き剥がされ、お互いいろいろとあって、ようやく叶った再会。涙ながらに喜びあって抱擁しましょうとまで言う気はないが、それにしたってこんなのってないだろう、と思う。
芙蓉はあからさまに苛立った調子で言う。
「よくもまあ、こんなところまでのこのこと来てくれたものだな」
「いやなに、お姫様が助けを求める声が聞こえた気がして」
「ならば行先が違うぞ。お前が行くべきは耳鼻科だ」
「真顔で医者勧めんのやめろよ耳はおかしくないから」
「いかれているのは頭の方だったか」
「いかれた言動ばっかりのお前にだけは言われたくない」
「お前の方が明らかにいかれている」
芙蓉は溜息交じりに吐き捨てる。
「他人の式神などのために心を砕くなど、馬鹿げている。馬鹿だ。お前は本物の馬鹿だ。前から馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけれど、やはり大馬鹿だ」
「馬鹿って言いすぎだろ!」
さすがに罵りすぎだろう、と京介は憮然とする。何か言い返してやろうと言葉を探していると、思考を打ち切るように、ぱん、ぱんと手を打つ音が響いた。どうやら最初からそこにいたらしい、部屋の奥の方で壁に凭れていた男、王生樹雨がにこやかに言った。
「最後の対話は終わったかな」
終わったならとっとと失せろとでも言いたげだ。京介は肩を竦める。
「こんなテキトーなノリの会話が最後でいいわけないだろ。もう少し空気を読め」
「悪いね。空気を読む力が鈍ってしまったんだ。なんせ三年近くも寝ていたからね、そう、君のせいで」
「お前が作った偽物のシナリオに興味はないんだ」
京介が王生を襲撃し、芙蓉を奪った、というのが、王生が考えたストーリー。自分が完全な被害者であると主張するために、無理やり辻褄を合わせようとした物語だ。中央会はそれを信じ込んでいる。糾弾された京介が抗弁をしなかったせいでもある。
しかし、仲間たちにはすべてを正直に打ち明けた。すべてを知ってなお、仲間たちはここまでついてきてくれた。ならば、もはや口を閉ざす理由はない。
「真実はそうじゃない。かつてお前と芙蓉は主従契約を結んでいた。本来、式神は主人に従順な存在であり、当初の芙蓉はそうだっただろう。けれど、その関係は破綻した」
この先の話は芙蓉から聞いた。出会ってしばらくして、少しは京介を信用する気になったらしい彼女が、主人から逃げ出した理由を打ち明けてくれた。ここからの話は口にするのが躊躇われる。しかし、覆い隠すわけにはいかない真実だ。
京介は一息に言う。
「お前は死んだ母親を生き返らせるために死者蘇生の研究に手を出した。そしてそれを止めた芙蓉を嬲り者にして強引に従わせようとした」




